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神の外  作者: 古江 門


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12/22

DAY 4-3 正しかったこと

 古い建物が見えたとき、雨が降り始めた。


 最初は、砂の上に黒い点が落ちるだけだった。


 一つ、二つと増え、すぐに地面の色が変わっていく。


「見えたぞ」


 テオは前方を指した。


 斜面の下に、四角い壁が残っている。


 屋根の半分は崩れていたが、北と西の壁は立っていた。旧い河床よりも高い場所にあり、水が来てもすぐには届かない。


「担架を先に入れろ」


 雨粒が大きくなる。


 列の前にいた者たちが建物へ走り、入口に積もった石を退けた。


 リツが担架の前を持つ。


「上げます」


 後ろの男と歩調を合わせ、低い段差を越える。


 セラの身体が揺れないよう、エナが横から布を押さえた。


 子どもたちも先に入り、床の小石を手で払っている。


「ここへ」


 奥に残った壁のそばへ担架を下ろす。


 最後の者が建物へ入った直後、雨が一気に強くなった。


 崩れた屋根から水が落ち、床を叩く。


 外は白く煙り、少し離れた斜面も見えなくなった。


 人々は残った壁へ身を寄せた。


 濡れた外套を絞り、荷を確かめる。置いてきた衣服があれば、身体を拭くこともできた。


 だが、それを口にする者はいなかった。


 火を起こせる場所は、建物の奥にしかなかった。


 石を並べ、乾いた草と細い枝を入れる。


 火がつくと、人々は順に手をかざした。


 リツはセラの左足を確かめた。


「足先は分かりますか」


「少しだけね」


「先ほどよりは戻っています」


「明日は歩けそうかい」


「今は休んでください」


 エナが残していた外套を掛ける。


 セラは何も言わず、外套の端を胸元へ寄せた。


     *


 雨は日が落ちても止まなかった。


 壁を打つ音に混じり、屋根の割れ目から水が流れ続けている。


 人々は火を囲み、少ない食事を分けた。


 供物を運んでいた女は、残った包みを自分の隣へ置き、白い紐へ何度も触れていた。


 ダンは水袋を並べた。


 布の巻かれた手で一つずつ持ち上げる。重いものにはまだ両手が必要だったが、朝よりも指は閉じていた。


「これは明日の朝まで開けるな」


 周囲の者へ伝え、次の袋へ手を伸ばす。


 テオは入口から外を見た。


 雨の向こうに、河床は見えない。


「荷を分けろ」


 火のそばで、いくつかの顔が上がった。


「夜のうちに水が来たら、すぐに出る。水、食料、薬、縄、火種は別にまとめろ」


「ほかは?」


「一人一つだ。身体へ結べるものにしろ」


「また置いていくのか」


「水が来なければ、明日も持てる」


 それ以上は言わなかった。


 ダンは水袋を四つに分け始めた。


 食料と薬も火のそばへ集められる。


 人々は荷を開いた。


 衣服を畳み直す者。二つの道具を膝へ並べる者。種の袋を掌へ載せたまま動かない者。


 供物を運んでいた女は包みをほどき、小さな金属片を二つだけ布へ移した。


 子どもは両手に一つずつ品を持ち、セラを見た。


「どっちがいい?」


「あなたのものだよ」


「決められない」


「なら、もう少し持っていなさい」


「水が来たら?」


 セラは子どもの手を見た。


「そのときに、まだ持てる方を持ちなさい」


 エナも自分の荷を開いていた。


 小さな布へ何かを包み、結びかける。


 手を止め、一度ほどいた。


 リツは隣にいたが、何も尋ねなかった。


 やがて、それぞれの荷の上に小さな包みが置かれた。


「手で持つな」


 テオは包みを見て回った。


「腰か肩へ結べ。暗くても取れる場所に置け」


 最後に、共同の荷を確かめる。


 水。食料。薬。縄。火種。


 持つ者も決まった。


 まだ置いていくものはなかった。


 それでも、人々は残した荷の口を閉じ、選んだ包みを身体のそばへ寄せて眠った。


     *


 テオは火から少し離れたところに座った。


 昼に拾った金属を膝へ載せる。


 表面の錆を刃物で削ると、中から暗い銀色が現れた。


 建物の隅には、崩れた屋根を支えていた短い木がある。芯まで腐ってはいないが、真っすぐでもない。


「槍にするのですか」


 リツが隣へ腰を下ろした。


「槍と呼べるほどのものにはならない」


 テオは木の傷んだ部分を削った。


「悪魔を倒すものではない。近づかせないために使え」


「私の槍は、二つに分けられました」


「同じものは作れない」


「分かっています」


 太さを整えながら、テオは昨日、リツが槍を構えたときの手の位置を思い出した。


 前の手を置いていた辺りだけ、指が回りやすいよう細く削る。


 リツは自分の荷から細い革紐を取り出した。


「これを使ってください」


 昨日、失った槍を背負い袋へ留めていたものだった。


 テオは金属と木を重ね、革紐を何度も交差させた。


 リツが反対側から木を押さえる。


「もう少し上です」


「ここか」


「はい」


 二人の手が近づく。


 テオは最後に濡らした布を巻き、その上からもう一度縛った。


「乾けば締まる」


 短槍を持ち上げる。


 以前のものより短く、先端も整った形ではない。


 リツが受け取ろうとしたが、テオは渡さなかった。


「まだだ」


「今でも使えます」


「明日だけ使うものではない」


 テオは握りの部分へ指を滑らせた。


「塔まで持たせるなら、もう少し削る」


 リツは伸ばした手を下ろした。


「では、任せます」


     *


 エナが火のそばから離れてきた。


 手には、湯を入れた器を二つ持っている。


 一つをリツへ渡し、もう一つをテオのそばへ置いた。


