第1話 俺の「大丈夫」は、まったく信じてもらえない
朝食の席に着いた瞬間、俺は自分の判断ミスを悟った。
セレーネ女王陛下が、俺の隣に座っていた。しかも、反対側にはエスタ王女殿下がいる。左右を王族に挟まれるという、またしても一般庶民なら一生に一度もない状況。
「ツナマル様、たくさん食べてくださいね」
隣から、鈴を転がすような落ち着いた声が聞こえた。
セレーネ陛下は、優雅に微笑んでいる。艶のある銀髪を肩に流し、ゆったりとした仕草でカップを持ち上げる。その何気ない動作ひとつさえ絵になるのだから、王族というのは反則だと思う。
「あ、はい。ありがとうございます」
セレーネ陛下は安心したように目を細めた。そして、俺の襟元に手を伸ばしてくる。
「少し、曲がっていますね」
「えっ?」
指先が、首筋のすぐそばをかすめた。
近い。顔が近い。しかも、いい匂いがする。
落ち着け、俺。相手は女王陛下だ。美人だからといって動揺するな。俺は金貨一万枚を受け取って、余生をのんびり過ごす男。うつつを抜かしている場合じゃない。
陛下は俺の襟をそっと整えると、満足そうに微笑む。
「はい。これで大丈夫です」
「ど、どうも……」
陛下は俺の顔を覗き込み、意味ありげに微笑んだ。
「頬が赤いようですが」
「朝食が熱いんですよ!」
「まだ何も食べていませんよ?」
「……この部屋、暖房が効いてますね!」
「ふふっ。そういうことにしておきましょうか」
絶対に面白がっている。この人、俺が動揺するのをわかってやっているんじゃないだろうな。
「ツナマル!」
反対側から、勢いよく声が飛んできた。
「一緒に朝ごはんだな」
「そうですね」
エスタは嬉しそうに笑い、俺の腕に頬を寄せた。その無邪気な笑顔を見ていると、強く振りほどくこともできない。
「エスタ。ツナマル様が困っていますよ」
セレーネ陛下が穏やかに口を挟んだ。
「えーっ。お母様だって、さっきからツナマルにくっついてるじゃない!」
「私は襟を整えていただけですよ」
なんだ、この会話。そして、なぜ俺を挟んで親子喧嘩を始めるんだ。
セレーネ陛下の手はいつの間にか俺の手元に伸びていた。指先がそっと触れ、俺の手を包み込む。
「それより、ツナマル様。朝食をいただきましょう。冷めてしまいますから」
「は、はい……」
右腕にはエスタ。左手はセレーネ陛下に握られている。
ここは本当に朝食の席なのか?
緊張しっぱなしだ。俺はもっとこう、平和で、穏やかで、誰にも心配されず、ひとりで好きなものを食べる生活を想像していたのだが。
「こちらの卵料理はいかがですか?」
セレーネ陛下が、俺の皿に料理を取り分けてくれる。
「あ、ありがとうございます」
「遠慮はいりませんよ。あなたには、もっと食べていただきたいのですから」
さらに料理が増えた。
「えっ、いや、陛下?」
「好き嫌いはありませんか?」
「ありませんけど……」
「よかった。では、こちらも」
「待ってください、もう十分です!」
思わず声を上げると、陛下の手が止まった。その表情から、すっと笑みが消える。
「……ツナマル様?」
「えっ」
「食べるのも、つらいのですか?」
違う。そうじゃない。陛下は、俺の手を優しく握り直した。
「あなたは、私たちを救うために大きな代償を払ったせいで、食が細くなったのですか?」
俺は、この人たちに嘘をついている。呪いを解除したとき、俺が何か取り返しのつかない代償を払ったのだと信じている。
だから、俺のことを過剰に心配してくれる。そして、俺が元気だと説明すればするほど、無理を隠していると思われる。
……自業自得とはいえ、面倒くさい。
「陛下、本当に大丈夫ですから」
