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神の外  作者: 古江 門


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15/22

DAY 5-3 残ったもの

 石壁の向こうには、低い通路が残っていた。


 入口の半分は土に埋もれている。テオが先に入り、天井と床を確かめた。


 奥へ進むほど狭くなるが、壁は崩れていなかった。床の中央には浅い溝があり、染み込んだ水が外へ流れている。


「ここへ入る」


 人々は斜面を上がり、順に通路へ入った。


 濡れた者を奥へ入れ、動ける者は入口近くへ座る。


 担架は壁際へ置かれ、子どもたちがセラの脚へ乾いた布を掛けた。


 ダンは残った三つの水袋を並べ、漏れがないことを確かめる。


「子どもとセラからだ。次に傷のある者」


 そばにいた男が器へ水を移し、ダンへ差し出した。


 ダンは一度断ろうとしてから、そのまま口をつけた。


 火種の包みも開かれた。


 外側の布は濡れていたが、内側に残った乾いた布をほぐし、細い木を重ねる。


 煙が上がる。


 やがて赤い点が一つ残り、小さな炎になった。


 濡れた外套から湯気が上がった。


 朝の光は、まだ通路の入口近くに差している。


 リツは河床で靴を失った男の足を洗い、切れた場所へ薬と布を当てた。


 渡る途中で足首をひねった女にも、立ってもらう。


 女は二歩進んだところで顔をしかめた。


「歩けますが、一人では難しいです」


「出るときに、支える者をつけます」


 リツは足首へ布を巻いた。


 テオは入口に立ち、外を見ていた。


 旧い河床は、もう川になっている。


 茶色い水が幅いっぱいに流れ、枝や岩を運んでいた。朝まで人々が立っていた場所は、どこにも残っていない。


「テオ」


 リツの声がした。


「腕を見せてください」


 縄を巻いていたところの皮膚が剥け、血がにじんでいる。


「あとでいい」


「出る前に見ます」


 リツは薬と布を持って待っていた。


 テオは入口を離れ、腰を下ろした。


 傷を洗われ、布を巻かれる。


「深くはありません」


「なら、巻かなくていい」


「川の水に触れています」


 リツの右腕にも、長い擦り傷があった。


「お前も見せろ」


「先に槍を見てください」


「腕が先だ」


 テオは薬を受け取り、リツの腕を引いた。


 傷の周りについた砂を落とし、布を巻く。


 その後で短槍を手に取った。


 担架を支えたところが少し窪み、木の表面には新しい傷が走っている。


 柄へゆっくり力を掛ける。


「まだ使える」


「塔まで持ちますか」


「ああ」


 リツが小さく笑った。


「では、任せます」


 昨日と同じ言葉だった。


     *


 火の近くで、一人の女がエナを見ていた。


 河床で最初に包みを外した女だった。


 エナは濡れた髪を絞りながら、その視線に気づいた。


「どうしましたか」


「あの包みには、父の刃物が入っていました」


「はい」


「もう切れません。でも、あれを残すために、ほかのものを置いてきたんです」


 エナは黙って女を見た。


「あなたが、置けと言った」


「言いました」


「渡るには、そうするしかなかった。それは分かっています」


 女は空になった腰の紐を握った。


「でも、なくしてよかったとは思えません」


「私も、そうは思いません」


 女が顔を上げた。


「父の刃物だったことを、覚えていてください」


「はい。忘れません」


 女は頷かなかった。


 それ以上何も言わず、火のそばへ戻った。


 エナはその背を見送った。


 手が、空になった腰へ伸びる。


 濡れた紐に触れ、すぐに離れた。


 リツが隣へ座った。


「手、見せて」


 エナの掌には、縄で擦れた赤い筋が残っていた。


 手首にも、指の形をした赤い跡がある。


 リツはそこを一度見たが、何も言わず、水を含ませた布を掌へ当てた。


 エナの指が小さく動く。


「痛い?」


「少し」


 リツは力を緩めた。


「包みには、何を入れてたの」


「二枚の札です」


「札?」


「私が生まれたときにいただいた言葉と、神へ問い直したときにいただいた言葉です」


 リツの手が止まった。


「ずっと持ってたの?」


「最初のものは、子どもの頃からです」


 リツが布を巻き直す。


「なくなってしまったね」


「はい」


「つらい?」


「つらいです」


 エナはすぐに答えた。


 通路の外では、水が流れ続けている。


「言葉は覚えてるんでしょう」


「一つずつ」


「なら、全部なくなったわけじゃない」


「覚えていることと、残っていることは同じではありません」


 リツは結び目を作り、エナの手を包むように一度握った。


「でも、エナはここにいる」


 エナは答えなかった。


 巻かれた布へ、もう一方の手を重ねる。


