24 小学生ー航太と櫂の夏休みー
美浜村の夏休みは、どこまでも青く、蝉の声と潮の香りに満ちていた。
入道雲が空高くモクモクと湧き上がるある日の午後、西浜家の長男・航太 (小学三年生)と、弟の櫂 (小学二年生)は、昆虫採集の網を片手に、村の裏手にある鎮守の神社へと駆け込んでいた。
境内のひんやりとした木陰には、ジリジリとけたたましい蝉の声が響き渡っている。
「にぃに、あそこ! クヌギの木に何か黒いのがいる!」
櫂が短い指で幹の先を指さした。駆け寄ってみると、樹液の滲む高い場所に、立派なノコギリクワガタががっちりと足を張り付かせている。
「おっ、すげえ! でかいぞ!」
航太は目を輝かせ、自分の虫取り網を精一杯伸ばした。だが、背が少し足りない。爪先立ちになり、全身をぐっと伸ばすが、網の枠がカチリと木の皮に当たるだけで、肝心のクワガタには届かない。
「うわ、もうちょっとなのに……!」
焦る航太の横で、ふと気配がした。見上げると、すぐ近くの木陰に、見慣れない一人の少女が立っていた。
航太と同い年くらいだ。
白いワンピースに麦わら帽子。日焼けした肌の航太たちとは違い、どこか透き通るように色白で、都会の雰囲気をまとった女の子だった。その手には小さな虫かごが握られているが、中身はまだからっぽだ。
「あ、あの……」
少女は少し気まずそうに、だけど何か言いたげに航太たちを見つめていた。名前は沢村 陽菜という。夏休みの間だけ、親の都合で美浜村の親戚の家に遊びに来ているのだということを、航太はこの後すぐ知ることになる。
「届かないの?」
陽菜が申し訳なさそうに言った。その声は、都会の子らしくどこか澄んでいた。
「うん、あと少しなのに、背が届かなくてさ……。あ、待ってろよ、今度こそ!」
航太は負けじと大きく息を吸い込み、思い切りジャンプしながら網を突き出した。
ガサッ!
乾いた音と共に、クワガタがぽとりと足元の草むらへ落ちた。
「あっ、逃げた!」
「あそこだ、急げ!」
航太と櫂が地べたを這うようにして草むらをまさぐり、見事にそのノコギリクワガタを捕らえた。「やったぁ!」と櫂が飛び跳ねる。航太はふぅと汗を拭い、捕まえたばかりの元気なクワガタを眺めた。
ふと視線を上げると、先ほどの少女が、少し羨ましそうに、でもうっとりと自分たちの手元を見つめていることに気づいた。
航太はなぜだか急に胸がこそばゆくなり、そして、ほんの少しだけかっこつけたいような、照れくさいような気分になった。
「……これ、お前、欲しいか?」
航太は自分の虫かごに入れる代わりに、その立派なクワガタをそっとつまみ、陽菜の方へ差し出した。
陽菜は目を見張り、驚いたようにパチパチとまばたきをした。
「えっ……いいの? 私、ずっと探してたけど、全然捕れなくて……」
「いいよ、俺たち、さっきから何匹か捕まえてるし。ほら、持っててみろよ、挟まれるなよ?」
「うん……!」
陽菜が両手をそっと差し出す。その手のひらにクワガタを乗せてやると、陽菜の顔にパッと華が咲いたような、まぶしい満面の笑みが広がった。
「わあ……すごい! 動いてる! ありがとう、ええと……」
「航太だよ。こっちは弟の櫂」
「私は陽菜。沢村陽菜。……ねえ、航太くん、すごいね。この村のこと、何でも知ってるの?」
「まあな! 俺、ここで生まれ育ったからさ。あそこの海岸の裏とか、秘密の場所いっぱいあるんだぜ」
その日の夕方から、航太と陽菜、そして櫂の三人は、まるで昔からの友達だったかのように一緒に村を歩くようになった。
夕日に染まる防波堤を並んで歩きながら、陽菜はポツリと、少し寂しそうな声を漏らした。
「私ね、東京から来たの。お父さんとお母さん、お仕事でいつも忙しくて……。今年の夏休みも、一人でおばあちゃんの家に預けられたの最初は、誰も知り合いなんていないし、蝉の声もうるさいし、なんだかすごく心細かった……」
