22 ナギがいない青の中学時代
1
二年生に進級した春の終わり、統合された新校舎の中庭には、新しい風が吹き抜けていた。
木製のベンチに腰掛け、青はぼんやりと空を見上げる。色とりどりの制服が行き交うこの広い中学校には、かつての小さな小学校の面影はない。隣の地区から集まった生徒たちのざわめきが、どこか遠くの出来事のように耳をかすめていった。
「おい、青。数学の宿題、見せてくれよ」
そう言って隣にドカッと腰を下ろしたのは、相変わらず大柄でよく通る声をしたゴンちゃんだ。そのすぐ後ろから、少し気怠そうに、しかしどこか落ち着いた足取りで京子が歩いてくる。
「また忘れたのかよ、ゴンちゃん。自分でやれって」
「いいじゃねえかよ、親友だろ! なあ、京子もそう思うよな?」
「私は自分でやったわよ。ゴンちゃんがサボるからでしょ」
京子は呆れたようにため息をつきつつも、青の隣の空いたスペースにすっと座った。
三人で同じクラスになり、休み時間はいつもこうして固まって過ごすようになった。小学校の頃は小さな村の学校なので、一クラスしかなく、学年に関係なくみんなで遊んでいた。ゴンちゃんと青は微妙な距離感があったりしたけれど、この新しい中学校に来てからは不思議と行動を共にする時間が増えている。
ゴンちゃんは相変わらず部活の話題や購買のパンのことで頭がいっぱいで、その無邪気な明るさが場を和ませていた。
京子は少し大人びて、周りの女子グループの中心にいながらも、どこか冷めた目で周囲を見渡す癖があった。そして青は、そんな二人の中心にいながら、時折、胸の奥の澱のようなものを静かにやり過ごしている。
──ナギがいなくなってから、もうすぐ二年が経つ。
あの小5の別れの日、満月が煌々と輝く防波堤でナギを見送った夜の冷たさを、青は今でも生々しく覚えている。
学校では、「ナギは急に母親が迎えにきて、遠くの学校へ転校したんだ」とゴンちゃんや京子には説明してあった。人魚だなんて到底言えるはずもなく、どこか不自然なその嘘を、二人はそれ以上深く追求しなかった。いや、追及できなかったのかもしれない。ナギという存在が、まるで最初から蜃気楼だったかのように、ある日突然スッといなくなったことだけが現実だった。
「なあ、青」
ふと、ゴンちゃんがアイスの包み紙をクシャクシャに丸めながら言った。
「来週の土曜日さ、みんなで駅前の新しいショッピングモールに行かないか? 京子も行くよな?」
「私は別にあんたにつきあうわけじゃないけど……」京子は言いよどみながらも、ちらりと青の横顔を盗み見た。「青は、どうするの?」
「俺か? うーん、別にいいけど……」
青の歯切れの悪い返事に、ゴンちゃんは「なんだよ、歯切れ悪いな。最近お前、ボーッとしてること多くねえか?」と笑い飛ばす。
図星だった。青の心の中には、いつもあの海があった。波の音があった。そして、月明かりの下で泣きながら海へと帰っていった、青く輝く尾ひれの少女の残像がこびりついて離れない。
どれだけ時間が経っても、どれだけ日常が新しく塗り替わっていっても、心の奥底の鍵がかかった部屋には、今でもナギが住んでいた。
2
放課後、校庭の隅にある古い藤棚のベンチ。
部活をサボったわけではないが、少し頭を冷やしたくて、青は一人でそこに座っていた。夕暮れのグラウンドでは、陸上部が走るスパイクの音が乾いたリズムを刻んでいる。
「ここにいたんだ」
足音がして振り返ると、そこには京子が立っていた。夕陽を背負った彼女の髪が、微風に揺れている。小学校の頃のあどけなさは薄れ、すっかり大人びた横顔になっていた。
「京子か。どうしたんだよ、部活は?」
「今日は早上がり。……それより、青こそ、こんなところで何してるの?」
京子は青の隣にそっと腰を下ろした。二人の間に、わずかな沈黙が落ちる。遠くから聞こえる生徒たちの笑い声だけが、やけに鮮明に耳に届いた。
