第5話『古馬場の夜のスパイスと、偽りの禿狸』前編
「いやぁ、あのつるもち麺が踊るように跳ねとるんを見たら、やっぱり本物のうどんが食いたくなるなぁ」
中村トンネルの怪異を無事にに鎮めた護さんが、大真面目な顔でハンドルを握っている。
「いや、護さんはいつだってうどんを食べたいだけでしょ。でも、もう深夜ですよ? こんな時間に開いてるうどん屋さんなんて、香川県に本当にあるんですか?」
助手席の私がジト目で睨むと、護さんは静かに笑みを浮かべた。
「それがな、あるんよ。不夜城の高松を舐めたらいかん。眠らない街、高松やで。ほな行こか」
深い闇に包まれた牟礼町からは、車でおよそ二十分。
ネオンサインが眩しくきらめく高松最大の歓楽街・古馬場に、私たちはたどり着いた。
「えぇ……こんなディープな飲み屋街にうどん屋さんなんてあるんですか? 周りは居酒屋とかスナックばっかりじゃないですか」
「そこが讃岐うどん文化の奥深さよ。高松のうどん屋は夕方までに閉まる店が多いんやが、今から行くこの『鶴角うどん』は、夜から深夜にかけて営業する。まさに、高松市民の『シメのうどん』を支え続ける聖地なんや」
「は、はぁ。……こんな時間に食べて大丈夫かなぁ? 私はあっさりと『かけうどん』にします……」
店内に入り、しばらくしてうどんが運ばれてくると、私の鼻腔を突いたのは、イリコ出汁の香りではなかった。護さんのお盆から、猛烈にスパイシーで食欲をそそる、とんでもなく良い匂いが立ち上ってきたのだ。
「ちょっと、護さん! なんですかそれ! めちゃくちゃ美味しそうなんですけど!」
「フッ、これぞ鶴角名物『カレーうどん』や。スパイシーでありながら、ベースにはしっかりと引かれた和風出汁の旨味。それが茹でたて熱々の極上麺にドロリと絡みつく、深夜の渾身の一杯やで」
「……そういう魅力的な情報は、私が注文する前に教えてくださいよ!」
「何事も経験や。隣の人が食べよったうどんを見て、『美味しそうやな、今度来た時は絶対あれを食べよう』と思う。その未練が、また人を店へと呼び戻すんや。リピートの心理学やな」
「屁理屈ばっかり……。でも、かけうどんも本当に美味しい――って、護さん。なんだか急に、焦げ臭い臭いがしてきませんか?」
「……ほんまやな。ダシの匂いでも、カレーのスパイスでもない。これは、外からか?」
胸騒ぎを覚えて急いで店の引き戸を開け、外を確認した私は、その光景に息を呑んだ。
なんと、ネオンが輝いていたはずの高松の街が、真っ赤な炎に包まれて激しく燃え上がっているのだ。
「火事ですよ! 護さん、大変です、早く逃げないと街ごと焼き尽くされちゃいます!」
私はうどんを食べる手を止めて、パニックになりながら慌てて荷物をまとめて身支度を始めた。しかし、護さんは動かない。丼を置いた彼の肩が、怒りで激しく震えていた。
「いや、違う。これは本物の火やない、幻覚や……! 畏れ多くも、香川県民の魂たる街にこんな屈辱を与えるとは……!」
『カーカッカッ! うどんなんて、燃えカスになって滅んじまえ! カカーッ!』
燃え盛る幻影の炎の奥から、私たちを激しく嘲笑うような、高笑いが響き渡る。
「くそっ! どこや! コソコソ隠れとらんと姿を現せ、卑怯者!」
『カーカッカッ! どこを見ておる。ワシはここじゃ、マヌケめ!』
「護さん、後ろっ!!」
私の悲鳴は間に合わなかった。護さんは完全に背後を取られていた。
護さんが慌てて振り向いた瞬間、背後に立った影が抱えていた『巨大な陶器の徳利』が振り下ろされる。
直撃を受けた護さんの身体が、激しく壁まで吹き飛ばされる。
「ぐはっ……! ……お前、誰や。……その手にした徳利は、まさか……!」
床に倒れこむ護さんの前、火煙の中からゆらりと現れたのは――大きなお腹をした、一匹の「狸」だった。頭に木の葉を乗せ、着物を羽織っている。
「護さん、嘘でしょ……!? あの姿、まさか屋島の伝説にいる『屋島の禿狸』ですか!?」
「まさか……四国狸の総大将たる屋島の太三郎狸が、こんな下劣な真似をするわけがない! 一体、奴の身に何が起きてるんや……!」
狸は一歩一歩、動けない護さんへと近づくと、怨念の満ちた巨大な徳利を容赦なく振り上げた。
『もう、おしまいじゃ! 讃岐のコシごと、死ねぃ! 麺場護ぅーーーっ!』
「護さん! 危ないっ!!」
絶体絶命の危機。武器である冷凍うどんを抜く暇すらない護さんに、徳利が振り下ろされようとしていた――その瞬間、護さんは避けるどころか、ニヤリと微笑んだ。




