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神の外  作者: 古江 門


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16/22

DAY 6-1 声をそろえて

 水が流れていた。


 白い床の上を、門へ向かって流れている。


 テオは両手を水へ浸していた。


 何度こすっても、指の間から赤いものがにじんだ。


 手首には濡れた縄が絡んでいる。


 縄の先には白い紐が結ばれ、水の中で揺れていた。


 顔を上げると、門の前にエナが立っていた。


 隣にはリツがいる。


 二人の背後で門が開いていた。


 向こう側から、歌が聞こえる。


 エナが一歩進んだ。


 神の声がした。


 エナを共同体から排除せよ。


 塔へ到達させてはならない。


 意味は分かっていた。


 殺さなければならない。


 ほかに方法はなかった。


 テオはエナの肩へ手を伸ばした。


 エナが振り返る。


 唇が動いた。


 何を言ったのかは聞こえない。


 次の瞬間には、刃がエナの喉へ入っていた。


 温かい血が、握った手を伝う。


 エナは驚かなかった。


 ただ、問いの答えを待つようにテオを見ていた。


 刃を引く。


 白い衣服が赤く染まった。


 膝から力が抜けた身体を、テオは抱きとめた。


 苦しませないためだった。


 そう思っていた。


 エナを床へ横たえる。


 首元から流れた血が水へ混じり、門へ向かっていく。


 リツが叫んだ。


 短槍の穂先が白い光を横切る。


 リツを止めなければならない。


 エナを追わせてはいけない。


 救わなければならない。


 テオは刃を振った。


 手応えがあった。


 刃がリツの脇腹へ沈んでいる。


 リツの目が大きく開いた。


 短槍が床へ落ちた。


 落ちたはずなのに、音はしなかった。


 リツの手がテオの腕をつかむ。


 唇が動いた。


 その声も聞こえない。


 指から力が抜けていく。


 テオは刃を引いた。


 血があふれ、リツの衣服を黒く濡らした。


 崩れた身体を抱きとめる。


 リツの重さが、テオの肩へ掛かった。


 守るためだった。


 そう思っていた。


 だが、腕の中でリツは息をしていなかった。


 エナも門の前で動かない。


 二人の血が水の中で重なり、一つの流れになっていた。


 白い紐が赤い水に浮かび、開いた門の向こうへ運ばれていく。


 テオは二人のあいだに立っていた。


 指示は果たした。


 共同体は守られた。


 そうでなければならなかった。


 門の向こうには、誰もいなかった。


 歌だけが聞こえていた。


 声をそろえて、朝を呼ぶ。


 排除せよ。


 もう一度、神の声がした。


     *


 テオは目を覚ました。


 肩には、まだリツの重さがあった。


 低い石壁の内側で、人々が眠っている。


 リツはテオの肩へ身体を預け、その反対側では、エナがリツに寄りかかっていた。


 二人とも呼吸をしている。


 テオは動かなかった。


 掌に刃を握った感触が残っている。


 指を開く。


 血はついていなかった。


 やがて、リツの頭を外套ごと支え、ゆっくりと肩を抜いた。


 その動きでエナもわずかに傾いたが、目を覚まさなかった。


 テオは二人を見た。


 殺すことはできない。


 それだけは分かった。


 では、どうすればよいのか。


 答えはなかった。


 テオは石壁の外へ出た。


 空は晴れ、斜面に朝の光が差している。


 前方には低い丘が重なり、その先は見えなかった。


 あれを越えれば、塔までは半日もかからない。


 答えのないまま、境界だけが近づいていた。


     *


 一行は朝のうちに野営地を出た。


 石壁の続く斜面を登る。荷は軽くなっていたが、乾ききらない衣服と疲労が足を遅くしていた。


 セラの担架は交代で運ばれた。


 河床で靴を失った男も、杖を借りて列の中を歩いている。


 昨日より足を引きずっていたため、リツが休むように言ったが、


「今日、着くんでしょう」


 とだけ答えた。


 リツは足の布を巻き直し、歩幅を小さくするよう伝えた。


 足首をひねった女も、別の者に肩を借りていた。


 坂を上りきったところで、前を歩いていた者が立ち止まった。


 その背に、後ろの者がぶつかる。


 誰も文句を言わなかった。


 低い丘の向こうに、塔が見えていた。


 灰色の柱が空へ伸び、その周りを外壁と建物が囲んでいる。壁の内側からは、細い煙がいくつも上がっていた。


「あった」


 子どもの一人が言った。


 列のあちこちから息が漏れた。


 担架を持っていた男たちは、その場で一度膝を曲げた。水袋を運んでいた者は、袋を胸へ抱き寄せた。


 白い紐の供物を失った女は、空になった胸元へ手を置いた。


 一人が笑った。


 その隣で、別の一人が顔を覆った。


 エナは塔を見たまま、何も言わなかった。


 リツが短槍の石突きを地面へ置く。


「着いたね」


「まだだ」


 テオは言った。


 それでも、人々の歩みは少しだけ軽くなった。


 塔が近づくにつれ、道には手を加えられた跡が増えた。


 崩れた場所には石が敷かれ、谷側には低い杭が並んでいる。道沿いの石柱には、塔と同じ印が刻まれていた。


 壁の向こうから、人の声が聞こえた。


 木を打つ音。


 何かを運ぶ掛け声。


 子どもの笑う声。


 その中に、歌も混じっていた。


 人が暮らしている。


 それが分かるたび、列の歩みが速くなった。


 昼前に、外壁の前へ着いた。


 門は閉じていた。


 壁の上から見張りが人数を数える。


 しばらくして、門の脇にある小さな戸が開いた。


 敷居の内側に、一人の女が立っていた。


 淡い布を腕へ巻き、腰には水を入れた細い器を下げている。


