第4話 新しい季節
婚約解消から、ひと月が過ぎた。
社交界ではしばらく噂になった。
エバンス伯爵令嬢が婚約を解消したらしい。
身分差が原因だったのではないか。
もっと良い縁談が見つかったのではないか。
様々な憶測が飛び交っていた。
けれどシャルロットは、思っていたより落ち着いていた。
少し寂しい。
けれど後悔はない。
その気持ちは変わらなかった。
「ロッテ、今日は孤児院だったね」
朝食の席で、ヴィンセントが声をかける。
「ええ。花壇作りのお手伝いに行くの」
「土でドレスを汚さないように」
「今日は作業着です」
「本気だね」
「本気です」
きっぱり答えると、ヴィンセントは楽しそうに笑った。
「いい顔をするようになった」
「そうかしら」
「前よりずっと楽しそうだよ」
少し照れくさくなって、シャルロットは紅茶に口をつけた。
婚約解消後、慈善活動に参加する時間が増えた。
誰かの役に立つこと。
自分で考えて動くこと。
それは思った以上に、心を軽くしてくれる。
孤児院へ着くと、子どもたちが元気よく駆け寄ってきた。
「シャルロット様!」
「今日も来てくれたの?」
「もちろんよ」
庭の一角には、新しい花壇を作る予定の場所がある。
今日はそこへ花を植える日だった。
「まずは土を柔らかくしましょう」
しゃがみ込み、土を耕し始める。
「令嬢なのに土を触っていいの?」
女の子が不思議そうに尋ねた。
シャルロットは笑う。
「花を植えるなら、土に触らないと始まらないでしょう?」
「じゃあ私もやる!」
「僕も!」
子どもたちが集まってくる。
賑やかな声に囲まれながら、シャルロットは久しぶりに心から笑っていた。
「楽しそうですね」
穏やかな声がした。
振り返ると、一人の青年が立っていた。
栗色の髪に深い緑色の瞳。
派手さはない。
けれど、不思議と目を引く人だった。
「失礼いたしました」
泥のついた作業着を見て、シャルロットは慌てて立ち上がる。
だが青年は首を傾げた。
「どうして謝るのですか?」
「え?」
「とても楽しそうでしたので」
あまりにも自然な言葉だった。
令嬢らしくないと笑われると思った。
けれど彼は違った。
ただ、楽しそうだと言っただけだった。
「花壇作りがお好きなのですね」
「ええ。花が好きなので」
「それは良かった」
青年は優しく微笑んだ。
「アルベール・ノーウッドと申します」
「シャルロット・エバンスです」
「存じております」
一瞬だけ胸が強張る。
婚約解消の噂を知っているのだろうか。
だが、アルベールの表情に好奇心や憐れみはなかった。
ただ目の前の相手を見ている。
そんな印象だった。
「今日は花壇の相談で参りました」
「相談?」
「王立植物研究所で働いております。子どもたちでも育てやすい花を選んでほしいと依頼を受けまして」
「植物研究所の方なのですね」
「まだ勉強中ですが」
少し照れたように笑う。
その姿がどこか好ましかった。
「でしたら、ぜひ教えてください」
「喜んで」
二人は並んで花壇の前にしゃがみ込んだ。
「ここは日当たりが良いですね」
アルベールは土を見ながら言う。
「丈夫で育てやすい花が向いていると思います」
「例えば?」
「こちらなどどうでしょう」
示された苗は淡い桃色だった。
「可愛い」
思わず声が漏れる。
「お好きですか?」
「桃の花は昔から好きなんです」
「そうなのですね」
「お菓子も好きですよ」
「お菓子も?」
「ええ。桃のタルトとか」
「それは美味しそうですね」
アルベールは小さく笑った。
「桃の花、私も好きなんです」
「アルベール様も?」
「ええ」
彼は笑った。
「研究所の庭に一本あるのですが、春になると必ず見に行きます」
「毎年ですか?」
「毎年です」
真面目な顔で言うので、シャルロットは思わず笑ってしまった。
「本当にお好きなのですね」
「珍しい花も好きですが」
アルベールは桃色の苗を見つめる。
「私は季節を知らせてくれる花の方が好きなんです」
「季節を知らせてくれる花?」
「桃もそうですし、桜もそうです」
そして少し身を乗り出す。
「春が来たのだと教えてくれるでしょう?」
