DAY 5-3 残ったもの
石壁の向こうには、低い通路が残っていた。
入口の半分は土に埋もれている。テオが先に入り、天井と床を確かめた。
奥へ進むほど狭くなるが、壁は崩れていなかった。床の中央には浅い溝があり、染み込んだ水が外へ流れている。
「ここへ入る」
人々は斜面を上がり、順に通路へ入った。
濡れた者を奥へ入れ、動ける者は入口近くへ座る。
担架は壁際へ置かれ、子どもたちがセラの脚へ乾いた布を掛けた。
ダンは残った三つの水袋を並べ、漏れがないことを確かめる。
「子どもとセラからだ。次に傷のある者」
そばにいた男が器へ水を移し、ダンへ差し出した。
ダンは一度断ろうとしてから、そのまま口をつけた。
火種の包みも開かれた。
外側の布は濡れていたが、内側に残った乾いた布をほぐし、細い木を重ねる。
煙が上がる。
やがて赤い点が一つ残り、小さな炎になった。
濡れた外套から湯気が上がった。
朝の光は、まだ通路の入口近くに差している。
リツは河床で靴を失った男の足を洗い、切れた場所へ薬と布を当てた。
渡る途中で足首をひねった女にも、立ってもらう。
女は二歩進んだところで顔をしかめた。
「歩けますが、一人では難しいです」
「出るときに、支える者をつけます」
リツは足首へ布を巻いた。
テオは入口に立ち、外を見ていた。
旧い河床は、もう川になっている。
茶色い水が幅いっぱいに流れ、枝や岩を運んでいた。朝まで人々が立っていた場所は、どこにも残っていない。
「テオ」
リツの声がした。
「腕を見せてください」
縄を巻いていたところの皮膚が剥け、血がにじんでいる。
「あとでいい」
「出る前に見ます」
リツは薬と布を持って待っていた。
テオは入口を離れ、腰を下ろした。
傷を洗われ、布を巻かれる。
「深くはありません」
「なら、巻かなくていい」
「川の水に触れています」
リツの右腕にも、長い擦り傷があった。
「お前も見せろ」
「先に槍を見てください」
「腕が先だ」
テオは薬を受け取り、リツの腕を引いた。
傷の周りについた砂を落とし、布を巻く。
その後で短槍を手に取った。
担架を支えたところが少し窪み、木の表面には新しい傷が走っている。
柄へゆっくり力を掛ける。
「まだ使える」
「塔まで持ちますか」
「ああ」
リツが小さく笑った。
「では、任せます」
昨日と同じ言葉だった。
*
火の近くで、一人の女がエナを見ていた。
河床で最初に包みを外した女だった。
エナは濡れた髪を絞りながら、その視線に気づいた。
「どうしましたか」
「あの包みには、父の刃物が入っていました」
「はい」
「もう切れません。でも、あれを残すために、ほかのものを置いてきたんです」
エナは黙って女を見た。
「あなたが、置けと言った」
「言いました」
「渡るには、そうするしかなかった。それは分かっています」
女は空になった腰の紐を握った。
「でも、なくしてよかったとは思えません」
「私も、そうは思いません」
女が顔を上げた。
「父の刃物だったことを、覚えていてください」
「はい。忘れません」
女は頷かなかった。
それ以上何も言わず、火のそばへ戻った。
エナはその背を見送った。
手が、空になった腰へ伸びる。
濡れた紐に触れ、すぐに離れた。
リツが隣へ座った。
「手、見せて」
エナの掌には、縄で擦れた赤い筋が残っていた。
手首にも、指の形をした赤い跡がある。
リツはそこを一度見たが、何も言わず、水を含ませた布を掌へ当てた。
エナの指が小さく動く。
「痛い?」
「少し」
リツは力を緩めた。
「包みには、何を入れてたの」
「二枚の札です」
「札?」
「私が生まれたときにいただいた言葉と、神へ問い直したときにいただいた言葉です」
リツの手が止まった。
「ずっと持ってたの?」
「最初のものは、子どもの頃からです」
リツが布を巻き直す。
「なくなってしまったね」
「はい」
「つらい?」
「つらいです」
エナはすぐに答えた。
通路の外では、水が流れ続けている。
「言葉は覚えてるんでしょう」
「一つずつ」
「なら、全部なくなったわけじゃない」
「覚えていることと、残っていることは同じではありません」
リツは結び目を作り、エナの手を包むように一度握った。
「でも、エナはここにいる」
エナは答えなかった。
巻かれた布へ、もう一方の手を重ねる。
少し離れたところに、テオが座っていた。
