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「昔の君の方が好きだった」と言われたので婚約を解消しました  作者: 黒猫と珈琲


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第6話 桃のタルト

 それから数週間が過ぎた。


 季節は春から初夏へと移り変わろうとしていた。


 花壇の花はすっかり見頃を迎えている。

 最初は小さな苗だった花々が、今では色鮮やかに咲き誇っていた。


「シャルロット様!」


 エマが嬉しそうに駆け寄ってくる。


「見てください!」


 花壇を指差す子どもたちの顔は誇らしげだった。


「本当に綺麗ね」


 シャルロットは微笑んだ。


「みんなが頑張ったからよ」


 すると子どもたちは得意そうに笑う。


 そんな様子を見ているだけで、幸せな気持ちになった。


「ちゃんと育ちましたね」


 聞き慣れた声がした。


 振り返ると、アルベールが立っている。


「ええ」


 自然と笑顔になる。


 彼も花壇を見つめて微笑んだ。


「子どもたちも嬉しそうです」

「そうですね。子どもたちの笑顔を見ると嬉しくなります」


 その横顔を見ていると、不思議と心が落ち着く。


 少し前までは気づかなかった。


 けれど今は分かる。


 あの日からずっと。


 自分はこの人に会えるのを楽しみにしていたのだと。


 花壇の完成を祝って、小さなお茶会が開かれた。


 院長が用意してくれた焼き菓子を囲みながら、子どもたちは楽しそうにはしゃいでいる。


 ジョシュアが大きな声で言った。


「来年はもっと大きな花壇にする!」

「その前に毎日お水を忘れないことですね」


 アルベールが笑う。


 周囲から笑い声が上がった。

 シャルロットも思わず吹き出す。


「楽しそうですね」

「ええ」


 アルベールも笑った。


「こういう穏やかな時間が好きなんです」


 アルベールは小さく微笑んだ。


 子どもたちを見る目は優しい。


 本当にこの人らしいと思う。


 その時、アルベールの視線がふとこちらへ向いた。


「今日は桃色ですね」

「え?」

「リボンです」


 言われて胸元を見る。


 確かにドレスのリボンは淡い桃色だった。


「好きな色なので、つい選んでしまったのかもしれません」


 そう答えると、アルベールは柔らかく笑った。


「よくお似合いです」


 胸がどくりと鳴った。


 ただそれだけの言葉なのに。


 どうしてこんなに嬉しいのだろう。


 アルベールは何事もなかったように紅茶へ視線を戻している。


 けれどシャルロットは、しばらく落ち着かなかった。


 そして初夏を迎えた頃。


 シャルロットは二十歳の誕生日を迎えた。


 家族に祝福され、穏やかな時間を過ごしていた午後。


 来客があった。


 応接室へ向かうと、そこにはアルベールが立っていた。


「お誕生日おめでとうございます」

「ありがとうございます」


 少しだけ緊張した様子で、アルベールが小さな箱を差し出す。


「受け取っていただけますか」

「もちろんです」


 箱を開いた瞬間、シャルロットは目を見開いた。


「まあ……」


 中には小ぶりな桃のタルトが入っていた。


 艶やかな桃が丁寧に並べられている。


 華美ではない。


 けれど、見た瞬間に心が温かくなる贈り物だった。


「どうして桃のタルトを?」

「以前、桃の花も桃のタルトもお好きだとおっしゃっていたので」


 胸が熱くなる。


 それを覚えていてくれた。


 ただ、それだけのことが嬉しかった。


「ありがとうございます」


 シャルロットは微笑む。


「とても嬉しいです」


 その言葉に、アルベールは安堵したように笑った。


 桃のタルトを切り分けて、一緒にいただくことになった。


 窓から初夏の風が吹き込む。


 穏やかな時間だった。


 けれど、どこか緊張している。


 アルベールも同じらしかった。


 何度か口を開いては閉じる。


 そして意を決したように顔を上げた。


「シャルロット様」

「はい」


 真っ直ぐな視線が向けられる。


 思わず息を呑んだ。


「私は……あなたといる時間が好きです」


 胸が大きく鳴る。


 アルベールは少し困ったように笑った。


「研究なら得意なのですが、こういうことは上手く言葉にできません」


 それでも視線は逸らさない。


「気づけば孤児院へ行く日が楽しみになっていました。花壇を見るのも好きです。子どもたちと話すのも好きです」


 そして静かに続けた。


「でも、一番楽しみだったのは」


 わずかに息を吸う。


「あなたに会うことでした」


 胸が震えた。


「気づけば、あなたのことを考える時間が増えていました」


 アルベールは少し照れたように笑う。


「もっとあなたを知りたいと思っています」


 目の奥が熱くなった。


 この人は最初から変わらない。


 今の自分を見てくれる。

 知ろうとしてくれる。


 そのことが何より嬉しかった。


「アルベール様」

「はい」


 シャルロットは微笑んだ。


 もう迷いはない。


「私も同じ気持ちです」


 一瞬、アルベールが目を見開く。


「気づけば、次にお会いできる日を待つようになっていました」


 シャルロットは少しだけ照れながら続ける。


「あなたのことをもっと知りたいですし、私自身のことも知っていただきたいです」


 そして、ゆっくりと言った。


「ゆっくりで構いませんから」


 アルベールはしばらく何も言えなかった。


 やがて、いつもより少しだけ幸せそうに微笑む。


「ありがとうございます」



 その日の夜。


 シャルロットはヴィンセントにすべてを話した。


 兄は最後まで聞くと、大きくため息をついた。


「やっとか」

「兄様」

「本当にやっとだよ」


 呆れたように笑う。


「見ているこっちがじれったかった」

「そんなにですか?」

「そんなにです」


 きっぱり言われてしまい、思わず笑った。


 するとヴィンセントは、優しく妹を見つめる。


「ロッテ」

「何?」

「幸せになりなさい」


 その言葉に胸が熱くなる。


 シャルロットはゆっくり頷いた。


「はい」


 窓の外では、初夏の風が吹いていた。


 花壇に咲いた桃色の花が揺れている。


 あの日、婚約を解消した時には想像もできなかった未来。


 けれど今なら分かる。


 自分で選んだからこそ辿り着けた場所がある。


 そして、その先には。


 今の自分を見てくれる人がいた。


【完】


ここまで読んでいただきありがとうございました!


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