DAY 4-3 正しかったこと
古い建物が見えたとき、雨が降り始めた。
最初は、砂の上に黒い点が落ちるだけだった。
一つ、二つと増え、すぐに地面の色が変わっていく。
「見えたぞ」
テオは前方を指した。
斜面の下に、四角い壁が残っている。
屋根の半分は崩れていたが、北と西の壁は立っていた。旧い河床よりも高い場所にあり、水が来てもすぐには届かない。
「担架を先に入れろ」
雨粒が大きくなる。
列の前にいた者たちが建物へ走り、入口に積もった石を退けた。
リツが担架の前を持つ。
「上げます」
後ろの男と歩調を合わせ、低い段差を越える。
セラの身体が揺れないよう、エナが横から布を押さえた。
子どもたちも先に入り、床の小石を手で払っている。
「ここへ」
奥に残った壁のそばへ担架を下ろす。
最後の者が建物へ入った直後、雨が一気に強くなった。
崩れた屋根から水が落ち、床を叩く。
外は白く煙り、少し離れた斜面も見えなくなった。
人々は残った壁へ身を寄せた。
濡れた外套を絞り、荷を確かめる。置いてきた衣服があれば、身体を拭くこともできた。
だが、それを口にする者はいなかった。
火を起こせる場所は、建物の奥にしかなかった。
石を並べ、乾いた草と細い枝を入れる。
火がつくと、人々は順に手をかざした。
リツはセラの左足を確かめた。
「足先は分かりますか」
「少しだけね」
「先ほどよりは戻っています」
「明日は歩けそうかい」
「今は休んでください」
エナが残していた外套を掛ける。
セラは何も言わず、外套の端を胸元へ寄せた。
*
雨は日が落ちても止まなかった。
壁を打つ音に混じり、屋根の割れ目から水が流れ続けている。
人々は火を囲み、少ない食事を分けた。
供物を運んでいた女は、残った包みを自分の隣へ置き、白い紐へ何度も触れていた。
ダンは水袋を並べた。
布の巻かれた手で一つずつ持ち上げる。重いものにはまだ両手が必要だったが、朝よりも指は閉じていた。
「これは明日の朝まで開けるな」
周囲の者へ伝え、次の袋へ手を伸ばす。
テオは入口から外を見た。
雨の向こうに、河床は見えない。
「荷を分けろ」
火のそばで、いくつかの顔が上がった。
「夜のうちに水が来たら、すぐに出る。水、食料、薬、縄、火種は別にまとめろ」
「ほかは?」
「一人一つだ。身体へ結べるものにしろ」
「また置いていくのか」
「水が来なければ、明日も持てる」
それ以上は言わなかった。
ダンは水袋を四つに分け始めた。
食料と薬も火のそばへ集められる。
人々は荷を開いた。
衣服を畳み直す者。二つの道具を膝へ並べる者。種の袋を掌へ載せたまま動かない者。
供物を運んでいた女は包みをほどき、小さな金属片を二つだけ布へ移した。
子どもは両手に一つずつ品を持ち、セラを見た。
「どっちがいい?」
「あなたのものだよ」
「決められない」
「なら、もう少し持っていなさい」
「水が来たら?」
セラは子どもの手を見た。
「そのときに、まだ持てる方を持ちなさい」
エナも自分の荷を開いていた。
小さな布へ何かを包み、結びかける。
手を止め、一度ほどいた。
リツは隣にいたが、何も尋ねなかった。
やがて、それぞれの荷の上に小さな包みが置かれた。
「手で持つな」
テオは包みを見て回った。
「腰か肩へ結べ。暗くても取れる場所に置け」
最後に、共同の荷を確かめる。
水。食料。薬。縄。火種。
持つ者も決まった。
まだ置いていくものはなかった。
それでも、人々は残した荷の口を閉じ、選んだ包みを身体のそばへ寄せて眠った。
*
テオは火から少し離れたところに座った。
昼に拾った金属を膝へ載せる。
表面の錆を刃物で削ると、中から暗い銀色が現れた。
建物の隅には、崩れた屋根を支えていた短い木がある。芯まで腐ってはいないが、真っすぐでもない。
「槍にするのですか」
リツが隣へ腰を下ろした。
「槍と呼べるほどのものにはならない」
テオは木の傷んだ部分を削った。
「悪魔を倒すものではない。近づかせないために使え」
「私の槍は、二つに分けられました」
「同じものは作れない」
「分かっています」
太さを整えながら、テオは昨日、リツが槍を構えたときの手の位置を思い出した。
前の手を置いていた辺りだけ、指が回りやすいよう細く削る。
リツは自分の荷から細い革紐を取り出した。
「これを使ってください」
昨日、失った槍を背負い袋へ留めていたものだった。
テオは金属と木を重ね、革紐を何度も交差させた。
リツが反対側から木を押さえる。
「もう少し上です」
「ここか」
「はい」
二人の手が近づく。
テオは最後に濡らした布を巻き、その上からもう一度縛った。
「乾けば締まる」
短槍を持ち上げる。
以前のものより短く、先端も整った形ではない。
リツが受け取ろうとしたが、テオは渡さなかった。
「まだだ」
「今でも使えます」
「明日だけ使うものではない」
テオは握りの部分へ指を滑らせた。
「塔まで持たせるなら、もう少し削る」
リツは伸ばした手を下ろした。
「では、任せます」
*
エナが火のそばから離れてきた。
手には、湯を入れた器を二つ持っている。
一つをリツへ渡し、もう一つをテオのそばへ置いた。
「食事は」
リツが尋ねる。
