8話目「老婆」
朝になっても、啓太と裕太郎の意識は戻らなかった。
呼吸はしているものの、両者とも耳からの出血が乾いて固まり、顔色は蝋のように白い。
「病院、連れて行かなあかん」
「でも車が……」
「歩いてでも下山するしかないやろ」
俺たちは啓太と裕太郎を交代で背負い、下山を試みることにした。
だが数十分も歩かないうちに、明らかに来た時とは違う景色に迷い込んでいることに気づいた。
「おかしいな……この道、通ってきた記憶ないぞ」
「GPSは……あかん、圏外や」
誠のスマホも役に立たなかった。
途方に暮れて立ち尽くしていると、森の奥にぽつんと立つ、小さな人影を見つけた。
腰の曲がった老婆だった。こんな山奥に、なぜ人が。
着ているものは古めかしく、まるで昔の農村の装いのようだった。
「あの……!」
声をかけると、老婆はゆっくりと振り返った。皺だらけの顔に、深い悲しみのようなものが浮かんでいた。
「その紐、切ってしもうたんやね」
老婆はしめ縄のことを言っているようだった。誠が息を呑む。
「あそこにおるんは、山の神やない。鉱山で死んでいった村の衆や。原因も分からんまま、井戸の水を疑うことも許されんまま死んでいった……悔しかったやろなあ」
「じゃあ、どうすれば……友達を、助けてください」
俺は縋るように言った。
老婆は俺と誠の顔を交互に見て、ゆっくりと語り始めた。
「あの人らは、恨んどるわけやない。ただ、聞いてほしいだけなんや。誰にも聞いてもらえんまま死んでいった、そのことを。せやけど、人の声で応えてもうたら、その人はあっちに連れて行かれる。生きとる人間の声は、あの人らを刺激してしまうんや」
「じゃあ、どうやって……」
「鈴や。鈴の音だけが、あの人らを鎮められる。人の声やのうて、鈴の音だけを、ずっと鳴らし続けるんや。それが、昔からのやり方や」
老婆はそう言うと、懐から小さな鈴を取り出し、俺の手に握らせた。
その手は、氷のように冷たかった。
「もう一つ、教えとく。あんたら二人が無事なんは、たぶん、まだ『応えて』しもうてないからや。友達二人は、無意識のうちに、あの人らの声に応えてしもうたんやろな。哀れに思うて、心の中で。それが呼び水になってしもうた」
「応えたら……あかんのですか」
「あかん。悲しんでも、同情してもあかん。ただ、鈴の音だけを聞かせるんや。それがせめてもの、鎮魂や」
「あなたは……」
俺がそう聞きかけたとき、老婆はふっと表情を緩めた。
「うちも、あの村の生き残りの、また聞きや。もうずっと昔の話やけどな」
そう言った瞬間、老婆の姿は霧のように消えていた。
気がつくと、俺たちはさっきまで迷っていたはずの、見覚えのある坑道の前に立っていた。
「……戻ってきた、のか?」
「わからん。とにかく、あの人の言う通りにしよう」
俺たちは啓太と裕太郎を横たえ、坑道の前に陣取った。
手の中の鈴は、小さいながらもずっしりとした重みがあった。
チリン、と一度鳴らしてみる。澄んだ、それでいてどこか物悲しい音が、静まり返った山に響いた。
「これを、鳴らし続けるんやな」
誠が覚悟を決めたような顔で言った。
俺も頷き、鈴を強く握りしめた。
8話目、お読みいただきありがとうございました。
謎の老婆の登場は、本作で唯一「解決策」を提示してくれる存在です。彼女の語る「悲しんでも、同情してもあかん」というルールは、この物語における恐怖の核心の一つだと考えています。
死者を憐れむことすら許されない、というのは残酷な設定ですが、逆に言えば、生きている人間の感情そのものが、この山では危険物になり得るということです。啓太と裕太郎が無意識に「応えて」しまったという説明も、彼らの優しさが仇になったという皮肉を込めています。
老婆の正体については、あえて多くを語らせていません。次話、いよいよ鎮魂の儀式が始まります。




