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神の外  作者: 古江 門


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6/10

DAY 2-3 分けた水

 ダンの荷は、すでにいくつかに分けられていた。


 彼だけが何も持たず、列の中ほどへ入る。リツも近くを歩いたが、肩は貸さなかった。


 日差しが強くなっている。


 次の水場には届かない。それでも、夜を越せる場所までは進まなければならない。


 テオは歩く速さを落とした。


 曲がり角の先を確かめる。空を見る。列の足音を聞く。


 悪魔の気配はない。


 だが、水を失った今、何も起きないことだけが一行を守る。


 誰も話さなくなった。


 足音と、荷の紐が擦れる音だけが続く。


 日が傾き始めた頃、崩れかけた石壁が見えてきた。


 かつては道に沿って長く延びていたのだろう。いま残っているのは数十歩ほどだが、背丈より高く、片側に身を寄せれば風を避けられる。


 夜を越すには十分だった。


 一行が壁の内側へ入った。


 布が敷かれ、風の入る隙間へ石が積まれる。乾いた枝を拾う者もいた。


 テオは残った水袋を並べた。


 失った量が、形になって見えた。


「まず、全員の分を取る」


 器へ最低限の水を分けていく。


「朝の分は別に残す。残りは、子どもと疲れの強い者へ回す」


 エナは並んだ器を確かめた。


「それなら、今夜だけで使い切らずに済みます」


「ああ」


 器へ注がれた水は、昨日より少ない。


 それでも、誰の前にも水が置かれた。


 ダンだけが、自分の器を受け取らずにいた。


「俺の分はいらない」


「なぜですか」


 エナが尋ねる。


「俺が失った」


「皆の水です」


「だからだ」


「あなたが飲まなければ、ほかの人も飲みにくくなります」


 ダンは周囲を見た。


 朝に水袋を押さえていた子どもが、自分の器を両手で持ったまま、口をつけずにいる。


「ダンが飲んでから飲む」


 ダンは顔をしかめた。


「先に飲め」


「ダンが先」


 しばらく見つめ合ったあと、ダンが器を取った。


 一口飲む。


 それを見て、子どもも水へ口をつけた。


     *


 野兎は石壁から少し離れた風下へ運ばれた。


 刃物を持った者が腹を開き、別の者が皮を押さえる。


 肉は細く切り分けられた。皮と腱は補修に使うため残し、食べられないものは石壁から離れた場所へ埋めた。


 火のそばでは、平たい石が熱せられている。


「煮た方が、みんなに分けられるのに」


 火を見ていた子どもが言った。


「煮るための水はないよ」


 肉を運んできた者が答えた。


 薄く切られた肉が、熱した石の上へ並べられる。


 脂が弾けた。


 小さな音とともに、香ばしい匂いが広がる。


 それまで荷を整えていた者が顔を上げた。横になっていた者も、火の方を見た。


 全員で分ければ、一人の口へ入る量はわずかだった。


 それでも、乾いた保存食とは違う匂いだった。


 エナは、今夜開く予定だった保存食の包みを一つ戻した。


「これで、失った分に近づきますか」


「近づくだけだ」


 テオは焼かれている肉を見た。


「明日も獲れるとは考えるな」


「この辺りには獣がいます」


「いることと、捕まえられることは別だ。悪魔が近ければ、狩りにも出られない」


 エナは包みを閉じた。


 食料の損失は、少し埋まった。


 水は減ったままだった。


     *


 水を配り終えても、ダンは横になろうとしなかった。


 空になった器を集め、残った水袋のそばへ座る。


「手を使わないでください」


 リツが言った。


「口が緩んでいたら、朝までに減る」


「さっき確かめました」


「運んだあとだ。もう一度見る」


 ダンが水袋へ手を伸ばす。


 布を巻かれた指に痛みが走ったのか、眉を寄せた。


 朝に手伝っていた子どもが隣へ座る。


「私が持つ」


「重いぞ」


「朝も手伝った」


 子どもは両手で水袋を抱えた。持ち上げることはできず、底が地面を擦る。


「これは、まだたくさん入ってる」


「ああ」


「こっちは?」


「半分より少し多い」


 二人で一つずつ確かめ、残った袋を石壁の内側へ並べ直した。


 近くにいた者が小さな石を運び、水袋の左右へ置く。別の者が袋の下へ布を敷いた。


 失った水は戻らない。


 残った水を守る手は、いくつもあった。


     *


 薄く切られた肉が、小さな器へ一切れずつ置かれていく。


「焦げてる」


 子どもが言った。


「端だけだ」


 肉を返していた者が慌てて石から下ろし、周囲に小さな笑いが起きた。


 朝から張りつめていた顔が、少しだけ緩む。


 ダンの前にも、一切れが置かれた。


「俺は後でいい」


「冷めますよ」


 リツが言った。


 ダンは器を見渡した。


 子どもが自分の肉を持ち上げる。


「ちゃんとある」


 ダンはようやく、小さな一切れを口へ入れた。


 焼けた肉が、人の手から人の手へ渡っていく。


 誰かが、鼻歌を口ずさんだ。


 谷で水を分けるときに歌われていた歌だった。


 初めは、肉を焼いていた者の手元から聞こえるだけだった。


 隣にいた者が続きを重ねる。


 子どもが、覚えているところだけを歌った。途中で言葉を間違え、近くの大人が笑いながら歌い直す。


 別の者は、自分の家では違う言葉だったと、そのまま別の歌詞を重ねた。


 二つの歌はしばらく並び、やがて同じところへ戻った。


 リツも声を加えた。


 ダンは火の近くに座り、布を巻かれた指で膝を叩いている。


 谷を離れてから初めて、人々の声が風よりも大きくなった。


 乾いた金属音が響いた。


 歌が止まる。


 テオは石壁の外へ出た。


 リツも立ち上がり、刃物へ手を添えて隣に並ぶ。


 風が吹いた。


 もう一度、音がした。


 崩れた壁の上で、古い金属片が揺れている。


「悪魔ではない」


 リツが手を下ろした。


 すぐに歌が戻ることはなかった。


 しばらくして、先ほど言葉を間違えた子どもが、途切れたところから小さく歌い始めた。


 肉を焼いていた者が、その続きを引き取る。


 一つずつ、声が戻ってきた。


 今度の歌は、先ほどより静かだった。


 それでも、最後まで途切れなかった。


     *


 テオは石壁の外へ戻った。


 火の明かりは背中にある。


 来た道も、これから進む道も見えない。


「食べていませんね」


 後ろからエナの声がした。


 振り返ると、エナが水と薄く切った食料を持っていた。野兎の肉も一切れ載っている。


「見張りが先だ」


「それは、食べない理由にはなりません」


 エナは手の届く場所へ器を置いた。


「疲れましたか」


「少しはな。だが、予定より遅れた。今は休めない」


「休めるかどうかは聞いていません」


 テオはエナを見た。


「では、何を聞いている」


「あなたが疲れたかです」


「答えただろう」


「はい。初めの一言だけは」


 石壁の向こうから、低い歌声が聞こえていた。


 エナは答えを急かさなかった。


 テオも何も言わない。


 しばらくして、エナは立ち上がった。


「冷える前に食べてください」


 それだけ言って、火の方へ戻っていく。


 リツが少し場所を空け、エナはその隣へ座った。


 歌が続いている。


 テオは置かれた器を見た。


 水を失った。


 時間も失った。


 それでも、谷を出た四十人は一人も欠けていない。


 テオは冷めかけた肉を口へ入れた。


 七日目まで、あと五日あった。


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