DAY 7-1 清められない者
朝の歌は、壁の向こうから聞こえた。
一つの低い声に、いくつもの声が重なる。
同じ言葉を、同じ速さで歌っていた。
門前の広場には、まだ日が差していない。
テオは石壁へ背を預け、閉じた門を見ていた。
少し離れたところでは、エナとリツが並んで座っている。リツは短槍を抱えたまま、一度も横にならなかった。
エナは壁の向こうへ顔を向けていた。
「知っている歌ですか」
リツが尋ねる。
「似ています」
「同じではないの?」
「最後の一節だけ、言葉が違います」
歌声が高くなる。
壁の内側にいる者たちの声は、乱れなかった。
「同じ歌なのに」
リツが呟いた。
「受け取った人が違えば、言葉も変わるのでしょう」
エナは答えた。
リツは歌を聞き直すように、壁を見た。
やがて声が途切れた。
しばらくして、門の脇の戸が開いた。
昨日の塔の女が外へ出てくる。腕には淡い布が巻かれていた。その後ろに、同じ布を胸へ掛けた男と女が続く。
「確認が終わりました」
塔の女は三人の前で止まった。
「移住者三十八名の浄化と登録は、夜のうちに完了しました。負傷者は治療を受けています」
「セラは」
リツが立ち上がる。
「左足の処置を受けています。命に関わる状態ではありません」
「ダンの手は」
「治療を受けています」
リツは短く息を吐いた。
「エナさん」
塔の女が呼んだ。
「あなたの受け入れについて、神へ判断を求めます」
「分かりました」
「外部活動者の二人にも立ち会っていただきます。その後、七日間の報告を行ってください」
塔の女は戸の内側へ戻った。
三人はその後へ続いた。
*
二つ目の門の先には、白い石の通路が延びていた。
壁際の溝を水が流れている。
水音に混じり、石室の奥から人の声が聞こえた。浄化を終えた者の名が呼ばれ、一人ずつ返事をしている。
一つの石室の前で、塔の女が止まった。
「装備を置いてください」
床には、乾いた布が二枚だけ敷かれていた。
テオは弓と刃物を外した。
リツも短槍を置く。
エナも外套の留め紐へ手を掛ける。
「あなたは、そのままで」
塔の女が言った。
「浄化を受けないのですか」
「共同体への受け入れが決まっていません」
リツが塔の女へ向き直った。
「神の前へ、このまま立たせるのですか」
「裁定を受ける者は、外から来た姿のまま立ちます」
「それでは、もう罪人として扱っているのと同じでしょう」
塔の女の顔がわずかに強張った。
「リツ」
エナが呼んだ。
リツは口を閉じた。
「このままで構いません」
エナの衣服には、乾いた泥が残っていた。こめかみの布も、端が黒く汚れている。
「してきたことも、この姿も、同じものです」
テオとリツは石室へ入った。
天井から落ちる水が、七日間の泥を流した。
清めを終えて石室を出ると、エナは同じ場所で待っていた。
白い通路の上に、靴から落ちた土が小さく残っている。
リツは外套を外しかけた。
エナがその手を押さえる。
「寒いのでしょう」
「少しだけです」
「なら」
「すぐに終わります」
エナは手を離した。
塔の女が通路の奥へ歩き始める。
三人は続いた。
*
最後の扉の前には、先ほどの男と女が立っていた。二人とも、淡い布を胸から垂らしている。
テオとリツは、清められた新しい衣服を身につけていた。
エナだけが、七日間を歩いた姿のままだった。
「谷で神託者を務めていたエナですね」
男が尋ねた。
「はい」
「あなたは、神から与えられた役割を離れましたか」
「以前と同じようには務められません」
「神託を受け入れなかったのですか」
「受け入れなかったのではありません」
エナは二人を見た。
「受け取った意味が正しいのか、確かめようとしました」
「神の言葉に、異なる意味はありません」
女が言った。
「それは、神が答えたのですか」
女は答えなかった。
男が扉へ手を伸ばす。
「中で、同じことを尋ねるつもりですか」
「そのために来ました」
扉が開いた。
奥には光がなかった。
エナが先に入る。
テオとリツ、その後ろから二人の神託者が続いた。
扉が閉まる。
人の声も、水の音も消えた。
闇の奥に、白い光がともった。
『谷の共同体より来た者、エナ』