「自分の札まで置く必要はなかった」
エナが顔を向ける。
「私だけ持って渡ることはできませんでした」
「それで、あの女の刃物が戻るわけではない」
「はい」
「もう一度でも、置けと言うか」
エナは火を見た。
「言います」
「そうか」
テオはそれ以上尋ねなかった。
*
ダンは三つの水袋をもう一度確かめた。
「このままなら、塔まで持つか」
テオが尋ねる。
「今日、ここで止まらなければ」
「止まれば」
「配る量を減らす。食料も同じだ」
テオはセラの担架を見た。
左足は、布を掛けて温めても力が戻っていない。
「火を消したら出る」
リツが顔を上げた。
「セラを休ませなくていいのですか」
「ここで一日休んでも、脚は戻らない」
「本人の前で決めないでおくれ」
担架の上から、セラが言った。
テオは口を閉じた。
「ここで眠っていれば歩けるようになるなら、私だってそうするよ」
セラは外套の端を胸元へ寄せた。
「でも、明日になっても、また運んでもらうことになる」
テオは頷いた。
「水は一つ減った。担架に使った布も、置いてきた衣服も戻らない」
「だから進むのですか」
リツが尋ねた。
「だから、ここで今日を使わない」
テオは通路の外へ目を向けた。
「距離を稼ぐ必要はない。川の音が聞こえないところまで離れる」
誰も反対しなかった。
火種だけを取り分け、残った火へ土をかける。
温めていた布を畳み、担架を持つ者が立ち上がった。
一行は、昼になる前に通路を出た。
*
朝に渡った川を背にして、人々は歩き始めた。
速くは進めなかった。
担架を持つ者は短い間隔で交代し、靴を失った男と、足首を痛めた女には、それぞれ一人が肩を貸した。濡れた衣服が脚へまとわりつき、足を上げるたびに水が落ちた。
荷は、昨日よりも軽くなっている。
歩みが軽くなった者はいなかった。
四つあった水袋は三つになった。
セラは担架の上にいた。
その担架を持つ者たちの背からは、昨日までの荷がなくなっていた。
川の音は、しばらく後ろからついてきた。
地面が上がり、崩れた石の間を抜けても、低い響きだけが残っている。
やがて、子どもの一人が歌い始めた。
二日目の夜にも聞いた歌だった。
最初の言葉を小さく繰り返し、次の言葉を間違えた。
「そこは違うよ」
セラが担架の上から言った。
子どもは不満そうに、最初から歌い直す。
一人が加わった。
また一人が声を重ねる。
途切れかけるたび、後ろの者が次の言葉を継いだ。
リツも口ずさむ。
エナはしばらく聞いていたが、やがて同じ言葉を歌い始めた。
谷の者たちは、最後の一節を歌った。
声を重ねて、朝を呼ぶ。
テオは、その言葉を知っていた。
塔では、一語だけ違った。
口にはしなかった。
歌が終わる頃には、川の音は聞こえなくなっていた。
*
日が傾く前に、一行は低い石壁の残る場所へ入った。
屋根はなかったが、地面は乾き、西からの風を避けられる。
テオは周囲を確かめ、担架を下ろさせた。
「今日はここまでだ」
人々は壁際へ座り込んだ。
食事が配られる。
量は少なかったが、朝からほとんど食べていない身体には温かかった。
水は三袋。
ダンは開ける袋を一つだけ決め、残る二つを壁際へ置いた。
見張りの順番も決まった。
夜が深くなると、火は一つだけになった。
人々は壁へ寄り、外套を重ねて眠り始める。
リツが自分の外套を広げた。
半分をエナへ掛ける。
「テオも、こちらへ」
「見張る」
「もう決まっています」
壁の端には二人の男が座っていた。
一人は外を見ている。
もう一人は、濡れた縄を火のそばで乾かしていた。
「交代まで休んでください」
テオは動かなかった。
エナが壁へ背を預ける。
「ここにいてください」
テオは彼女を見た。
「断ってもいいのか」
「はい」
リツは外套の端を持ったまま待っている。
二人とも、それ以上は何も言わなかった。
テオは二人の隣へ腰を下ろした。
リツが三人の膝へ外套を広げる。
狭いため、肩が触れた。
エナはリツの肩へ頭を預けた。
少しすると、眠ったリツの身体が反対側へ傾き、テオの肩へ触れた。
テオは動かなかった。
二人を起こしてまで、離れる必要はない。
そう考えることにした。
テオは目を閉じた。
肩に伝わるリツの重さと、その向こうで続くエナの呼吸を感じているうちに、朝から耳に残っていた水の音が、ようやく遠くなった。