 テオはその女を知っていた。


 塔を発つ前、浄化室でテオの身体へ水を掛け、外で見たものを一つずつ尋ねた女だった。


「戻ったのですね」


「ああ」


 女はテオの傷を見たあと、その背後へ目を移した。


「移住する者は四十人と聞いています」


「全員いる」


 見張りが壁の上から告げた。


「四十一人を確認した」


 女は小さく息を吐いた。


「よく、全員で来られました」


 その言葉を聞いた途端、列の中で泣き出す者がいた。


 隣の者が、その肩へ手を置いた。


「負傷者は」


「担架が一人。歩くのに支えが必要な者が二人。軽い傷はほかにもあります」


 リツが答えた。


「水と食料は」


「水袋が三つ。食料は二日ほどです」


 ダンが言った。


 女の視線が列の荷へ移る。


「供物をお願いします」


 白い紐の包みを運んでいた女が進み出た。


「川で失いました」


「すべてですか」


「最後の一つまで」


 女は空になった胸元へ手を当てた。


 塔の女はしばらく黙っていた。


「供物がなければ、受け入れの浄化を始められません」


 先ほど塔を見つけた子どもが、門を見上げた。


「入れないの?」


 母親がその肩を抱いた。


「子どもだけでも、先に入れませんか」


「門の内側へ入れることが、浄化の始まりです。始める前に分けることはできません」


「けが人もいる」


「分かっています」


 女の顔には迷いがあった。


 だが、門は開かなかった。


 壁の向こうで歌が続いている。


 近くまで来たことで、最後の一節がはっきりと聞こえた。


 声をそろえて、朝を呼ぶ。


 谷では、声を重ねて、と歌っていた。


 門一枚を隔てた向こうに、同じ歌を知る人々がいる。


 食事を作り、子どもを笑わせ、夜になれば眠る人々がいる。


 それでも、門は閉じていた。


 地面へ座り込む者がいた。


 ほかの者たちも、次々に荷を下ろした。


 誰も歌には加わらなかった。


 エナが尋ねた。


「代わりの供物を用意することはできますか」


「塔の内側にあるものを、塔へ捧げることはできません」


 テオは外壁の北側を見た。


 低い丘が二つ重なり、その向こうへ旧い道が続いている。


「北の回収場に、炉材が残っている」


 女がテオへ顔を向けた。


「あそこは閉じられています」


「保管庫までは行ける」


「外で回収したものを、そのまま持ち込むことはできません」


「洗い場が残っている。水槽と火床もある」


 女は黙った。


「そこで帰還時と同じ手順を行える」


「最後に使ったのは」


「二年前だ」


 女は壁の上を見た。


 見張りの一人が奥へ姿を消す。


 門前では、誰も声を上げなかった。


 しばらくして、内側から返事が届いた。


「手順をすべて行えるなら、回収場で浄められたものとして扱います」


「なら、行ってくる」


「浄化は一人では行えません」


「ああ」


 女は人々を見た。


「浄化を補助する資格を持つ女性はいますか」


「私が持っています」


 エナがすぐに答えた。


「神託者の訓練で学びました」


 女はエナを見る。


「帰還した者が、問いに答えなかった場合は」


「強いてはいけません。答えなかったことを記録します」


「定められていない物を持ち帰った場合は」


「用途を尋ねます。浄める者が決めてはいけません」


 女が頷いた。


「資格は確認できました」


「私が行きます」


 エナが言った。


「供物を置くように言ったのは、私です」


「私も行く」


 リツがその隣へ出た。


「浄化の補助は一人で足ります」


 塔の女が言った。


「護衛としてです」


 リツは短槍を持ち直した。


「回収場には、悪魔がいるかもしれないのでしょう」


「ああ」


 テオが答えた。


「なら、三人で行きます」


 テオはリツの腕へ目を向けた。


 巻かれた布の下には傷が残っている。


 リツは何も言わず、短槍を背へ回した。


 エナは門前に座る人々を見た。


「私たちが戻るまで、みんなはここで待つのですか」


「そうなります」


 塔の女が答えた。


「このまま壁の外に?」


 リツの声が強くなる。


「負傷者もいます。夜までに戻れなければ」


「門前から離れないでください」


 女は壁の上を示した。


「見張りを増やします。悪魔が近づけば、塔から対処します」


「容体が悪くなった者は」


「呼び鈴を置きます。必要なら、外で処置できる者を出します」


 女はセラの担架へ目を向けた。


「水と食事、薬と日除けも用意します」


「中には入れないままですか」


 エナが尋ねた。


「浄めが終わるまでは」


 女は一度目を伏せた。


「ここで見捨てることはしません」


 リツはセラのもとへ向かった。


 脚の布を確かめ、薬の使い方をダンへ伝える。河床で足を切った男の包帯も巻き直した。


「水は少しずつ。セラの脚は冷やさないでください」


「分かっている。こちらは任せろ」


 セラが担架から見上げた。


「早く行って、早く戻っておいで」


「簡単に言いますね」


「難しく言っても、帰りは早くならないよ」


 門の横にある受け渡し口が開いた。


 待つ者たちのための水と食料、薬、日除けが外へ出された。


 続いて、縄と梃子、炉材を運ぶ袋、携帯灯と燃料が渡される。


 最後に、白い布と紐が置かれた。


 塔の女は水と火を使う手順を、エナと一つずつ確かめた。


 出発の準備が整った。


 エナはもう一度、門前に残る人々を見た。


 子どもの一人が、壁際からこちらを見ている。


「戻ってくる?」


「はい」


 エナは答えた。


 リツがその横へ立つ。


「門から離れないでね」


 子どもが頷いた。


 神の言葉は消えなかった。


 それでも、テオは二人と北へ向かった。


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