第3話『土三寒六の弾丸と、忍び寄る影』前編
「こむぎちゃん。あの警官の足元、影をよく見てみぃ」
護さんに言われて、私は恐怖を堪えながら不自然にうごめく警官の足元に目を凝らした。アスファルトに伸びる黒い輪郭は、制服を着た人間の形ではなかった。
「……え? 本当だ。人間の形をしていない……まるで、細長い尾を持った獣のような……」
「そうや、あれは『カボソ』言うてな。香川に伝わるカワウソの妖怪や。あーやって人に化けては夜道で人を惑わしたり、悪さをしよるんや」
警官に化けたカボソは、口が裂けるほどニヘラと不敵に笑うと、あっという間にこちらに襲いかかってきた。
「けけけ! うどんを粗末にする奴は、うどんにやられて死んじまえー! くけけけけ!」
「ひゃああっ! 来ます!」
「こむぎちゃん、助手席の保冷バッグから『アレ』を!」
私は慌てて軽トラに手を差し込み、冷気が溢れるアルミの保冷バッグを開けた。しかし、中に眠っているのは――。
「はいっ! って、護さん、冷凍うどんしかありませんよ!?」
「そうや! それでええんや! つべこべ言わんと、はよこっちに投げて!」
「わ、分かりましたぁ!」
私はカチコチに凍った冷凍うどんを掴むと、迫り来るカボソの頭上を越えるようにして、護さんに向けて全力で投げつけた。
「でも護さん、一体そんなもので何をするつもりなんですか!?」
迫る爪を紙一重でかわしながら、護さんは空中で冷凍うどんをキャッチし、手際よくビニール袋に詰めると、その口をキュッと硬く縛った。
「こむぎちゃん。うどんてのはな、腹を膨らませるだけやない。除霊にも絶大な効果があるんや。この冷凍うどんをな、こうやって頑丈なビニール袋に詰めるやろ……こうや!」
護さんはビニール袋の端を掴み、カチコチの冷凍うどんを頭上で凄まじい速度でぶん回す。風を切る音が「ブォォォン!」と不気味に響いた。
「行くぞカボソさん! 讃岐のコシをナメるなよ、おらー!」
遠心力を乗せた冷凍うどんが、カボソの額に真っ向から直撃した。
バキィィィン!!!
「ぐぎゃぁぁぁーーー!?」
カボソは悲鳴を上げながら、光の塵となって影も残さず消え去っていった。
静まり返る『タテヨコうどん』の駐車場。
「……あの、護さん」
「なんや?」
「それ、ただの冷凍うどんを袋に詰めた『鈍器』じゃないですか」
「何を言うとんや。麺場家に伝わる、由緒正しき対怪異用打撃武器・『冷凍うどん鎚』や」
「……なんか、いきなりこの探偵事務所が胡散臭くなってきたんですけど」
「胡散臭いてなんや! 失礼な!」
私はジト目で、護さんがビニール袋から取り出した、冷凍うどんを見つめた。
「そもそも、なんでうどんが除霊に効くんですか? 意味が分かりません」
「こむぎちゃんは東京モンやから分からんか。うどんにはな、ようけ『塩』が使われとるんや」
「だったら、普通に塩撒けばいいじゃないですか!」
私の真っ当な反論に、護さんは大真面目な顔で首を振った。
「やから、それが『ぴっぴの呪い』に対抗するための唯一の手段なんや。ええか、うどんの製法にはな、古くから『土三寒六常五杯』という口伝がある。夏場は塩一に対して水三、冬場は水六、春秋は水五の割合で塩水を作る。季節の温度に合わせて、これでもかってくらい大量の塩が使われとるんや」
「はえー……」
「それを、職人が足で何度も踏み、命を懸けて丹念に鍛え上げることで、出来上がるのが讃岐うどん。これでないと怪異は祓えんのや!」
「なるほど……。なんか説得力があるような、ないような……」
私が腕を組んで唸っていると、護さんは消え去ったカボソの跡を見つめ、ふっと表情を険しくした。
「そやけど、こうして前衛の小物が街に降りてきたっちゅうことは、高松の市街地も、もうヤバいかもな」
「ヤバいって、どういうことですか?」
「……うどん皇子の呪いで本格的に怪異が目覚めたら、この香川全土が、蕎麦への怒りで覆い尽くされるかもしれん」
「……そんな……」
想像してしまい、私の背筋が今度こそ恐怖で凍りついた。
