第23話『神の啓示と、最後の麺棒』後編
「ひゃ、ひゃあぁ……っ!」
私は高所恐怖症になりそうな絶景を前に、身体の力がすべて抜けて、その場にヘナヘナと座り込んだ。
「こ、こんな恐ろしい場所……一体、なんなんですか、ここは……!」
「ふぅ……。ここはな、かつて弘法大師様が『7歳』の時に登られたとされる、捨身ヶ嶽や」
「な……なな、7歳ぃ!?」
「そう。大師様はこの絶壁の縁に立ち、お釈迦様に向かって『私は将来、仏門に入って多くの人々を救いたい。自分にその資格があるなら姿を現してください。資格がないのなら、このまま命を捧げます』と告げて、この崖から身を投げたんや」
「なんという恐るべき7歳児……!」
オカルトマニアの私でも引くレベルの命がけの誓いだ。
護さんは崖のギリギリまで進むと、吹き荒れる強い風の中で静かに目を閉じ、両手を大きく広げた。そして、深くため息を吐き出す。
「お釈迦様。俺は、うどん皇子の呪いによって怪異が大量発生している、この異常事態をどうにかしたい。そのためには、どうしても御神木ヒノキの枝が必要なんや。式年祭を成功させて、皇子の祭壇に『清めの麺棒』を捧げ、皇子の真意を知りたい……!」
バチィィン! と、静寂を引き裂くような高い音で両手を合わせる。
「俺には、両親のような凄まじい霊力は一切ない。落ちこぼれの麺陽師や。……それでも! この讃岐の平和と、讃岐うどんの繁盛を願う気持ちだけは、誰にも負けんッ! もし、こんな俺にその資格が少しでもあるのなら……ヒノキの枝を一本、分けてはもらえんやろか」
護さんの魂の叫びが、山頂に響き渡る。
……けれど、その願いはすぐに、ゴーゴーと吹き荒れる虚しい風の音にかき消されてしまった。
奇跡なんて、起きない。
「……なんてな。弘法大師様の真似事をしたって、上手くいくわけないか……」
自嘲気味に笑った護さんはぽつりと呟き、がっくりと肩を落として、絶壁に背を向けた。ボロボロのフェドラハットの影で、その表情は見えない。
――その、瞬間だった。
分厚い雲の隙間から、まるでスポットライトのような、細く鋭い一筋の黄金の光が差し込み、護さんの足元をピタリと照らし出したのだ。
「ま、護さん……これって……!」
「ま、まさか……」
私が息を呑んで見つめる中、黄金の光の中心から、頭に直接染み渡るような、ひどく穏やかで厳かな声が響き渡った。
『――麺場家の現当主よ……』
「は、はいッ!」
護さんはいつになく背筋をピンと伸ばし、ハットを胸に当てて直立不動の姿勢を取る。
『そなたの願い、実にもっともである……。わたしもまた、この讃岐の地に漂う不穏な怪異の気配には、深く心を痛めておりました……』
「申し訳ありません。霊力の上がらない、俺の未熟さが招いた事態です……!」
『いいえ、そうではありません。確かにそなたの先代の力は誰もが認める偉大なものでしたが、今の讃岐を脅かすのは、それすら凌駕する、得体の知れない強大な力を持つ存在の仕業と考えられます』
「得体の……知れない存在?」
『いずれ、そなたたちの元にも現れるであろう……』
「それは……小豆島の『そうめん皇女』のことですか? それとも江戸の『そば皇子』の……?」
護さんが問いかけるが、声は静かにそれを否定するように響いた。
『麺場家現当主よ。そなたは、まだ自らのことにすら気づいておらぬ』
「え……? それは一体、何のことでしょうか」
『そなたの真の……。いや、これ以上は今は言うまい。そなたの真っ直ぐな願いを信じ、求められた『ヒノキの枝』は、山のふもと(御神木の場所)に落としてあります』
「あ、ありがとうございます……!」
『……それと、現当主よ。いま、そのふもとで、そなたを目当てに会いに来ている“モノ”がいるようです』
「え? 俺に、ですか?」
思わず、護さんと私の目がバチッと合った。こんな霊気渦巻く険しい山奥まで、護さんを追いかけてくる人物なんて心当たりがない。
「一体、誰がこんなところまで会いに来たんですか?」
「いや、俺にもさっぱり分からん……」
護さんが再び光の柱へと視線を向けた時には、すでに黄金の輝きは霧のように霧散し、いつもの薄暗い断崖絶壁に戻っていた。
「護さん……今の声って、本当にお釈迦様だったんですかね?」
「俺にも分からん。けどな、昔から『信じる者は救われる』っちゅう言葉があるけんな。今は大師様とお釈迦様のご加護を信じるしかないやろ」
私たちは急いで岩場をチェーンで下り、ゼーゼーと息を切らしながら先ほどの『御神木ひのき』の元へと引き返した。
すると、うっそうとした緑の影に、お釈迦様の言葉通りの光景が待っていた。
「……随分と探したぞ、麺場家の現当主よ」
立派なヒノキの根元に、ちょこんと腰掛けている影が一つ。
頭には年季の入った大きな木葉の笠を被り、片手にはしっかりと、刻印『滑』が刻まれたヒノキの神木の枝を握りしめている。そして、もう片方の手には――どこかで見覚えのある、ずっしりとした巨大な大徳利を抱えていた。
「お、お前は……! 屋島の『太三郎狸』か……!?」
護さんが驚愕の声をあげる。
「いかにも。日本三名狸が最高位、屋島の太三郎とはワシのことよ」
ニヤリと不敵に笑うそれは、どう見ても二本足で立って喋る、大きくて奇妙な、しかしどこか威厳のある化け狸だった。
さっきはお釈迦様(?)らしき高次元の存在と会話したと思ったら、今度は香川名物の伝説の妖怪とエンカウントしている。東京育ちの私にはあまりにキャパオーバーな不思議すぎる光景に、私はただただ、開いた口が塞がらなかった。