人ではない声が、エナの名を呼んだ。
エナは膝をついた。
テオとリツも、その後ろへ膝をつく。
男が口を開いた。
「エナは、出生時に与えられた神託者の役割を離れ、人々へ役割を問い直すよう伝えました。その影響により、谷では必要な働きを維持できなくなりました」
「それだけが、谷を離れた理由ではありません」
エナが顔を上げる。
「水路は三本止まり、精霊の守りも縮んでいました。役割を問い直す前からです」
「いまは、あなたの弁明を聞いているのではありません」
男の声が硬くなる。
リツの身体が動いた。
片膝を立てようとしたところで、エナが後ろへ手を伸ばした。
指先が、リツの手首へ触れる。
リツは動きを止めた。
『エナ』
白い光から声がした。
『神託者の役割へ戻り、与えられた言葉を共同体へ伝える意思はあるか』
「神の言葉を伝えることはできます」
『与えられた言葉を、共通の意味で伝える意思はあるか』
「その意味を決めるのは、誰ですか」
『質問の対象を特定せよ』
エナは光を見た。
「神託を受け取った人間が、その意味を誤ることはありますか」
『伝達、記録、解釈により、情報の意味が変化する可能性はある』
「なら、神託を伝える者は、自分の理解を問い直してよいですか」
『追加の情報を入力し、再度判断を求めることは可能である』
リツの手が、エナの指を握った。
「ですが」
男が言った。
「神託者が異なる意味を伝えれば、共同体は判断できなくなります」
「それは、あなたの答えですか」
「神託者としての答えです」
「神の答えと同じですか」
「同じです」
答えは早かった。
白い光は何も言わなかった。
エナは光へ向き直る。
「問い直すことをやめずに、神託者を続けることはできますか」
『塔の共同体における神託者は、示された判断を共通の意味で伝達する』
「では、できません」
エナは答えた。
「私には、一つの意味だけが正しいとは言えません」
『回答を確認した』
男が膝をついた。
「役割への復帰を拒むエナを、塔の共同体へ受け入れてよいでしょうか」
テオは男を見た。
問われたのは、エナの言葉が正しいかではない。
塔へ入れてよいか。
それだけだった。
『エナの受け入れは、塔の共同体における役割制度の安定を損なう可能性がある』
『神託者の役割へ復帰しない場合、受け入れを認めない』
「承りました」
二人の神託者が頭を下げた。
リツが立ち上がりかける。
エナの手が、その腕をつかんだ。
男が立ち上がる。
「エナ。神の言葉を受け入れず、異なる意味を広めた者として、あなたを異端と定めます。塔への立ち入りを禁じ、境界の外へ追放します」
エナは白い光を見た。
「異端と定めたのも、神ですか」
「神は、あなたを受け入れないと示されました」
「同じことではありません」
「同じです」
白い光は消えた。
異端という言葉を、神は一度も口にしなかった。
*
エナは、浄化を受けないまま通路を戻った。
テオとリツは、その後ろを歩く。
エナの靴から落ちた土が、白い床へ点々と残った。
外の広場では、浄化を終えた仲間たちへ食事が配られていた。
ダンがエナに気づいた。
椀を持ったまま一歩進み、そばにいた塔の者に止められる。
ほかの者たちも振り返った。
エナは胸元へ手を置き、頭を下げた。
門の脇の戸が開く。
リツも外へ出ようとした。
「外部活動者は残ってください」
塔の女が言った。
「七日間の報告が終わっていません」
「私はエナと行きます」
「報告が残っています」
「あとでもできます」
「リツ」
エナが振り返った。
「報告を終えてください。私はここで待っています」
リツはエナを見た。
「すぐ戻る」
「はい」
エナはテオへ目を向けた。
「見たことを、そのまま伝えてください」
テオは答えなかった。
エナは一人で戸をくぐった。
白い壁の向こうへ姿が消える。
戸が閉じた。
リツはそこから目を離さなかった。
「報告室へ案内します」
塔の女が言った。
テオは、消えた白い光を思い出した。
エナは追放された。
神託者の役割へ戻らず、塔の共同体の外へ置かれた。
それで、神の意志は果たされたのか。
答えを確かめなければならなかった。




