第2話 昔の君の方が好きだった
ブラックチェリーの誕生日から一年が過ぎた。
シャルロット・エバンスは十九歳になっていた。
この一年で、彼女は少し変わった。
領地経営の勉強を始め、父の仕事を手伝うようになった。慈善活動にも参加し、孤児院への支援にも関わっている。
以前は苦手だった夜会にも、積極的に出席するようになった。
最初は不安だった。
失敗したらどうしよう。
笑われたらどうしよう。
そんなことばかり考えていた。
けれど、学び続けるうちに少しずつ自信がついてきた。
完璧ではない。
それでも以前より、自分の考えを口にできるようになったと思う。
「ロッテ」
夜会へ向かう馬車の中で、ヴィンセントが声をかけた。
「緊張してる?」
「少しだけ」
「大丈夫だよ」
兄は迷いなく言う。
「うちの妹は可愛いから」
「兄様」
「何?」
「それで全部解決すると思わないでください」
「だいたい解決すると思ってる」
真顔で言われ、シャルロットは吹き出した。
本当に昔から変わらない。
だから安心する。
兄はいつだって、昔の自分も今の自分も同じように見てくれている。
「今日は綺麗だね」
「ありがとう」
「でも昔も可愛かった」
「はいはい」
「本当なのに」
その言葉に、シャルロットは少しだけ救われる。
昔も今も。
どちらも自分なのだ。
夜会は、王都でも有名な侯爵家の主催だった。
豪華なシャンデリアが輝き、楽団の演奏が会場を満たしている。
シャルロットは何人かの貴族たちと会話を交わした。
「エバンス嬢は慈善活動にも熱心だそうですね」
「まだ勉強中です」
「素晴らしいことです」
以前なら緊張していたはずだ。
けれど今は違う。
相手の目を見て話せる。
会話も続けられる。
そのことが、少し嬉しかった。
「楽しそうだね」
ヴィンセントが小声で言った。
「そう見える?」
「うん」
兄は満足そうに頷く。
「最近のロッテは前より笑う」
その時だった。
「シャル」
聞き慣れた声がした。
振り向くと、ルーカスが立っていた。
婚約者の姿に、シャルロットは微笑む。
「こんばんは」
「ああ」
だが、ルーカスの表情はどこか硬かった。
「少し話せるか?」
「ええ」
二人はテラスへ出た。
夜風が頬を撫でる。
会場からは音楽が聞こえていた。
しばらく沈黙が続く。
やがてルーカスが口を開いた。
「最近、お前は変わったな」
シャルロットは首を傾げた。
「そうかしら」
「そうだ」
ルーカスは頷く。
「前より綺麗になった」
「ありがとう」
「でも」
そこで言葉が止まる。
「でも?」
「なんというか……変わった」
シャルロットは黙って続きを待った。
「昔のお前はもっと素直だった」
胸の奥が小さくざわつく。
「素直?」
「ああ」
ルーカスは頷いた。
「もっと頼ってくれたし、俺の話も聞いてくれた。今は違う」
シャルロットは困ったように笑った。
「今も聞いているわ」
「違うんだ」
ルーカスは苛立ったように言う。
「最近のお前は、自分の意見を持ちすぎる」
その言葉に、シャルロットは何も言えなくなった。
自分の意見を持つことは、悪いことなのだろうか。
勉強して。
考えて。
成長しようとした結果なのに。
「私は変わったと思う」
シャルロットは静かに言った。
「でも、それは悪いこと?」
「そういうことじゃない」
ルーカスは顔をしかめる。
「ただ」
そして、ぽつりと呟いた。
「俺は昔のお前の方が好きだった」
その瞬間だった。
胸の奥で、何かが静かに音を立てた。
怒りではない。
悲しみでもない。
ただ。
ああ、と思った。
ブラックチェリーのケーキ。
伯爵令嬢にふさわしいもの。
あの日の違和感。
全部が一本の線に繋がる。
同時に思う。
私はルーカスのことを、本当に分かっていたのだろうか。
彼が何を望み。
何を好きで。
どうして昔の私を好んだのか。
今になって考えても、よく分からない。
きっと私たちは、お互いを知っているつもりだったのだ。
「昔の私?」
「ああ」
ルーカスは頷く。
「今だって嫌いじゃない。でも前の方が良かった」
シャルロットは目を伏せた。
昔の私。
ルーカスに嫌われたくなくて、顔色ばかり窺っていた私。
間違えないように。
気に入られるように。
必死だった私。
でも。
あの頃の私は、自分自身を好きではなかった。
だから変わろうと思ったのだ。
勉強して。
考えて。
少しずつ前へ進もうとした。
その結果が、今の自分だった。
「ルーカス」
「なんだ?」
「私は今の私も好きよ」
ルーカスは困ったような顔をした。
まるで、意味が分からないと言いたげに。
「そういう話じゃない」
「そういう話なの」
シャルロットは静かに言った。
「私は今の私になるために努力してきたの」
「……」
「それを否定されるのは悲しいわ」
ルーカスは黙り込む。
何か言おうとしている。
けれど、言葉にならない。
その沈黙が、何よりの答えだった。
会話はそこで終わった。
帰りの馬車の中。
シャルロットは窓の外を眺めていた。
王都の灯りが流れていく。
胸が苦しかった。
初恋だった。
好きだった。
今でも嫌いではない。
それなのに。
どこか遠くへ行ってしまった気がする。
屋敷へ戻ると、ヴィンセントが待っていた。
「おかえり」
「ただいま」
「おや、何かあったかな?」
兄は不思議そうに首を傾げる。
どうやら顔に出ていたらしい。
シャルロットは観念して、テラスでの会話を話した。
ヴィンセントは最後まで黙って聞いていた。
そして、小さく息を吐く。
「そうか」
「兄様」
「うん」
「私が変わったのは悪いことかしら」
ヴィンセントは即座に首を振った。
「違うよ」
「でも」
「ロッテ」
兄は優しく微笑んだ。
「人は変わるものだ」
静かな声だった。
「成長もする。学ぶことも増える。新しいことも知る。それは当たり前だ」
シャルロットは俯く。
「でもルーカスは昔の私が好きだった」
「そうだろうね」
ヴィンセントは否定しなかった。
「でも、今ここにいるのは昔のロッテじゃない」
兄は真っ直ぐ妹を見る。
「今のロッテだ」
その言葉に、胸が熱くなった。
「兄様」
「うん?」
「私……」
少しだけ声が震える。
「婚約を解消した方がいいと思う?」
ヴィンセントはすぐには答えなかった。
しばらく考えてから言う。
「それはロッテが決めることだ」
「……」
「でもね」
兄は穏やかに微笑む。
「結婚は長い」
その言葉に、シャルロットは小さく息を呑んだ。
「今の自分を否定され続ける相手と、一生を過ごせるかは考えた方がいい」
その言葉が胸に深く落ちた。
長い沈黙の後。
シャルロットはゆっくり顔を上げる。
そして、静かに言った。
「兄様」
「何?」
「婚約を解消したいです」
ヴィンセントは驚かなかった。
ただ、優しく頷いた。
「分かった」
その一言で、張り詰めていたものが少しだけ緩む。
怖い。
悲しい。
けれど。
もう迷いはなかった。
シャルロットは窓の外に浮かぶ月を見上げる。
初恋は終わろうとしていた。
けれどその終わりは、きっと自分を選ぶための始まりだった。