「別に……ちょっと風にあたってさ」
「ふーん」
京子は視線を足元に落とし、自分のスニーカーのつま先をトントンと地面につけた。何か言いたげな、けれど言葉を探しているような、そんなもどかしい空気が彼女の周りに漂っている。
胸の鼓動が少し早くなるのを、京子は必死に抑え込んでいた。ずっと言えなかったこと。この胸の奥にしまい込んで、錆びついてしまいそうだった本当の気持ちを、今日こそは言葉にしなければならないと、彼女の直感が告げていた。
「ねえ、青」
「ん?」
「あのさ……ずっと、言おうと思ってたことがあるの」
京子の声が、ほんの少しだけ震えていた。青は不思議そうに彼女を見る。
「なんだよ、改まって」
「ふざけないでよ、真面目なんだから」
京子はぐっと両手を膝の上で強く握りしめた。見えない何かに耐えるように、唇をきゅっと噛み締める。
小学校の運動会の頃からずっと、青の背中を目で追っていた。あの転校生――ナギが現れて、青の隣で笑い合っているのを見たとき、胸が締め付けられるような嫉妬と焦燥感に襲われた。
あの頃、ナギがいなくなってホッとした自分がいたことも事実だ。これで青が自分の方に向いてくれるかもしれないという、淡い期待があったから。
だけど、違った。
ナギがいなくなってからの青は、どこか遠くを見つめるようになった。体はここにいても、心はいつも別の場所にある。それが誰のせいなのか、京子には痛いほど分かっていた。分かっているのに、それでも抑えきれない想いが、彼女の胸を焦がしていた。
「私ね、ずっと青が好きだったの」
静かな夕暮れの空気に、その言葉が溶けた。
「……え?」
青は目を見開き、言葉を失った。頭の中が真っ白になる。京子の口から発せられたその告白は、あまりにも真っ直ぐで、あまりにも重かった。
「小学生の頃から……ううん、もっと前からずっと、青を目で追ってた。ゴンちゃんみたいにバカなこと言って笑ったり、いざという時にすごく真剣になったりする青が、ずっと好きだったの」
京子はゆっくりと顔を上げ、青の目をまっすぐに見つめた。その瞳には、涙の膜がうっすらと張っていた。震える声を必死に抑えながら、彼女は続ける。
「ナギがいなくなってからも、ずっと待ってた。青がこっちを向いてくれるのを、いつか私の気持ちに気づいてくれるのを、ずっと……!」
感情が決壊するように溢れ出たその言葉は、京子の胸の痛みをそのまま形にしたものだった。恥ずかしさも、プライドも、すべて投げ打って告げた彼女の切実な想いが、夕暮れのベンチの空気を重く揺らす。
3
青の胸の奥で、激しい波音が鳴り響いた。
――京子が、自分を好きだと言ってくれている。
頭では分かっている。京子がどれほど優しくて、どれほど自分を長い間見つめ続けてくれたのかも。ゴンちゃんや他の誰よりも近くで、自分の変化に気づいてくれていたのも京子だ。彼女の告白は誠実で、温かくて、本当なら、同じようにその手を握り返すべきなのだろうと、青の理性は告げていた。
けれど、動かない。体が、心が、どうしても拒絶してしまう。
「……京子、ごめん」
絞り出すような青の声に、京子の表情がわずかにこわばった。
「……どうして、そんなにすぐ謝るのよ。返事なんて、すぐに出さなくていいのに……」
「ううん、ダメなんだ。今、答えなきゃいけない気がするから」
青は自分の胸にそっと手を当てた。そこにあるのは、温かな恋愛感情なんかじゃない。冷たい潮風の匂いと、夜の海の冷たさ、そして小さな手のぬくもりだった。
「俺は……京子の気持ちに応えられない」
「どうして……? 私じゃ、ダメなの?」
「京子は悪くないよ。むしろ、すごく嬉しいし、こんな俺なんかをそんな風に思ってくれて、本当に感謝してる」
青の言葉は優しかった。だからこそ、残酷だった。拒絶の理由が自分以外の何処かにあることを、京子は痛いほど察知してしまう。