「済ませました」
「半分しか食べていません」
「セラが食べられなかったので」
「だからといって、エナまで減らす必要はありません」
二人のやり取りを聞きながら、テオは槍の先を削った。
石と金属が擦れ、細い音が続く。
エナが向かいへ座る。
「なぜ、セラを置いていかなかったのですか」
テオの手が止まった。
「置いていきたかったのですか」
リツがエナを見る。
「そうは尋ねていません」
エナはテオから目を逸らさなかった。
「残る者を除いた命を守るなら、置いていく方が確実だったはずです」
「ああ」
「では、なぜですか」
雨が、崩れた屋根を打つ。
少し離れた場所では、子どもたちがセラのそばで眠っていた。
「同じことがあった」
テオは槍を膝へ置いた。
「俺と、俺に外を教えた者で出た。帰る途中で地面が崩れ、師の脚が動かなくなった」
「助けられなかったのですか」
リツが尋ねる。
「縄を下ろした。だが、俺一人では引き上げられなかった」
雨が来ていた。
水も残っていなかった。
「戻っても、助けを連れてくる前に死ぬ。二人で残れば、二人とも死ぬ」
「その方は、何と」
「帰れと言った」
持ち帰るべきものを持って帰れ。
それが役割だと。
「俺は帰った」
「その方は」
「死んだ」
テオは短く答えた。
共同体へ戻ると、傷を洗われた。
持ち帰った記録を渡し、師を残した場所を告げた。
「正しい判断だったと言われた」
エナはしばらく黙っていた。
「帰ってきたことを、喜ばれましたか」
テオは答えなかった。
「今日、セラを置かなかったのは、そのためですか」
「分からない」
「同じことを繰り返したくなかった?」
「分からないと言った」
声が強くなる。
近くで眠っていた者が身じろぎした。
テオは口を閉じた。
「俺は、四十人を危険にさらした」
声を抑えて続ける。
「今日、河床を越えられなかった。供物も衣服も失った。明日、水が来れば、いつ渡れるかも分からない」
「それでも、セラはここにいます」
リツが言った。
「結果で正しくなるわけではない」
「置いていけば、正しかったのですか」
「残りを生かすならな」
「セラも、最初から全員の中にいます」
テオは答えられなかった。
エナは火の向こうにいる人々を見た。
「その方を残して帰ったことは、正しい判断だったのだと思います」
テオは顔を上げた。
「ですが、正しかったからといって、苦しまなくてよいことにはならないでしょう」
「苦しんでも、死んだ者は戻らない」
「戻りません」
「なら、何の意味がある」
「意味が必要ですか」
テオは答えなかった。
「忘れられないなら、忘れなくてもいいのだと思います」
慰めるような声ではなかった。
許すとも、仕方がなかったとも言わない。
「ですが、その苦しさが、今日の答えを一人で決めたわけではありません」
四十人が荷を下ろした。
供物を選んだ。
担架を交代で持った。
「私たちは、一緒に運びました」
テオは膝の上の槍を見た。
「俺は、同じことをしたくなかっただけかもしれない」
「そうかもしれません」
エナは否定しなかった。
「それだけではなかったかもしれません」
テオは槍を持ち上げた。
削った先を指で確かめる。
まだ一部に引っかかりがある。
石へ当て、再び擦った。
*
雨が弱くなったのは、夜が深くなってからだった。
テオは仕上げた短槍をリツへ差し出した。
リツは両手で受け取る。
重さを確かめ、狭い場所で一度だけ構えた。
以前の槍より短い。
握りの位置も違う。
それでも、先端と腕が一直線につながった。
「どうだ」
「軽いです」
「折れやすい」
「使い方を変えます」
「突いたまま、身体を預けるな」
「昨日のようには?」
「あれをすれば折れる」
「では、昨日より早く戻ります」
リツは槍を下ろした。
「ありがとうございます」
テオは火へ目を向けた。
「必要だから作った」
「必要があって助けた人にも、礼は言えるのでしょう」
昨日、エナが言った言葉だった。
リツは少し笑っている。
テオは答えなかった。
それでも、礼を退けもしなかった。
リツは槍を自分の隣へ置き、壁にもたれた。
エナも火の近くへ戻らず、その場に座った。
三人の間に、消えかけた火の明かりが揺れていた。
やがてリツが目を閉じる。
エナも壁へ背を預けた。
テオは建物の入口へ移った。
斜面の下には、明日渡る旧い河床が横たわっている。
暗く、底は見えない。
耳を澄ませると、低い音がした。
雨の残りが岩を流れる音とは違う。
切れ目がなく、少しずつ近づいている。
テオは建物の中を振り返った。
暗いうちに人々を起こし、担架を運ばせれば、斜面で誰かが足を滑らせる。セラだけでなく、担ぐ者まで動けなくなるかもしれない。
いま動かす危険と、ここで夜明けを待つ危険を比べる。
まだ、外へ出す方が危険だった。
水が河床へ姿を現すか、音の近づき方が変われば、その時点で起こす。
テオは壁へ背を預け、外套を身体へ巻いた。
目を閉じる。
浅い眠りへ落ち、音が変わるたびに目を覚ました。
河床を見る。
まだ水は見えない。
再び目を閉じる。
短く眠っては起き、暗い上流から届く音の近さを測り続けた。
空が白み始めた頃、音は眠る前よりも大きくなっていた。




