第6話『古馬場の夜のスパイスと、偽りの禿狸』後編
狸の振り回す徳利の中から宙を舞う、溢れたどす黒い液体。護さんはそれを素手で一滴だけ掬い取ると、ペロリと舌先で舐めた。
「ふふふ……なるほど、そういうことやったか」
「護さん!?」
「こむぎちゃん、もう大丈夫や。危ない危ない、俺としたことが騙されるとこやったわ」
『何をゴチャゴチャと! 往生際が悪いわ、死ねーい!』
「ふん、麺場家たるもの、同じ手は二度も喰らわん。こむぎちゃん、アレを!」
「はいっ!」
私は迷わず保冷バッグに手を突っ込み、凍りついた冷凍うどんを護さんへと投げ渡した。
「よっしゃ! 武器が手に入ったらこっちのもんや。覚悟せいや――『そばくい狸』!」
『な、なにぃ!?』
怪異がぎょっと目を見開く。私も思わず叫んでいた。
「何ですかそれ!」
「本物の屋島の禿狸の徳利に入っとるんはな、極上の『うどんの出汁』や。だが、この偽物の徳利に入っとるんは、カツオと濃口醤油の『蕎麦つゆ』や!」
『……フッ、さすがは怪異祓い麺場家の当主。ワシの正体を見抜くとはな。いかにもワシは、江戸蕎麦派の尖兵たる「そばくい狸」じゃ。じゃが、それを知ったところで貴様に勝ち目はない!』
「何が狙いや……。お前らの目的は何や!」
『狙い? カーカッカッ! これはこれは、白々しい。麺場護、清めのうどん麺棒を祭壇から降ろし、うどん皇子を復活させて讃岐の怪異を操り、「うどん対そば」の大戦争を裏で仕組んだのは、他でもない貴様であろうが!』
「なっ……! 違う! ……俺は確かにうどんが好きやが、そんな戦争なんか起こしとらん! 信じてくれ、あれは何者かに奪われたんや!」
『だがもう遅い。お前のせいで、本物の屋島の狸どもがすでに復讐の戦争の準備を始めているというではないか。どちらにせよ、お前はもう終わりじゃ!』
そばくい狸が再び徳利を掲げると、幻影の炎がさらに激しく燃え盛った。
「くっ……ともあれ、高松の美しい街並みを幻影とはいえ炎に包んだお前を許すわけにはいかん。きっちり除霊させてもらうけんな!」
護さんは冷凍うどんをビニール袋に詰め、一気に振り回した。しかし、そばくい狸が放つ幻影の熱風に煽られ、カチコチだった冷凍うどんが一瞬で熱を帯び、ドロドロに解凍されていく。
『カカーッ! 頼みの武器がそれでは戦えまい!』
液体のようにフニャフニャになったうどん袋が虚しく空を切り、生じた隙を突いて、そばくい狸の重い陶器の徳利が護さんの脇腹に直撃した。
「ぐぅっ……! やばいな。この炎の熱の中では、冷凍うどん鎚もつるもち麺跳弾も、ただの焼き菓子になってまう……。この熱に対抗するには……。そや!」
何かを閃いた護さんは、激しい炎を掻い潜り、鶴角の店内へと猛ダッシュで飛び込んでいった。
そして次の瞬間、先ほど頼んでまだ一口も手をつけていない、並々とスープが注がれた『カレーうどん』の丼を両手で掲げて戻ってきたのだ。
「熱には熱を! 暑さにはカレーを! いくぞ、なまくら狸ぃ!」
『なまくら? ……おのれ……言わせておけば、そんな汁物で何が――』
「さぁ、鶴角の絶品のカレー、とくと喰らえぃ!」
護さんは丼にガバッと箸を突っ込むと、スパイシーな黄色の熱だまりを、そばくい狸の顔面に向けて鮮やかに弾き飛ばした。飛び散る熱々のスープ。
『ぐぬぬ! カレーごときでワシが……な、なんだこのカレーは……ただのスパイスの刺激だけじゃない……和風出汁の、圧倒的に芳醇なイリコの香り……な、なんという旨さじゃ、身体の芯からとろけてまう……!』
カレーうどんの圧倒的な「ダシの旨味」に脳を破壊され、そばくい狸の妖気が一気に霧散していく。周囲を包んでいた幻影の炎が、瞬く間に鎮火していく。
「よし! 炎が弱まった今がチャンスや! こむぎちゃん、新しい冷凍うどんを!」
「はいっ、護さん!」
空中で冷凍うどんをキャッチした護さんは、それを右手に掲げて高く跳躍した。
「喰らえ! 麺場家秘奥義――『脳天唐竹割・冷凍うどんチョップ』!!!」
バキィィィン!!!
『ぐきゃあぁぁぁーーーっ!?』
凍気と霊力をまとった一撃が狸の脳天を直撃し、そばくい狸の身体が内側から弾け飛ぶ。
「ええか、狸よ。お前の敗北の理由はな、高松の街を炎に包んだことや。お前は、一番怒らせてはいけない香川県民の誇りを踏みにじったんや!」
『カーカッカッ……だがな……もう止められんぞ……この地に向けて、各地の数々の怪異どもが、すでに進軍を始めておる……呑気に構えておけるのも、今の……うちよ……』
不気味な呪詛の言葉を遺し、そばくい狸は光の塵となって完全に除霊された。
夜の古馬場に、再び静寂が戻る。
「護さん……一体、何が起きようとしてるんですか? 屋島の狸たちが大戦争の準備をしてるなんて……」
私は恐怖に震えながら、拳を固く握りしめてうつむいている護さんの背中を見つめた。
「護……さん?」
「あぁぁぁーーーっ!!! 俺の、俺の一番楽しみにしとった、鶴角のカレーうどんがぁぁぁ!!! まだ一口も食べとらんのにぃぃぃ!!!」
護さんは空っぽになった丼を抱え、涙目で絶叫していた。
「えー、そっちですか!?」
シリアスな世界の危機よりも、目の前のカレーうどんの損失を嘆く所長に、私は本日最大のため息を突くのだった。