陽菜の横顔を見たとき、航太の胸の奥がキュッと締め付けられた。
なんだか、数年前に母親のナギが抱えていた、あの寂しそうな影に似ている気がしたのだ。――いや、少し前、自分たちが「母ちゃんが人魚だったらどうしよう、見世物にされるかもしれない」と怯えて震えていた、あの夜の心細さに似ているのかもしれない。
人の心にある見えない不安や孤独を、航太は子どもなりに敏感に感じ取っていた。
「寂しくなんかないさ!」
航太はわざと大きく、元気な声を出して、夕暮れの海に向かって胸を張った。
「夏休みなんてあっという間だしさ! 俺たちがいるだろ? 明日はもっとすげえ場所教えてやるよ。潮だまりにいるヤドカリのレースとか、ウニのトゲの数とかさ!」
「うんっ!」
陽菜の瞳に、夕日がキラキラと反射して輝いた。さっきまでの不安が嘘のように消え去り、陽菜は子供らしい無邪気な笑顔を見せた。
その笑顔を見た瞬間、航太はなぜだか顔がカッと熱くなるのを感じて、慌てて海の方へ顔を背けた。
それからの日々、美浜村の夏は航太たちにとって特別なものになった。
一緒に貝殻を拾い、冷たいラムネを分け合い、時には日焼けした肌で泥だらけになりながら走り回った。櫂もすっかり陽菜に懐き、「ひなちゃーん、こっち見て! すごいカニいた!」と毎日のように手を引いて回った。
そして、夏休みも終盤に差し掛かったある日のこと。
西浜家のリビングには、いつものように温かい家族の空気が満ちていた。
あの時見つけた焦げた写真の秘密も、今では笑い話になり、家族の絆をより一層強いものにしていた。人間の世界で生きる母・ナギの笑顔は、昔よりもずっと柔らかく、そして美しかった。
夕食のハンバーグを囲みながら、航太はふっと、ここ数日間の陽菜との出来事を思い出していた。
「ねえ、父ちゃん、母ちゃん」
航太が箸を止めると、青が「ん?」と顔を上げる。ナギも優しい瞳で息子を見つめた。
「あのさ、東京から来てる陽菜ちゃんって子がいるんだ。すっごく東京の都会っ子って感じで、最初は静かだったんだけどさ、最近はめちゃくちゃ虫も触れるようになったし、笑うとすっげえ可愛くて……って、あれ?」
櫂がニヤニヤしながら「にぃに、顔が真っ赤だぞ~!」と茶化す。
「うるせえ、櫂! そういうのじゃねえよ!」
航太は慌てて両手で自分の頬を押さえた。リビングに、家族みんなの明るい笑い声が響きわたる。
ナギは嬉しそうに目を細め、航太の頭をそっと撫でた。
「ふふっ、航太にも、大切な友達ができたのね。なんだか、昔の私と青くんを見ているみたい」
「おいおい、俺の時はもっと渋かったぞ?」と青が笑いながら腕を組む。
「何言ってるの、青くんはあの時、すごく挙動不審だったわよ」
「えっ、マジかよ……」
親たちのそんな軽口を聞きながら、航太は自分の胸の奥が、温かくて甘いもので満たされていくのを感じた。
――母ちゃんが海からこの村にやってきて、人間として生きると決めたように。
――自分たちが、あの写真を通じて家族の歴史と本当の絆を知ったように。
この美浜村の青い海と優しい風は、いつだって迷える誰かの心を包み込み、新しい物語を紡ぎ出してくれるのだ。
「明日さ、みんなで陽菜ちゃんを連れて、あの夕日の見える防波堤に行こうよ」
航太が真っ直ぐな瞳で言うと、櫂が「賛成! アイス食べたい!」と手を挙げ、青とナギも大きくうなずいた。
窓の外では、美浜村の夜の海が、まるで無限の優しさをたたえるかのように、どこまでも穏やかに、銀色の波を寄せては返していた。
家族の温もりに包まれたリビングで、少年たちの夏は、これからも眩しく、鮮やかに続いていくのだった。
読んでいただき、ありがとうございます☺️
青とナギ、航太と櫂ー西浜家の物語はこれで終わりです。
また、アイデアが湧いてきたら、載せたいです。




