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神の外  作者: 古江 門


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10/21

DAY 4-1 遅れる足

 夜のうちに、風が止んでいた。


 テオは岩の間から空を見た。


 頭上には雲がない。東の空も明るくなり始めている。


 だが、遠く西の地平に、黒い線が横たわっていた。


 昨日までは見えなかった雲だった。


 低く、幅が広い。


 こちらへ近づいている。


「今日は休みを短くする」


 起き始めた者たちへ、テオは言った。


「日が傾くまでに、旧い河床へ下りる。できれば、その向こうまで行く」


 ダンが水袋を確かめながら空を見た。


「雨が来るのか」


「ここへ来るかは分からない」


「では、なぜ急ぐ」


「あの雲の下で降れば、上流の水が動く」


 ダンは西の空と、自分の足元を見比べた。


 いま立っている土地は乾いていた。昨日まで雨が降った跡もない。


「ここが晴れていてもか」


「ああ」


「水が来ても、引くまで待てばいい」


「上でどれだけ降るか分からない。一日で引くとは限らない」


 テオは西の雲を見た。


「谷を出たときは、七日目までに塔へ着くと見ていた。河床で何日も止まる分まで、水と食料は持っていない」


 谷の者たちは、雨が降れば水路へ水が増えることを知っている。


 だが、見えない土地へ降った雨が、何日も水のなかった場所を流れることには慣れていなかった。


「河床を渡った先に、壁が残っている」


 テオは続けた。


「そこまで行けば、雨も風も避けられる」


 人々は荷をまとめ始めた。


 傷へ巻いた布を確かめる者。眠ったままの子どもを起こす者。冷えた身体を伸ばす者。


 リツは自分の右手を開き、掌の傷を確かめていた。


 背負い袋の脇には、昨日まで槍を束ねていた革紐だけが残っている。外套の内側には短い刃物があるが、それでは悪魔との距離を保つことはできない。


「槍がなくても歩けるか」


 テオが尋ねる。


「槍で歩いていたわけではありません」


「昨日までより、守れる範囲は狭くなる」


「分かっています」


 リツは空になった革紐を外し、背負い袋の中へ入れた。


「今日は、悪魔の領域ではないのでしょう」


「昨日までいなかったからといって、今日もいないとは限らない」


「それも分かっています」


 言い返す声に、昨日までの強さはなかった。


 それでも、目を逸らしはしなかった。


 少し離れたところでは、エナがこめかみの傷を覆う布へ手を伸ばしていた。


 そばにいたリツが、その手を止める。


「緩んでいます」


「自分で直せます」


「後ろの結び目は見えません」


 エナは手を下ろした。


 リツが髪を持ち上げ、布の端を結び直す。


 その間、二人の肩は触れたままだった。


 テオは西の空へ目を戻した。


「出るぞ」


     *


 一行は、緩やかな斜面を下り始めた。


 悪魔の領域を越えたことで、昨日より列はまとまっている。


 先頭のテオが止まれば、後ろも止まる。足元の悪い場所では、前の者が後ろへ手を伸ばした。


 指示を伝える声も、大きくする必要はなかった。


 ダンは水袋を持っていない。


 それでも列の中央を行き来し、袋の膨らみや、持つ者の歩き方を見ていた。


「そちらを先に使え」


「まだ半分以上あります」


「口の近くが濡れている。先に空にした方がいい」


 水袋を持つ男が結び目を確かめた。


 ダンは布の巻かれた手を伸ばし、袋の口をつまんだ。


 昨日はほとんど曲げられなかった指が、今日は結び目を持ち上げるところまで動いている。自分で締め直そうとしたが、まだ力が足りず、袋を男へ返した。


「ここを、もう一度結べ」


「分かった」


 水袋を持つことはできなくても、水を見ることはできる。


 その手も、少しずつ戻り始めていた。


 列の後ろ寄りでは、杖を持った老女が歩いていた。


 谷を出るとき、先頭へ立とうとしていた者だった。


 いまは子ども二人の間にいる。


「塔は、谷より高いの?」


 一人が尋ねた。


「塔というくらいだから、高いのだろうね」


「どのくらい?」


「私にも見えないほどだよ」


「見たことないの?」


「ないよ」


 老女は杖を前へ置き、一歩進んだ。


「知らないことを教えてもいいの?」


「知らないことは、知らないと教えればいい」


 子どもは少し考えた。


「それなら、ぼくにもできる」


「できるかもしれないね」


 少し前を歩いていたエナが、足を緩めた。


「私も、似たようなことを聞いた覚えがあります」


「あなたは、もう少し面倒な聞き方だったよ」


「そうでしたか、セラ」


 セラは小さく笑った。


「覚えていないなら、そのままでいいさ」


 エナも少し笑い、また前へ戻った。


 しばらくして、リツがセラの横へ並んだ。


「左足は大丈夫ですか」


「まだ大丈夫だよ」


「動きにくくなったら、すぐに言ってください」


「言う前に、あなたが気づくでしょう」


「それでも、言ってください」


