DAY 2-1 足を止めた一人
夜が明けるより先に、水を汲む音がした。
テオは目を開けた。
頭上には大きな岩が張り出し、その下の裂け目から細い水が湧いている。昨夜、一行は日が落ちる直前にここへたどり着き、水袋を満たしてから岩陰で眠った。
谷の中にいた頃とは、夜の音が違った。
水路を流れる水の音も、精霊の住処が動く低い響きもない。岩の間を抜ける風と、眠っている者たちの息遣いだけが聞こえていた。
起き始めた者たちは、重そうに身体を動かしている。外套を掛け直す者。冷えた足を擦る者。横になったまま、白み始めた空を見ている者。
水場では、一人の男が並べた水袋を確かめていた。
昨日、水路を分ける板を谷へ置いてきた男だった。
ダンという名を、テオも覚えていた。
ダンは水袋を一つずつ持ち上げ、重さを確かめている。その横では、幼い子どもが袋の口を両手で押さえていた。
「もう離していい?」
「結び目が締まるまで頼む」
「手が痛い」
「あと少しだ」
ダンが紐を強く引き、結び目を確かめた。
「もういいぞ」
子どもはすぐに手を離し、赤くなった掌を衣服へこすりつけた。
「外でも、水の番をするの?」
「水路はなくても、水は減る。見ていないとな」
ダンは次の袋へ手を伸ばした。
谷では、水路を流れる量を毎日測っていたという。一本しか水路が残らなくなったあとも、ダンは水を分け続けていた。
その手が、いまは旅の水を確かめている。
テオは起き上がり、自分の荷を開いた。
乾燥肉。縄。布。刃物。小弓と矢。水。
失われたものはない。
「出るぞ」
何人かが空を見上げた。
まだ日は昇っていない。東の低い空だけが白い。
「日が高くなる前に、次の岩陰へ入る」
子どもがダンの隣から尋ねた。
「昨日より歩く?」
「昨日よりは長い」
「どのくらい?」
「次に休むまでだ」
子どもはダンを見た。
「長そうだな」
ダンが言うと、子どもは嫌そうな顔をした。
テオは水場の縁へしゃがんだ。
岩の裂け目から染み出す水は、昨夜より細くなっている。
長く留まれる場所ではない。
「水袋を持つ者は、口と底を確かめろ。濡れているものがあれば替える」
「もう見た」
ダンが答えた。
「二つ、紐が緩んでいた。結び直してある」
テオは並んだ袋へ目を向けた。地面に水の跡はない。
「分かった」
そばにいた大人が、子どもの掌を軽く揉んでやる。
頼まれる前に、誰かが誰かを見ていた。
*
一行は、いくつかのまとまりに分かれて歩き始めた。
先頭はテオ、最後尾にはリツがつく。
誰を誰の隣へ置くかまで、細かく指示する必要はなかった。靴擦れを起こした者の荷は、すでに身近な者が分けている。杖を使う老人の左右には、歩調を知る者が並んだ。
誰が疲れやすいか。誰が無理をしても口に出さないか。
谷の者たちは知っている。
テオに分かるのは、足音の乱れと、荷の傾きと、列の伸び方だけだった。
一行は乾いた斜面を北へ進んだ。
道と呼べるものはない。崩れた石と固い土の間に、昔何かが通ったらしい平らな筋が残っているだけだった。
新しい足跡はない。
悪魔が通った跡も見えない。
それでも、見えない場所に何もいないとは限らない。テオは曲がり角ごとに足を止め、先を確かめた。
後ろから、ときどきリツの声が届いた。
「壁の側を歩いて」
「その荷は、もう少し上へ結んで」
「前を離れすぎないで」
昨日より足取りは揃っている。
振り返っても、もう谷は見えない。
やがて道が狭くなった。
右手には岩壁が続き、左手は深い涸れ谷へ向かって落ちている。道の縁は、乾いた土と細かな石が積もっているだけだった。
テオは足を止めた。
「ここからは一人ずつ通れ。前の者が抜けるまで待て」
指示が後ろへ伝わる。
先頭に近い者から、岩壁へ手を添えて進んだ。
足の弱い者が通るときには、前後の者が荷へ手を添える。誰も急がない。
ダンは二つの水袋を身体の右側へ寄せ、谷とは反対の手を空けていた。
その少し前を、朝に水袋を押さえていた子どもが歩いている。
「壁から離れるなよ」
「分かってる」
前を歩く者の足元から、拳ほどの石が外れた。