そんな時、また護さんのポケットでスマホがけたたましく鳴り響いた。
「はい、麺場。……あぁ、警部。何、牟礼町で? 分かった」
通話を切った護さんは、私の肩をポンと叩いた。
「こむぎちゃん、また捜査依頼や。夜の決戦に備えて、今日は一旦事務所に帰るで」
「ま、まさか夜に出動ですか!?」
「そうや。牟礼町の中村トンネルで怪異が騒いどるらしい。奴らは夜にしか姿を現さん。帰ってしっかり準備して備えよう」
私が「ちゃんと夜勤手当出してくださいよ……」とボソボソ呟くと、護さんは聞こえないフリをして軽トラのアクセルを踏み込んだ。
◇◇◇
そして、その夜。
私たちがやってきたのは、高松市牟礼町にある『中村トンネル』。
正式名称を『立石隧道』という。明治時代に作られた古い手掘りのトンネルで、街灯などの照明は一切なく、地元では有名な心霊スポットだ。道幅も軽トラが一台やっと通れるほどに狭く、現在はほとんど利用されていない。
暗闇の中にぽっかりと開いたトンネルの口は、まるで巨大な化け物の喉奥のようだった。
「なんか……いかにもな雰囲気ですね。オカルト好きの私でも、さすがにこれは少しだけ寒気がしますよ」
「……入るぞ」
護さんは県警が張った黄色い規制線を潜り抜け、懐中電灯の細い光だけを頼りに、ひんやりとしたトンネルの中へと足を踏み入れた。
ジトジトと湿った壁、自分の足音だけが異常に大きく響く不気味な空間。
「なんだかリアルな肝試しに来たみたいですね。護さん、さっさと除霊して早く帰りましょう。暗いところでつまずいて怪我しゃ大変ですし……」
「しっ! 静かに」
護さんが突然立ち止まり、懐中電灯の光を一箇所に固定した。
「……おる。完全に、こっちに気づいたようや。こむぎちゃん、冷凍うどんの準備を!」
「はいっ!」
私は背負った保冷バッグから、冷え切った冷凍うどんを取り出し、護さんの手に素早く手渡した。
ゴゴゴゴゴゴゴッ……!!!
突如、トンネルの岩肌が地鳴りのような音を立てて激しく震えた。
次の瞬間、生々しい岩壁の隙間から、ドロドロとした黒い「無数の人間の手」が、ウジャウジャと這い出てきたのだ。
「これは……! なんちゅう数や!」
護さんは霊力を込めた冷凍うどんを凄まじい速度で振り回し、迫り来る手を一本ずつ「バキィン!」と叩き折って除霊していく。しかし、十本潰せば二十本生えてくる。あまりの物量に、到底太刀打ちできそうにない。
「いやぁ! ま、護さん! 助けて!」
悲鳴を上げた私の足元から、無数の冷たい手が伸び、私の足首を掴んで暗闇の奥へと引きずり込もうとした。
「こむぎちゃん!」
間一髪のところで、護さんが冷凍うどんの角で私の足を掴んでいた手を強烈にぶち砕くと、私は護さんに抱き起こされた。
「護さん、これ、この数じゃ拉致があかないですよ!」
「そやな……悔しいけど、ここはひとまずトンネルから出るぞ!」
護さんは私を背中に庇いながら、闇から伸びる無数の触手を冷凍うどんで必死に振り払い、猛ダッシュでトンネルの外へと逃げ延びた。
パトカーの赤色灯が虚しく光る外気に飛び出し、私たちは激しく息を切らした。
「はぁ、はぁ……死ぬかと思った……」
あれだけの数に対して、冷凍うどんをどれだけ振り回しても、手数が全然追いつかない。護さんはしばらく顎に手を当てて考え込んでいたが、不意に何かを閃いたように顔を上げた。
「とりあえず、あいつらはこのトンネルからは出られん。夜が明けたら『最強の武器』を手に入れに行くぞ」
「……え?」
息を整えながら、私は護さんの横顔を見上げた。
「最強の武器って、一体何なんですか?」
「ふっ、明日の朝になれば分かる。奴らを一網打尽にするには、これしかない。……明日、もう一度あの夜のトンネルで勝負や!」
護さんの瞳には、怪異祓いとしての熱い闘志が宿っていた。
一体、カチコチの冷凍うどんを超える「最強の武器」とは何なのか。私の知らない讃岐うどんの秘密が、まだ隠されているようだった。