 セラは小さく笑い、杖を前へ置いた。


 リツはしばらく隣を歩き、それから列の外側へ戻った。


     *


 日が高くなる頃には、西の雲が形を変えていた。


 黒い線だったものが、いくつもの山のように重なっている。


 風はまだ弱い。


 低い草も、ほとんど動いていなかった。


 静かすぎた。


 テオは平らな岩の陰で列を止めた。


「水を飲め。座るな」


 人々は荷を背負ったまま、水袋を回した。


 子どもや老人だけが岩へ腰を下ろす。


 セラも杖を両膝の間へ置き、岩へ座った。


 隣にいた子どもが水を差し出す。


「飲まないの?」


「あとで飲むよ」


「あとでって、いつ?」


 セラは答えなかった。


 休息を終え、立とうとしたときだった。


 杖へ両手をつき、身体を持ち上げる。


 左の膝が折れた。


 リツがすぐに肩を支えた。


「セラ、座ってください」


「いつものことだよ」


「いつもより悪いです」


 リツはセラを岩へ戻し、靴を脱がせた。


「足先は分かりますか」


「少しはね」


「私の手を押してください」


 足の裏へ掌を当てる。


 セラの足は、ほとんど動かなかった。


「谷でも、冷えると左足が動きにくくなることはありました」


 リツがテオへ言った。


「休めば戻るのか」


「いつもなら。でも、ここまで力が入らないのは初めてです」


「支えれば歩けるか」


「体重を載せられません」


 テオはセラと、ここから先の斜面を見た。


 二人で担ぐ。


 百歩より前に交代する。


 交代要員の荷を、ほかの者が持つ。


 列は、今までの半分ほどの速さになる。


「それでは、河床の向こうへは着けません」


 リツが言った。


「ああ」


 テオは西の空を見た。


「手前の建物へ入ることになる」


「私はここに残ります」


 セラが言った。


「岩の下なら、風は避けられる。水を少し置いていけばいい」


 誰も答えなかった。


「子どもたちは、もう外を歩けます」


 セラは二人を見た。


「私が隣にいなくても、前の人についていける」


「嫌だ」


 一人が言った。


「わがままを言うものではありません」


「嫌だ」


「皆を危ない目に遭わせることになります」


 セラはエナへ顔を向けた。


「先頭へ立つことだけが、人を導くことではないと、あなたは言いました」


「はい」


「ならば、残ることもできるはずです」


「セラが残ることを選ぶことはできます」


 エナはセラの前へしゃがんだ。


「ですが、私たちがセラを置いていくかどうかまで、一人では決められません」


「私の身体のことです」


「私たちの旅のことでもあります」


 セラは杖を握り直した。


「ここへ残るかは、私が決めます」


「残るかは、セラが決められます」


 エナは静かに答えた。


「それでも、私たちには、置いていかないと決めることができます」


 セラの眉がわずかに動いた。


「昔から、言葉の隙を探す子だった」


「そういう聞き方を覚えたのだと思います」


「私が教えたとは言わないでおくれ」


 セラの口元が、少しだけ緩んだ。


 エナも、それ以上は言わなかった。


 風が一度、岩の上を通った。


 乾いた草が伏せ、すぐに戻る。


 テオはセラが座る岩陰を見た。


 雨を避けるだけなら使える。


 水を一袋。食料を二日分。


 動けるようになれば、来た道を戻ることもできる。


 だが、悪魔の領域がある。


 谷も、もう人の戻る場所ではない。


 ここへ残せば、長くは生きられない。


 分かっていた。


 同じような岩陰だった。


 動かなくなった脚。


 残された水。


 自分へ向けられた声。


 ――帰れ。


「先へ行ってください」


 セラが言った。


 テオは目を閉じなかった。


 西の雲を見る。


 人々の荷を見る。


 セラの足を見る。


 残る者を除いた命を守るなら、ここへ一人を置く方が確実だった。


 それでも、その言葉を口にすることができなかった。


「荷を下ろせ」


 周囲の者たちが動きを止めた。


「河床の向こうまで行けなくなるぞ」


 誰かが言った。


「分かっている」


 テオが答える。


「雨が来たら、全員が危ない」


「それも分かっている」


 すぐに荷を下ろす者はいなかった。


 テオが一人ずつに命じれば、動かすことはできる。


 だが、その荷が誰のもので、何を残せるのかまでは、テオには決められない。


 ダンが肩を振り、自分の背負い袋を地面へ落とした。


 指が使えないため、隣の男が留め紐を外す。


「何から置く」


 ダンが尋ねた。


 別の者も、ゆっくりと荷を下ろした。


 その動きが、周囲へ広がっていく。


 セラが小さく息を吐いた。


「水は――」


「お前へ残すためではない」


 テオは荷から縄を取り出した。


「担架を作る」


 リツが顔を上げた。


「だが、このままでは運べない」


 テオは地面に並び始めた荷を見た。


「持っていくものを選ぶ」


 風が、先ほどより強く吹いた。


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