陛下は優しく微笑んだ。その笑顔が、かえって怖い。
「ええ。わかっていますよ。あなたが私たちを安心させようとして、無理をしてしまうことも」
「いや、違っ……」
「大丈夫。焦らなくていいのです。ここでは、何も気にせず甘えてくださいね」
違うんです。俺が気にしているのは、自分の嘘がばれないかどうかなんです。でも、そんなことを言えるわけがなかった。
「ツナマル……」
今度はエスタ殿下が、俺の腕をぎゅっと抱きしめた。
「私はちゃんと見てるからな」
「な、何をでしょうか?」
「ツナマルが無理してないかどうか!」
「は、はあ……」
エスタが、フォークに小さく切った卵料理を乗せて差し出してきた。
「栄養のある物を食べろ!」
「自分で食べますので」
「私のフォークでは食べられないと言うのか!」
「いえ、そのようなことは」
差し出されたフォークが口に運ばれる。卵料理は、普通に美味しかった。
「……美味しいです」
エスタは心底嬉しそうに笑った。その笑顔を見ていると、なんだかこちらまで頬が緩みそうになる。
……いかん。
このままだと、どんどんペースを握られてしまう。
朝食はまだ半分も終わっていない。そして俺は、すでに疲れていた。肉体的には、まったく問題ない。問題があるのは、胃と精神のほうだ。
はやく金貨一万枚を受け取って、誰にも邪魔されずに昼寝ができる生活を手に入れたい。
王宮の庭園は、穏やかな陽光に包まれていた。
色鮮やかな花々が咲き誇り、噴水から涼やかな水音が響いている。手入れの行き届いた植え込みの向こうには、白い石造りの東屋が見えた。
俺は庭園の一角に設けられた椅子に座り、ぼんやりと景色を眺めていた。
「……平和だな」
思わず、そんな言葉がこぼれる。
食事は美味い。部屋は豪華。寝具は最高。侍女たちは親切で、頼めば大抵のものは用意してくれる。
働かずに暮らす環境としては、これ以上ないほど恵まれていた。
ちょっと待て、このままここで一生暮らした方がいいじゃないか。いや、でも嘘がバレたら処刑コースもあり得る。それは嫌だ。
てことで、やっぱり約束された金貨一万枚を受け取って帰ろう。それさえ手に入れば、俺の人生は安泰だ。毎日好きなだけ寝て、美味いものを食べ、面倒な仕事とは無縁の生活を送る。
前世では働きすぎて死んだのだ。
今世くらい、楽をしたって罰は当たらないだろう。
「ツナマル様。お加減はいかがですか?」
隣から、柔らかな声が聞こえた。顔を向けると、セレーネ女王陛下が俺を見つめていた。美しい銀髪に、気品あふれる佇まい。女王としての威厳を備えながらも、その表情には俺を気遣う優しさが浮かんでいる。
「大丈夫です。こうして外の空気を吸うのも、気持ちがいいですね」
「そうですか。それならよかったです」
陛下は安堵したように微笑んだ。
俺がここにいるのは、陛下と一緒に庭園へ出てきたからだ。俺がひとりで自分の足で歩いてきたわけではない。俺は今、自力で歩くことができないという設定を自分に課している。なので陛下の肩を借りながら歩いた。
陛下たちは、俺が二人を救うために重大な代償を払ったと、心の底から信じているわけで。それくらいしないと辻褄が合わない感じなのだ。
だからこそ、こうして外へ出るにも人の手を借りる必要がある。
「ツナマル様」
「はい?」
「少し寒くはありませんか?」
「いえ、特には」
「そうですか……」
陛下は俺の顔をじっと見つめたあと、そっと自分の手を伸ばした。
「失礼いたしますね」
「えっ?」
指先が、俺の頬に触れた。ひんやりとした手が、熱を確かめるようにそっと頬を撫でる。
「……お顔の色は悪くないようですね」
「そ、そうですか」