「食事は」


 リツが尋ねる。


「済ませました」


「半分しか食べていません」


「セラが食べられなかったので」


「だからといって、エナまで減らす必要はありません」


 二人のやり取りを聞きながら、テオは槍の先を削った。


 石と金属が擦れ、細い音が続く。


 エナが向かいへ座る。


「なぜ、セラを置いていかなかったのですか」


 テオの手が止まった。


「置いていきたかったのですか」


 リツがエナを見る。


「そうは尋ねていません」


 エナはテオから目を逸らさなかった。


「残る者を除いた命を守るなら、置いていく方が確実だったはずです」


「ああ」


「では、なぜですか」


 雨が、崩れた屋根を打つ。


 少し離れた場所では、子どもたちがセラのそばで眠っていた。


「同じことがあった」


 テオは槍を膝へ置いた。


「俺と、俺に外を教えた者で出た。帰る途中で地面が崩れ、師の脚が動かなくなった」


「助けられなかったのですか」


 リツが尋ねる。


「縄を下ろした。だが、俺一人では引き上げられなかった」


 雨が来ていた。


 水も残っていなかった。


「戻っても、助けを連れてくる前に死ぬ。二人で残れば、二人とも死ぬ」


「その方は、何と」


「帰れと言った」


 持ち帰るべきものを持って帰れ。


 それが役割だと。


「俺は帰った」


「その方は」


「死んだ」


 テオは短く答えた。


 共同体へ戻ると、傷を洗われた。


 持ち帰った記録を渡し、師を残した場所を告げた。


「正しい判断だったと言われた」


 エナはしばらく黙っていた。


「帰ってきたことを、喜ばれましたか」


 テオは答えなかった。


「今日、セラを置かなかったのは、そのためですか」


「分からない」


「同じことを繰り返したくなかった?」


「分からないと言った」


 声が強くなる。


 近くで眠っていた者が身じろぎした。


 テオは口を閉じた。


「俺は、四十人を危険にさらした」


 声を抑えて続ける。


「今日、河床を越えられなかった。供物も衣服も失った。明日、水が来れば、いつ渡れるかも分からない」


「それでも、セラはここにいます」


 リツが言った。


「結果で正しくなるわけではない」


「置いていけば、正しかったのですか」


「残りを生かすならな」


「セラも、最初から全員の中にいます」


 テオは答えられなかった。


 エナは火の向こうにいる人々を見た。


「その方を残して帰ったことは、正しい判断だったのだと思います」


 テオは顔を上げた。


「ですが、正しかったからといって、苦しまなくてよいことにはならないでしょう」


「苦しんでも、死んだ者は戻らない」


「戻りません」


「なら、何の意味がある」


「意味が必要ですか」


 テオは答えなかった。


「忘れられないなら、忘れなくてもいいのだと思います」


 慰めるような声ではなかった。


 許すとも、仕方がなかったとも言わない。


「ですが、その苦しさが、今日の答えを一人で決めたわけではありません」


 四十人が荷を下ろした。


 供物を選んだ。


 担架を交代で持った。


「私たちは、一緒に運びました」


 テオは膝の上の槍を見た。


「俺は、同じことをしたくなかっただけかもしれない」


「そうかもしれません」


 エナは否定しなかった。


「それだけではなかったかもしれません」


 テオは槍を持ち上げた。


 削った先を指で確かめる。


 まだ一部に引っかかりがある。


 石へ当て、再び擦った。


     *


 雨が弱くなったのは、夜が深くなってからだった。


 テオは仕上げた短槍をリツへ差し出した。


 リツは両手で受け取る。


 重さを確かめ、狭い場所で一度だけ構えた。


 以前の槍より短い。


 握りの位置も違う。


 それでも、先端と腕が一直線につながった。


「どうだ」


「軽いです」


「折れやすい」


「使い方を変えます」


「突いたまま、身体を預けるな」


「昨日のようには?」


「あれをすれば折れる」


「では、昨日より早く戻ります」


 リツは槍を下ろした。


「ありがとうございます」


 テオは火へ目を向けた。


「必要だから作った」


「必要があって助けた人にも、礼は言えるのでしょう」


 昨日、エナが言った言葉だった。


 リツは少し笑っている。


 テオは答えなかった。


 それでも、礼を退けもしなかった。


 リツは槍を自分の隣へ置き、壁にもたれた。


 エナも火の近くへ戻らず、その場に座った。


 三人の間に、消えかけた火の明かりが揺れていた。


 やがてリツが目を閉じる。


 エナも壁へ背を預けた。


 テオは建物の入口へ移った。


 斜面の下には、明日渡る旧い河床が横たわっている。


 暗く、底は見えない。


 耳を澄ませると、低い音がした。


 雨の残りが岩を流れる音とは違う。


 切れ目がなく、少しずつ近づいている。


 テオは建物の中を振り返った。


 暗いうちに人々を起こし、担架を運ばせれば、斜面で誰かが足を滑らせる。セラだけでなく、担ぐ者まで動けなくなるかもしれない。


 いま動かす危険と、ここで夜明けを待つ危険を比べる。


 まだ、外へ出す方が危険だった。


 水が河床へ姿を現すか、音の近づき方が変われば、その時点で起こす。


 テオは壁へ背を預け、外套を身体へ巻いた。


 目を閉じる。


 浅い眠りへ落ち、音が変わるたびに目を覚ました。


 河床を見る。


 まだ水は見えない。


 再び目を閉じる。


 短く眠っては起き、暗い上流から届く音の近さを測り続けた。


 空が白み始めた頃、音は眠る前よりも大きくなっていた。


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