道を跳ね、子どもの足元へ転がってくる。
子どもが避けようと横へ一歩ずれた。
踏んだ土が沈んだ。
小さな身体が谷側へ傾く。
ダンが手を伸ばした。衣をつかみ、岩壁の側へ押し戻す。
子どもは道へ倒れた。
反対に、ダンの荷が谷側へ振られた。
縁が崩れる。
ダンの姿が消えた。
「ダン!」
砂と石が斜面を走った。
ダンは斜面を滑り、突き出した岩棚へ片足を落とした。
身体が谷側へ振られる。
岩壁へ腕を擦りつけ、伸ばした指が割れ目にかかった。
もう一方の足は、何もない空間を蹴った。
落ちた石が暗い崖下へ消えていく。
音は、すぐには返ってこなかった。
人々がいっせいに動いた。
子どもを抱き起こす者。荷を下ろして斜面へ近づく者。後ろから状況を見ようと詰めてくる者。
「動くな!」
テオの声が狭い道を貫いた。
すべての足が止まる。
「壁へ寄れ。後ろは三歩下がれ」
人々が互いの身体と荷を押さえ、岩壁へ身を寄せた。後ろから近づいていた者たちも間を空ける。
道が静まった。
斜面を転がる石の音だけが残る。
その直後、ダンの足元が欠けた。
身体が一段沈んだ。
リツは斜面の縁へ膝をつく。
「ダン、聞こえますか」
「ああ」
「怪我は」
「ない。だが、動けない」
岩壁をつかむ指が滑った。
ダンはつかみ直す。腕が小さく震えている。背負った荷が、身体を崖側へ引き続けていた。
リツは背負い袋の脇に束ねていた救助縄を外した。
「下ります」
「そこからは駄目だ」
テオが肩をつかんだ。
「離してください」
「足元を見ろ」
リツのすぐ先に、細い亀裂が走っている。
「そこへ乗れば、ダンごと落ちる」
「でも、あの手はもちません」
リツはダンを見たまま言った。
「今行かなければ、間に合いません」
テオは斜面を見渡した。
真下へは行けない。
だが、待つ時間もない。
ダンの荷から水が流れ始めた。二つの水袋のうち一つが岩へ押しつけられ、裂けている。
「ダン。腰の荷紐を切れ」
「水が」
「切れ」
ダンは片手だけで刃物を抜いた。
身体を横切る紐へ刃を当てる。
手元が滑った。
岩棚がまた欠ける。
「早く」
リツの声に押され、ダンが刃を引いた。
紐が切れた。
荷が崖下へ消える。
身体が一瞬、岩壁へ戻った。
テオは右手を見た。
少し離れた場所に、古い金属の柱が突き出している。そこへ続く斜面には岩肌が露出していた。
「リツ。右へ回れ」
「遠いです」
「そこしかない」
テオは縄を渡した。
「俺が支える。お前はダンをつかめ」
リツはすぐに縄を腰へ回した。
「エナ」
呼ばれる前から、エナは人々の前へ出ていた。
「先の広い場所まで進んでください。子どもと、歩くのが遅い人から先に」
数人がすぐに列の前へ移り、先導を始めた。周囲の者も荷を受け取り、子どもや老人を間へ入れて続く。
助けられた子どもも、大人に抱き上げられた。
それでも、何人かは動こうとしなかった。
斜面の下にいるダンを見つめたまま、道の端に立っている。
「ここにはテオとリツがいます」
エナは言った。
「先へ行って、戻ってきたダンを迎えてください」
その言葉に促され、残っていた者たちも動き始めた。
何度も振り返りながら、一行は道の先へ進んでいく。
エナも最後に斜面を見てから、そのあとを追った。
テオは金属の柱を蹴り、根元が動かないことを確かめた。
縄を一度、二度と巻きつける。
最後の結び目を締めたとき、ダンの身体がまた沈んだ。
「行け」
リツが斜面へ出た。
テオが縄を張る。
「右だ」
リツは岩を蹴った。
「次は左」
身体の向きを変える。
直後、踏もうとしていた石が崖下へ消えた。
リツは止まらない。縄に身体を預け、岩肌を斜めに下りていく。
ダンまで、あと二歩。
岩棚に亀裂が走った。
一歩。
足元が崩れる。
ダンの身体が落ちた。
リツは岩を蹴った。
伸ばした手が、ダンの腕をつかむ。
二人の身体が崖へ引かれた。
縄が張る。
テオの足が土を削った。
リツとダンが岩壁へ振られ、その場で止まった。
「離すな」
リツは片腕を縄へ絡め、もう一方の手でダンをつかんでいる。
ダンの足は、完全に宙へ出ていた。