「違うよ、京子の中には入れないんだ」
「……え?」
「俺の中には、まだ……ナギがいるんだよ」
その名前が出た瞬間、周囲の空気が凍りついたように静まり返った。
「ナギ……ちゃん?」
京子の声がかすれた。ナギの名前は、この二年間、誰も口にしなかったタブーだった。ゴンちゃんも、他のクラスメイトも、時間が経つにつれてあの転校生の記憶を薄らせていったのに、青の中では一歩も時間が進んでいなかったのだ。
「あの子が遠くに行って、もうすぐ二年になるのに……私じゃダメなの? もう会えない人のこと、いつまで引きずってるのよ!」
京子の声に、ついに涙が混じった。抑え込んでいた感情が溢れ出し、彼女の肩が小さく震える。嫉妬と悔しさと、どうしようもない虚しさが、彼女の胸を切り裂いていた。架空の記憶、あるいは幻のような少女に負けたのだという現実が、冷たく突き刺さる。
「わかってる……こんなの、おかしいよな。もう二度と会えないかもしれないやつのこと、いつまでも引きずってるなんて、自分でも変だっておもう」
青は自分の両手を見つめた。あの夜、防波堤でナギを抱きしめた感触が、今でも手のひらに残っている。
「でも、消えないんだ。あいつと過ごしたあの短い時間も、あの海でのことも、俺の中で全部鮮明に生きてる。ナギが俺の中にいるうちは……他の誰かを好きになるなんて、できないんだよ」
青の瞳にも、熱いものがこみ上げていた。それは泣き出しそうな自分を必死にこらえるための色だった。
4
夕陽が沈みかけ、空のグラデーションが深い藍色へと変わっていく。
藤棚の影が長く伸び、二人の足元をすっぽりと包み込んでいた。
京子は下を向いたまま、ぽろり、ぽろりと大粒の涙をアスファルトに落とした。自分の恋が散った音がした。けれど、不思議と怒りは湧いてこなかった。青があまりにも真剣に、あまりにも苦しそうにその名前を口にしたからだ。あんな表情をされたら、これ以上何かを迫ることは、誰にもできない。
「……バカね、青って」
京子は鼻をすすり、乱暴に袖で涙を拭うと、無理やり笑ってみせた。その笑顔はひどく切なく、夕闇の中で痛々しく揺れていた。
「そんな顔して言われたらさ……私、もう何も言えないじゃない」
「京子、本当に……ごめん」
「謝らないでよ。謝るくらいなら、私のこと少しは好きになってよ……なんてね」
京子はゆっくりと立ち上がった。震える足を叱咤するように、彼女は背筋を伸ばす。
「失恋しちゃったな、私」
自嘲気味につぶやいた声は、夜の風にかき消されそうだった。
「でも……知ってた。青がずっと、あの日の海を見てることくらい、最初からなんとなく気づいてたもん」
「京子……」
「これ以上泣いたら、ブサイクになるから帰る。明日の朝、腫れた目で学校に来ても笑わないでよね」
そう言い残すと、京子は背中を向け、振り返らずに歩き出した。その足取りは少し頼りなげだったが、懸命に前を向いて進もうとしている背中だった。
青はベンチに座ったまま、その背中が見えなくなるまでじっと見つめていた。
胸を締め付けるような罪悪感と、どうしようもない孤独感が、夜の冷気とともに身体に染み込んでいく。
「……ごめんな、京子」
誰にも届かない声を小さく呟き、青は夜空を仰いだ。
街灯がぽつりぽつりと灯り始める。遠くの闇の向こうで、静かに波の音が聞こえた気がした。
胸の奥の鍵がかかった部屋で、今もあの青い海の少女が静かに微笑んでいるような気がして、青は唇を噛みしめながら、冷たい夜風の中を一人で歩き出した。
この物語は、青い海のナギの掌編の1つですが、青い海のナギは本編を完結させたら、まだ描いていなかった物語が沢山出てきて書き始めた作品集です。
ナギのいない青の中学時代もそんな物語の1つです。
物語では触れていないですが、京子は中学を卒業したら、お父さんの転勤で都会で暮らすことになります。