 少し離れたところに、テオが座っていた。


「自分の札まで置く必要はなかった」


 エナが顔を向ける。


「私だけ持って渡ることはできませんでした」


「それで、あの女の刃物が戻るわけではない」


「はい」


「もう一度でも、置けと言うか」


 エナは火を見た。


「言います」


「そうか」


 テオはそれ以上尋ねなかった。


     *


 ダンは三つの水袋をもう一度確かめた。


「このままなら、塔まで持つか」


 テオが尋ねる。


「今日、ここで止まらなければ」


「止まれば」


「配る量を減らす。食料も同じだ」


 テオはセラの担架を見た。


 左足は、布を掛けて温めても力が戻っていない。


「火を消したら出る」


 リツが顔を上げた。


「セラを休ませなくていいのですか」


「ここで一日休んでも、脚は戻らない」


「本人の前で決めないでおくれ」


 担架の上から、セラが言った。


 テオは口を閉じた。


「ここで眠っていれば歩けるようになるなら、私だってそうするよ」


 セラは外套の端を胸元へ寄せた。


「でも、明日になっても、また運んでもらうことになる」


 テオは頷いた。


「水は一つ減った。担架に使った布も、置いてきた衣服も戻らない」


「だから進むのですか」


 リツが尋ねた。


「だから、ここで今日を使わない」


 テオは通路の外へ目を向けた。


「距離を稼ぐ必要はない。川の音が聞こえないところまで離れる」


 誰も反対しなかった。


 火種だけを取り分け、残った火へ土をかける。


 温めていた布を畳み、担架を持つ者が立ち上がった。


 一行は、昼になる前に通路を出た。


     *


 朝に渡った川を背にして、人々は歩き始めた。


 速くは進めなかった。


 担架を持つ者は短い間隔で交代し、靴を失った男と、足首を痛めた女には、それぞれ一人が肩を貸した。濡れた衣服が脚へまとわりつき、足を上げるたびに水が落ちた。


 荷は、昨日よりも軽くなっている。


 歩みが軽くなった者はいなかった。


 四つあった水袋は三つになった。


 セラは担架の上にいた。


 その担架を持つ者たちの背からは、昨日までの荷がなくなっていた。


 川の音は、しばらく後ろからついてきた。


 地面が上がり、崩れた石の間を抜けても、低い響きだけが残っている。


 やがて、子どもの一人が歌い始めた。


 二日目の夜にも聞いた歌だった。


 最初の言葉を小さく繰り返し、次の言葉を間違えた。


「そこは違うよ」


 セラが担架の上から言った。


 子どもは不満そうに、最初から歌い直す。


 一人が加わった。


 また一人が声を重ねる。


 途切れかけるたび、後ろの者が次の言葉を継いだ。


 リツも口ずさむ。


 エナはしばらく聞いていたが、やがて同じ言葉を歌い始めた。


 谷の者たちは、最後の一節を歌った。


 声を重ねて、朝を呼ぶ。


 テオは、その言葉を知っていた。


 塔では、一語だけ違った。


 口にはしなかった。


 歌が終わる頃には、川の音は聞こえなくなっていた。


     *


 日が傾く前に、一行は低い石壁の残る場所へ入った。


 屋根はなかったが、地面は乾き、西からの風を避けられる。


 テオは周囲を確かめ、担架を下ろさせた。


「今日はここまでだ」


 人々は壁際へ座り込んだ。


 食事が配られる。


 量は少なかったが、朝からほとんど食べていない身体には温かかった。


 水は三袋。


 ダンは開ける袋を一つだけ決め、残る二つを壁際へ置いた。


 見張りの順番も決まった。


 夜が深くなると、火は一つだけになった。


 人々は壁へ寄り、外套を重ねて眠り始める。


 リツが自分の外套を広げた。


 半分をエナへ掛ける。


「テオも、こちらへ」


「見張る」


「もう決まっています」


 壁の端には二人の男が座っていた。


 一人は外を見ている。


 もう一人は、濡れた縄を火のそばで乾かしていた。


「交代まで休んでください」


 テオは動かなかった。


 エナが壁へ背を預ける。


「ここにいてください」


 テオは彼女を見た。


「断ってもいいのか」


「はい」


 リツは外套の端を持ったまま待っている。


 二人とも、それ以上は何も言わなかった。


 テオは二人の隣へ腰を下ろした。


 リツが三人の膝へ外套を広げる。


 狭いため、肩が触れた。


 エナはリツの肩へ頭を預けた。


 少しすると、眠ったリツの身体が反対側へ傾き、テオの肩へ触れた。


 テオは動かなかった。


 二人を起こしてまで、離れる必要はない。


 そう考えることにした。


 テオは目を閉じた。


 肩に伝わるリツの重さと、その向こうで続くエナの呼吸を感じているうちに、朝から耳に残っていた水の音が、ようやく遠くなった。


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