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「昔の君の方が好きだった」と言われたので婚約を解消しました  作者: 黒猫と珈琲


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第5話 まだ名前のない気持ち

 孤児院でアルベール・ノーウッドと出会ってから、一か月ほどが過ぎた。


 花壇の花は少しずつ育っていた。


 最初は小さな苗だったものが、今では色鮮やかな花を咲かせている。


「シャルロット様!」


 子どもたちが元気よく駆け寄ってきた。


「見て見て! 花が咲いたよ!」


「本当ね」


 淡い桃色の花が春風に揺れている。


 アルベールが勧めてくれた花だった。


「綺麗でしょう?」


 穏やかな声が聞こえた。


 振り返ると、アルベールが立っている。


「ええ、とても」


 シャルロットは微笑んだ。


「子どもたちも大切に育ててくれたのね」


「毎日競争のように水をあげていますから」


「僕が一番やってる!」


「違うもん!」


 すぐに言い争いを始める子どもたちに、二人は顔を見合わせて笑った。


 不思議と心が落ち着く。


 無理をしなくていい。


 自然に言葉が出てくる。


 そんな相手は久しぶりだった。


 花壇を見終えた後、院長に勧められて応接室でお茶を飲むことになった。


 だが院長は急な用事で席を外してしまい、気づけば二人きりになる。


「こちらの焼き菓子、美味しいですよ」


 アルベールが皿を差し出した。


「孤児院の子どもたちにも人気なんです」


「いただきます」


 素朴なクッキーだった。


 優しい甘さが広がる。


「美味しいです」


「良かった」


 アルベールはどこか安心したように笑った。


「実は先ほど気になったことがありまして」


「気になったこと?」


「シャルロット様、一番端の焼き色が濃いものを選ばれましたよね」


 シャルロットは目を瞬いた。


「見ていらしたのですか?」


「つい」


 少し照れたように笑う。


「香ばしいものがお好きなのかなと思いまして」


 思わず笑ってしまう。


「当たっています」


「やはり」


 アルベールはどこか嬉しそうだった。


「よく気づかれますね」


「人を見るのが好きなんです」


 穏やかな返事だった。


 胸の奥が少しだけ温かくなる。


 この人は本当によく見ている。


 そして、相手を知ろうとしている。


 それが自然と伝わってきた。


「賑やかですね」


 アルベールが窓の外へ目を向けた。


 子どもたちの笑い声が聞こえる。


 その時だった。


「アルベール先生!」


 庭から元気な声が響く。


 ジョシュアがこちらへ向かって走ってきていた。


「ジョシュア、慌てると――」


 言い終わる前に。


「わっ!」


 少年の足がもつれた。


 そのまま前へ倒れる。


「ジョシュア!」


 シャルロットは思わず立ち上がった。


 だがアルベールの方が早かった。


 すぐに外へ出て、少年の傍へ駆け寄る。


「大丈夫ですか?」


 ジョシュアは唇を噛んだ。


「だ、大丈夫」


 強がるように答えたが、目にはうっすら涙が浮かんでいる。


 けれど膝は擦りむいていた。


 痛いのは明らかだった。


「ジョシュア」


 アルベールは少年の目線に合わせてしゃがみ込む。


「痛い時は痛いと言っていいんですよ」


 少年が俯いた。


「でも男だから」


「男でも痛いものは痛いです」


 アルベールは優しく笑った。


「私も研究所で転んだ時は結構痛いですよ」


「アルベール先生も?」


「もちろんです」


 その言葉に周囲の子どもたちが笑う。


 ジョシュアも少しだけ笑った。


 アルベールは傷を確認しながら続けた。


「転ぶことは悪いことではありません」


 少年が顔を上げる。


「走ったから転んだのでしょう?」


 こくりと頷く。


「それだけ元気だったということです」


「……うん」


「大事なのは転ばないことではなくて、また立ち上がることですよ」


