第3話 婚約解消
婚約解消の話し合いは、一週間後に行われた。
場所はエバンス伯爵家の応接室。
シャルロットの父であるエバンス伯爵と、ルーカスの父であるバレット男爵も同席している。
窓から差し込む春の日差しは穏やかだった。
けれど部屋の空気は重い。
ルーカスは納得していない顔をしていた。
それは最初から分かっていたことだ。
「本気なのか」
沈黙を破ったのはルーカスだった。
「婚約解消なんて」
「はい」
シャルロットは静かに頷く。
「本気です」
ルーカスが拳を握り締めた。
「どうしてだ」
苦しそうな声だった。
「俺はお前を大切にしてきた」
シャルロットは黙って聞く。
「誕生日だって祝った。夜会にも連れて行った。婚約者として恥をかかせたことだってない」
必死な声だった。
ルーカスなりに努力してきたのだろう。
それは分かる。
分かるからこそ苦しかった。
「俺はちゃんとやってきたはずだ」
その言葉に、シャルロットは小さく目を伏せる。
やはり違うのだと思った。
ルーカスは、何をしてきたかを語る。
けれどシャルロットが欲しかったのは、それではなかった。
「ルーカス」
静かに名前を呼ぶ。
「何だ」
「一つだけ聞いてもいいかしら」
ルーカスが頷く。
「私の好きな花は何かしら」
応接室が静まり返った。
「花?」
「ええ」
ルーカスは戸惑ったように眉をひそめる。
「そんなことが今関係あるのか?」
「あるわ」
シャルロットは穏やかに答えた。
「私には」
ルーカスは答えられなかった。
考えている。
けれど分からないのだろう。
その沈黙だけで十分だった。
「では」
シャルロットは続ける。
「私の好きな紅茶は?」
「……」
「私が最近学んでいることは?」
ルーカスは何も言わない。
苦しそうな顔をしている。
けれど、シャルロットは責めるつもりはなかった。
責めたいわけではない。
ただ、確認したかっただけだ。
「私はね」
静かな声で言う。
「高価な贈り物が欲しかったわけじゃないの」
「……」
「立派な婚約者が欲しかったわけでもない」
ルーカスが顔を上げる。
「私はただ」
シャルロットは少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「私のことを知ろうとしてほしかったの」
その言葉に、ルーカスは何も返せなかった。
しばらく沈黙が続く。
シャルロットは静かに続けた。
「私はあなたの好きな花を知っているわ」
ルーカスが顔を上げる。
「好きなワインも。狩猟祭が好きなことも。将来は自分の領地を持ちたいと思っていることも」
どれも、これまでルーカスが話してくれたことだった。
特別なことではない。
ただ、知りたいと思ったから覚えていただけだ。
「私はあなたのことを知りたかったの」
シャルロットは静かに言う。
「だから話を聞いたわ」
ルーカスは何も言えなかった。
初めて、自分が何を見落としていたのか気づいたような顔をしていた。
「俺は……」
絞り出すような声だった。
「お前を喜ばせようとしていた」
「知っているわ」
「本当にそうだったんだ」
「ええ」
それは疑ったことがない。
ルーカスは優しかった。
大切にもしてくれた。
けれど。
「何をしたら喜ぶかは考えた」
シャルロットは静かに言う。
「でも、私が何を好きなのかは知らなかったでしょう?」
ルーカスが俯く。
返事はなかった。
それが答えだった。
「ブラックチェリーのことも」
シャルロットは続ける。
「私は怒っていたわけじゃないの」
「……」
「悲しかっただけ」
あの日のことを思い出す。
宝石のようなブラックチェリー。
高価なホールケーキ。
誇らしげな婚約者。
そして、胸に残った違和感。
「私は伯爵令嬢として喜ばせてほしかったんじゃない」
小さく息を吐く。
「シャルロットとして見てほしかったの」
長い沈黙が落ちた。
ルーカスは何度も言葉を探そうとしていた。
けれど見つからないらしい。
やがて彼は力なく笑った。
「俺は……」
声がかすれる。
「そんなこと考えたこともなかった」
その言葉に、シャルロットは不思議と傷つかなかった。
もう分かっていたからだ。
「ごめんな」
ルーカスが言う。
「謝らないで」
「いや」
彼は首を振った。
「今さらだな」
自嘲するような笑みだった。
「俺は良い婚約者になろうとしていた」
「……」
「でも、お前の婚約者にはなれてなかったんだな」
その言葉に、シャルロットは初めて少しだけ救われた気がした。
完全ではなくても。
少しだけ、伝わったのかもしれない。
「ルーカス」
「何だ」
「あなたが悪い人だと思ったことはないわ」
それは本心だった。
「ありがとう」
彼は小さく笑う。
どこか寂しそうな笑顔だった。
初恋の終わりにふさわしい顔だった。
その後、両家の父親も婚約解消に合意し、話し合いは終わった。
帰り際。
ルーカスは扉の前で足を止める。
「シャル」
「はい」
「幸せになれよ」
シャルロットは微笑んだ。
「あなたも」
ルーカスは何も言わずに去っていく。
その背中が見えなくなるまで見送った。
胸は少し痛い。
好きだった。
初恋だった。
楽しい思い出もたくさんある。
だから悲しい。
けれど後悔はなかった。
話し合いの後、シャルロットは庭へ出た。
春風が頬を撫でる。
花壇には色とりどりの花が咲いていた。
「ロッテ」
ヴィンセントが隣に立つ。
「終わったね」
「ええ」
「大丈夫?」
シャルロットは空を見上げた。
雲ひとつない青空だった。
「少し寂しいわ」
「うん」
「でも後悔はしていない」
ヴィンセントは優しく微笑む。
「それなら大丈夫だ」
兄は妹の頭をぽんと撫でた。
「ロッテはよく頑張った」
その言葉に、少しだけ涙が滲みそうになる。
けれど泣かなかった。
泣くよりも先に、不思議な解放感があったからだ。
「兄様」
「何?」
「私、前を向けそう」
ヴィンセントは満足そうに笑った。
「それは良かった」
春風が花を揺らす。
初恋は終わった。
けれど人生は続いていく。
シャルロットはまだ知らない。
この春が、自分の人生を少しずつ変えていくことを。