アルベールの瞳が少しだけ輝いていた。
「冬の間は枝だけなのに、暖かくなると一斉に花を咲かせるんです」
「……」
「毎年同じだと分かっていても、つい見に行ってしまいます」
その語り口に、シャルロットは思わず笑った。
「研究所の庭の桃の木は幸せですね」
「そう思っていただけるなら嬉しいです」
アルベールは少し照れたように笑う。
「植物の話になると止まらなくなるんです」
「私はいいと思います」
「そうでしょうか」
「ええ」
シャルロットは微笑む。
「好きなものがあるのは素晴らしいことです」
一瞬、アルベールが驚いたような顔をした。
だがすぐに、照れたように笑う。
「でしたら嬉しいです」
その笑顔がどこか少年のようで、目を奪われた。
しばらくして、アルベールは別の苗を手に取った。
「こちらも良いかもしれません」
「綺麗」
淡い桃色の小さな花だった。
優しくて温かい色合いに、心が和む。
「気に入りましたか?」
「え?」
「今、とても嬉しそうな顔をされましたので」
胸が小さく跳ねた。
「分かりやすかったですか?」
「少しだけ」
アルベールは穏やかに笑う。
「好きなものを見つけた時の表情は、とても素敵ですから」
シャルロットは返事ができなかった。
その言葉が、なぜだか優しく胸に響いたからだ。
昔の自分なら、どうだっただろう。
婚約者に合わせることばかり考えていた頃の自分は。
好きなものを好きだと、こんなふうに笑えていただろうか。
子どもたちの声が響く。
アルベールは一人ひとりの話を聞きながら、丁寧に花の植え方を教えていた。
誰に対しても変わらない。
そんな人なのだろう。
作業が終わる頃には、小さな花壇が出来上がっていた。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
アルベールは花壇を見つめる。
「数週間後が楽しみです」
「花が咲くからですか?」
「それもあります」
彼は笑った。
「でも、子どもたちがどんな顔をするのか見てみたい」
その答えに、シャルロットは少し驚く。
花より先に、子どもたちのことを考えている。
「きっと喜びます」
「ええ」
アルベールは頷いた。
「花が咲く瞬間も好きですが、誰かが嬉しそうに笑う瞬間は、もっと好きなんです」
本当に優しい人なのだと思った。
帰りの馬車の中。
シャルロットは窓の外を眺めていた。
楽しそうですね。
桃の花がお好きなのですね。
好きなものを見つけた時の表情は、とても素敵ですから。
今日交わした言葉が、ひとつひとつ胸によみがえる。
孤児院へ行くのが楽しい。
花壇を見るのも楽しい。
そして――。
アルベールと話す時間も。
それが恋なのかどうかは、まだ分からない。
けれど。
次に会える日を思うと、自然と笑みがこぼれる。
そんな自分が少しだけくすぐったかった。
屋敷へ戻ると、ヴィンセントが出迎えた。
「おかえり、ロッテ」
「ただいま」
「いい顔をしているね」
「そう?」
「うん」
兄は楽しそうに笑う。
「花壇作りが楽しかった?」
「ええ、とても」
そして少し迷いながら続けた。
「植物研究所の方が来てくださったの」
「へえ」
「アルベール・ノーウッド様という方」
ヴィンセントの眉がわずかに上がる。
「ノーウッド子爵家の?」
「知っているの?」
「評判は聞いたことがあるよ」
兄は肩をすくめた。
「真面目な植物馬鹿だとか」
「兄様」
「褒めているんだ」
悪びれない様子に、シャルロットは思わず笑った。
「穏やかで誠実な方らしい」
「そうなのね」
その評判に、なぜか少し安心する。
「兄様」
「何かな」
「私、今日久しぶりに自然に笑えた気がするわ」
ヴィンセントは少しだけ目を見開いた。
そして、優しく微笑む。
「それなら本当に良かった」
「兄様?」
「婚約を解消してから、君はずっと頑張っていたからね」
シャルロットは何も言えなかった。
ただ少しだけ、胸が温かくなる。
窓の外では、春に植えた花が少しずつ芽吹いていた。
花だけではない。
シャルロットの心にも、少しずつ新しい季節が訪れようとしていた。