 ジョシュアは少し照れながら頷いた。


 その頭をアルベールは軽く撫でる。


 シャルロットはその様子を見つめていた。


 この人は花だけではない。


 人にも同じように向き合うのだ。


 傷ついたところを見て。


 否定せず。


 ゆっくり育つのを待つ。


 そんな優しさを持っている。


 応接室へ戻った後も、その光景が胸に残っていた。


「皆さんのお名前を覚えていらっしゃるのですね」


「覚えているというより、知りたいんです」


「知りたい?」


「何が好きなのか。何が得意なのか。どんなことで笑うのか」


 アルベールは穏やかに笑う。


「そういうことを知るのが好きなんです」


 シャルロットは胸が温かくなるのを感じた。


「子どもがお好きなのですね」


「そうですね」


 少し考えるように笑う。


「ですが、それだけではない気がします」


「それだけではない?」


「植物も人も、育っていく姿を見るのが好きなんです」


 シャルロットは目を瞬いた。


「花も最初から綺麗に咲くわけではありません」


「……」


「風に揺れて傷つくこともありますし、上手く育たないこともあります」


 穏やかな声だった。


「でも、その時間があるから花は強くなる」


 そして少しだけ目を細める。


「成長には痛みが伴うものですから」


 その言葉に、シャルロットは息を止めた。


 婚約解消。


 悲しかった。


 苦しかった。


 けれど。


 あの日々が無意味だったとは思いたくない。


「だから私は、変わろうとしている人を見ると目が離せなくなるんです」


 アルベールは小さく笑った。


「頑張っている人を見ると応援したくなるので」


 そして穏やかな視線を向ける。


「シャルロット様は、初めてお会いした頃よりずっと楽しそうです」


「え?」


 思わず顔を上げる。


「そうでしょうか」


「ええ」


 アルベールは迷いなく頷いた。


「表情がとても柔らかくなりました」


 胸の奥が熱くなる。


 自分でも気づかなかった変化を、この人は見ていてくれた。


「……嬉しいです」


 思わずそう呟く。


「そんなふうに言っていただけたのは初めてなので」


 アルベールは少し驚いた顔をした。


 そして穏やかに微笑む。


「それなら、私も嬉しいです」


「どうしてアルベール様まで?」


「シャルロット様が楽しそうにしていると、こちらまで嬉しくなりますから」


 胸がどくりと鳴った。


 けれど彼は、それ以上は何も言わなかった。


 まるで特別な意味などないように。


 その自然さが、かえって心を揺らす。


◇◇◇


 帰りの馬車の中。


 シャルロットは窓の外を眺めていた。


 孤児院へ行くのが楽しい。


 花壇を見るのも楽しい。


 そして――。


 アルベールと話す時間も。


 そう思った瞬間、自分で少し驚いた。


 それが恋なのかどうかは分からない。


 けれど。


 次に会える日が少しだけ待ち遠しい。


 そんな気持ちは確かにあった。


◇◇◇


 帰宅後。


 ヴィンセントは妹の顔を見るなり笑った。


「なるほど」


「何がですか」


「今日は特に機嫌がいい」


 シャルロットは観念して孤児院での出来事を話した。


 花壇のこと。


 ジョシュアのこと。


 そしてアルベールの言葉を。


「その人は、ちゃんと見てくれているんだね」


 ヴィンセントの言葉に、シャルロットは返事ができなかった。


「そうかもしれません」


 小さく答える。


 するとヴィンセントは楽しそうに笑った。


「それに」


「?」


「最近、孤児院の話をする時だけ特に嬉しそうだ」


「兄様!」


 慌てるシャルロットに、ヴィンセントは声を上げて笑った。


 頬が熱い。


 けれど不思議と嫌ではなかった。


 窓の外では、春の花が風に揺れている。


 まだ名前はつけられない。


 けれど確かに。


 何かが少しずつ育ち始めていた。


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