第24話『伝説の狸と、海上の釜揚げ弦』前編
「いかにも。ワシがその屋島の太三郎じゃ」
笠の隙間から顔を覗かせたのは、白い髭を蓄えた、いかにも長い年月を生き抜いてきた風格のある高齢の化け狸だった。
「讃岐のレジェンド妖怪が、わざわざ俺に用とは……一体、山の下で何が起きとるんや?」
緊迫する護さんを前に、太三郎狸は「まぁまぁ、そう急ぎなさんな」と落ち着き払った様子で、懐から古びたキセルを取り出した。火をつけ、ぷかぁっと紫煙を美味そうに燻らせる。
「小豆島から、猿どもが動き出した……。そうめん皇女の軍勢じゃ」
「な、なんやて……っ!?」
護さんの表情が一気に強張る。小豆島といえば、日本一のそうめんの聖地。そこに潜んでいた怪異たちが、ついにこの讃岐本土へ侵攻を開始したのだ。
「あまりウカウカとしてはおられん。ワシら屋島の狸一族が総力を挙げて迎え打つ。麺場家の現当主よ、すぐに支度をせい。お主もうどん皇子に仕える麺陽師。当然、ワシらと一緒に戦ってもらうぞ」
護さんは静かに目を閉じ、スーツのポケットの中でギリ……と拳を固く握りしめた。何か、重い決意を固めるように。
「……わかった。やけど太三郎狸よ。戦いに行く前に、一つだけ俺と約束してくれんか?」
「約束じゃと?」
「もし、向こうが牙を剥いて仕掛けてきたとしても、狸の一族からは絶対に何の反撃もしないでくれ。もし現場で何が起きても……この俺が、命に代えてもすべて対処する。これ以上、誰も怪異の戦いに巻き込みたくないんや」
両親を怪異との戦いで亡くしている護さんだからこその、痛切な願いだった。太三郎狸はしばらく護さんを見つめていたが、やがて、
「フォッフォッフォッ……。よかろう、約束じゃ」
と、満足げに深く頷き、再びキセルを小さく燻らせた。
「その頑固なツラ、そして真っ直ぐな瞳……。先代当主の麺場保を思い出すのぅ。頼もしいことじゃ……フォッフォッ」
父の名前を出され、護さんは神妙な顔をして、ぐっと唇を噛み締めた。保さんのような天才にはなれないという劣等感が、また彼の心を苛んでいるのだろう。
「こむぎちゃん、急いで多賀町の事務所に帰って支度や! 授かったヒノキの枝を削って、式年祭の麺棒を完成させないかんしな」
「分かりました! 私、冷凍うどんのストックも今すぐ確認しておきますね!」
私たちは急いで御神木を後にし、待たせていた軽トラへと飛び乗った。エンジンを限界まで吹かし、高松市多賀町にある『麺場探偵事務所』へと急行する。
◇◇◇
「護さん、冷凍うどんのストックはバッチリです! いつでも鈍器として使えます!」
「よし、こっちの準備も万端や。各種の除霊武器もすべて揃った」
事務所のデスクに、ギチギチに凍った冷凍うどんの束や、細かく刻まれたうどん弾が並ぶ。
護さんはいつものように愛用のフェドラハットのツバをくいっと触ると、部屋の隅にある神棚に向かって静かに目を閉じた。
「親父、おかん……どうか、見守っててくれ……」
そう呟いて神棚に祈りを捧げる護さんの横顔は――これまで一度も見たことがないほど、どこか弱気で、小さく震えているように見えた。
その時、私の脳裏に、さっき山頂でお釈迦様のような声と会話していた護さんの言葉が、急にフラッシュバックした。
『俺には何の霊力もない』
確かに、護さんは自分を自嘲していた。
あんなに強くて、冷凍うどんで怪異をバッタバッタと薙ぎ倒せるのに、どうして自分の力を信じられないんだろう? いつもの鍛錬のあとに見せる、あの浮かない顔と何か関係があるのかな……。
いつの間にか、護さんの背中に漂う寂しげな陰が、私の心の中にトゲのように深く引っかかっていた。
◇◇◇
夜の帳が下りた『屋島マリーナ』。私たちは太三郎狸たちと合流し、懇意にしている地元漁師さんの漁船を借りて、真っ暗な海へと滑り出した。
すでに本隊である屋島の狸一族は、一足先に沖へ出ているという。
「こむぎちゃん。ここから先は、本当に何が起きるか分からん。そやから、絶対に俺のそばから離れたらあかんで。何があっても、俺が必ず守るからな」
舵を握る護さんの横顔を見る。神棚の前で見せたあの弱気な気配は跡形もなく消え去り、その瞳には大切な人を守るという、ひどく強い意志の炎が宿っていた。不覚にも、その真剣な眼差しにちょっとドキッとしてしまう。
私の気持ちとは裏腹に、今夜の瀬戸内海は不気味なほど穏やかだった。波ひとつ立たない水面は、これから始まる決戦を静かに見守っているかのようだ。けれど、オカルト好きの私の直感が告げている。この静けさは、嵐の前の静けさだ。恐怖で腕の産毛がチリチリと逆立つ。
漁船をしばらく走らせた頃、漆黒の海上で先に出航していた狸たちの本隊と合流した。
――その光景は、圧巻の一言だった。
何十隻、いや何百隻あるだろうか。夜の海を埋め尽くす手漕ぎ舟の群れ。それぞれの舟には幻想的な行灯が灯され、何千匹もの狸たちが声を合わせて、おどろおどろしくも賑やかな軍歌を歌い上げていた。
『皇子のためなら、エンヤコラサッサ! 讃岐のコシを見せてやる、ポンポコリンのエンヤコラサッサ!』
「護さん、すごい数の狸たちですね……!」
「そやな。俺もこれだけの数の屋島の狸が集まっとんのは、生まれて初めて見たわ」
『フォッフォッフォッ……。これもひとえに、うどん皇子様が讃岐の地を正しく導いてくれたおかげじゃよ。……ん、お出ましなされたか』
太三郎狸がキセルの先端で、音のしない海の向こうを指し示す。
闇に包まれた水平線に、怪しい赤色の灯りが一つ、また一つと浮かび上がってきた。
「来ますよ……護さん……凄い数です!」
「あぁ……」
目の前に広がる水平線を揺らすような大船団に、私も護さんも、屋島の狸さんたちも緊張の色を隠せなかった。