「ええ。ですが、少しでも寒いと感じたら、すぐにおっしゃってくださいね」
「はい」
陛下の手が離れる。
体調を確認してくれたのだろう。そう理解しているのに、心臓が落ち着かない。
相手は女王陛下だぞ。しかも、俺はこの人の命を救った恩人ということになっている。変な期待をするな。
これはあくまで恩返しの一環だ。
そう自分に言い聞かせていると、陛下が小さく首を傾げた。
「……ツナマル様?」
「は、はい!」
「どうかなさいましたか? 急に顔が赤くなったようですが」
「い、いえ! 何でもありません!」
「あら。そうですか?」
陛下は意味ありげに微笑んだ。
「今はこうして、あなたが穏やかに過ごされている姿を見られるだけで、私は幸せなのです」
「……陛下にそんなことを言っていただけるなんて」
「ふふっ。そんなに改まらないでください」
そう言って、陛下は俺の手を取った。
「これからは、もっと私を頼ってくださいね」
「えっ……」
手を、握られている。しかも、指先を包み込むように、優しく。
「何か欲しいものがあれば、遠慮なくおっしゃってください。あなたが望むことなら、できる限り叶えて差し上げたいのです」
「いや、でも……」
「遠慮なさらないで」
陛下が、少しだけ顔を寄せる。
「あなたは、私にとって大切な方なのですから」
……待て。それは、どういう意味だ。
いや、恩人として大切に思ってくれているのはわかる。わかるのだが。そんな距離で、そんな優しい声で言われたら、勘違いしそうになるだろうが。俺は慌てて視線を逸らした。
「……ありがとうございます」
陛下は満足そうに微笑んだ。そして、俺の手を握ったまま、指先でそっと手の甲を撫でる。
「……っ」
思わず肩が跳ねた。
「ふふっ。可愛らしい反応をなさるのですね」
陛下がこちらを見つめる。その瞳には、大人の余裕を感じさせる穏やかな光が宿っていた。
「私は、あなたのそういう素直なところも好きですよ」
「…………」
駄目だ。この人、こちらがどう反応していいかわからないことを、平然と言ってくる。
俺は必死に頭を働かせた。
金貨一万枚。そうだ、金貨一万枚だ。俺は自由な生活を手に入れるために、ここまでやってきた。女王陛下に甘やかされて、人生の目標を見失っている場合ではない。
「……陛下」
「はい、ツナマル様」
「私は、本当に大丈夫ですから。あまりお気遣いなさらなくても……」
言いかけて、俺は口を閉じた。
しまった。この言い方はまずい。
陛下は俺を見つめたまま、少しだけ表情を曇らせた。
「……あなたは、いつもそうおっしゃいますね」
「え?」
「ご自身のことよりも、周りのことを気にかけてくださる」
「いや、そういうわけでは……」
俺は単に、これ以上過保護にされると身動きが取れなくなることを危惧している。
しかし、陛下は俺の手を両手で包み直した。
「あなたは、私たちのために十分に頑張ってくださいました」
陛下のおでこが俺のおでこにコツンとぶつかる。
その声は、どこまでも優しかった。
冗談でも、社交辞令でもない。陛下は本気で、俺のことを心配してくれている。
だからこそ、胸の奥が少しだけ痛んだ。俺は、そんな立派な人間じゃない。金貨一万枚が欲しくて、大げさな演技をしただけなのだ。
それなのに、この人は俺を信じて、こんなにも大切にしてくれる。
「……ありがとうございます」
結局、俺にはそう答えることしかできなかった。陛下は嬉しそうに微笑むと、おでこを離して俺の手をそっと握り続けた。
「ええ。これからも、ずっとそばにいますからね」
隣に座る女王陛下の温もりと、優しい眼差しを意識してしまうと、どうにも落ち着かない。
俺は空を見上げ、心の中でため息をついた。




