第16話『天空の鳥居と、天狗の葉団扇』前編
「ちょ、ちょっと護さん……! これ、一体どこに向かってるんですか……。この果てしない山道、もう三十分以上も歩いてますけど……!」
私は、前をハキハキと迷いのない足取りで進む護さんの後ろを、トボトボと命からがらついていくだけで精一杯だった。
「こむぎちゃん、俺よりだいぶ若いくせに、もう足が完全に止まっとるやんか」
「……だってぇ! この容赦ない山道に、この急傾斜は流石にキツイですって!」
「まあまあ、こむぎちゃん。もうすぐやって。ほら、もう一踏ん張りや」
「本当にそうなんですか? あと、どれくらいで着くんですか……」
「あと二十分くらい歩けば着くで」
「に、にじゅ……っ!?」
私は目の前にどこまでも垂直に続くような石階段を見上げ、猛烈な目眩を覚えて深い溜息をついた。
それでも、意地だけで足を動かし続けていれば、なんとか目的地には辿り着くものだ。
私は激しく息を切らしながら、最後の一歩を力強く踏み出した。
――その瞬間。
それまで視界を遮るように覆い茂っていた木々が、一瞬にして目の前から消え去った。
視界いっぱいに、見渡す限りの圧倒的な青空が飛び込んでくる。
そして、空と大地の境界線に、ぽつんと佇む一つの鳥居。
「ここが、天空の鳥居や」
下から吹き上げる強い風が、汗でびっしょりと濡れた私の頬を優しく冷やしていく。
恐るおそる振り返ると、眼下にはミニチュアのように広がる観音寺の街並み。そしてその先には、穏やかな瀬戸内海が、太陽の光を全身に浴びてキラキラと美しく反射していた。
「……え、すごい……」
私はその神々しいほどに広がる絶景を前に、あまりの美しさに言葉を完全に失っていた。
ここは通称『天空の鳥居』とも呼ばれる高屋神社。頂上から見える遮るもののない景色が、SNSで大バズりしたことでも有名な、四国屈指のパワースポットだ。
「この鳥居さんをくぐった先の境内に、目指す桜が……ん?」
不意に、護さんの動きがピタリと止まった。
何かを敏感に察知したようだ。
「どうしたんですか? 何か見つけたんですか?」
「こむぎちゃん、そこから動くな! 下がれっ!」
鳥居をくぐり、まさに境内へ一歩踏み出そうとした私のつま先の目の前――。
シュンッ! という鋭い風切り音とともに、地面の土に「何か」が深く突き刺さった。
それは、青い金属のような光沢を放つ、カミソリのように鋭利な『八手の葉っぱ』だった。
「きゃっ!?」
「こむぎちゃん、そのまま鳥居の外へ避難するんや!」
私は恐怖で悲鳴を上げながら、転がるように鳥居の外へと全力で走り出した。護さんは腰を落とし、空を睨みつける。
「隠れんと、出てこいや! 姿を現せい!」
『フォーーオッフォッフォ!』
突風とともに、頭上から耳障りな高笑いが降ってきた。
「護さん、上です! あの木の上!」
私が指を差した、鳥居のすぐ脇にそびえ立つ巨木のてっぺん。
そこに、赤い顔と長い鼻を持ち、巨大な羽団扇を携えた不気味な人影が、風に吹かれて立っていた。
「お前は……『天狗』か……!」
『フォーオッフォッフォ! よく気づいたな、麺場家の小童。それにそこの小娘も、あと一歩踏み込んでおれば、今ので五体満足ではいられなかったぞ?』
「天狗のじいさんが、なぜこんな神域で悪さをしとるんや。俺は麺場家現当主、麺場護や。今年の秋の式年祭に捧げる『清めの麺棒』の素材――ここの御神木でもある、桜の自然折れ木を探しにきた。……皇子のためや、通してもらえんやろか」
『ならぬ! ここへはある御方により、貴様ら麺場一味を決して通すなと、固く命じられておるんでな!』
「ある御方やと……? この清めの麺棒は、讃岐のうどん皇子への最重要の捧げ物やぞ!? それを邪魔するというんか!」
『フォーオッフォッフォ! 何度も同じことを言わせるでないわ。どのような理由があろうと、貴様らをこの先へ通すわけにはいかんのじゃ!』
天狗が巨大な羽団扇を掲げると、天空の鳥居の周囲の空気が、爆発を待つ大気のように激しく歪み始めた――。
「一体どういうことなんですか、護さん!?」
私は鳥居の影から、木の上の不気味な影を睨みつける護さんに叫んだ。
「本来、天狗はな、讃岐の歴史にも深く根付く高位の怪異や。つまり、うどん皇子の使い(味方)であるはずなんや。それが皇子への捧げ物を拒むなんて、どうにも様子がおかしい……!」
『フォーオッフォッフォ! 詮索はあの世でするが良い。去らぬというならば、ここで貴様ら麺場探偵事務所をまとめて葬り去るのみぞ!』
「くっ……血迷うたか! 天狗のような誇り高き大怪異が、主を裏切るとはな!」
『ええい、黙れいっ!』
天狗が手にした巨大な羽団扇を力任せに一振りした。その瞬間、猛烈な突風がシェルターのない山頂を吹き荒れる。
「ぐっ……! なんちゅう風圧や……! このままでは足場ごと瀬戸内海へ吹き飛ばされるぞ……!」
『フォーオッフォッフォ! これしき序の口よ!』
天狗はまたしても羽団扇を振り上げる。暴風が壁となって行く手を阻み、護さんは前へ進むことすらできない。
「この状態では、近づいて冷凍うどんを叩き込むこともできん……どうすれば……っ!」
一振り、また一振りするたびに、巨大なつむじ風が刃となって巻き起こる。
「隙が見当たらん!」
護さんのその苦悶の言葉に、私はハッと頭の中で何かが閃いた。
私が天狗の注意を誘き寄せれば、きっと護さんが反撃する一瞬の隙が出るはず――!
私は天狗に悟られないよう、息を殺して木々の茂みに隠れながら横へと移動した。そして天狗が次の暴風を起こそうと羽団扇を天高く振り上げた瞬間、身を乗り出して大声を張り上げる。
「天狗さん! こっちだよーーーっ!」
「いかん、こむぎちゃん! 隠れとれっ!」
護さんが悲鳴のような声をあげた時、木の上の天狗は、ニヤリと裂けた口元で私の位置を正確に捉えていた。奴は羽団扇ではなく、自分の背中に素早く手を回して別の「凶器」に手をかけた。
あれは――禍々しい雷光を帯びた、一本の古びた『錫杖』。
『フォーオッフォッフォ! 愚か者が、自ら的になりにきたか!』
天狗がその杖を天に掲げた瞬間、青空だった高屋神社の真上が一瞬にしてどす黒く曇り、眩いばかりの紫の閃光が走った。
――本物の、落雷だ。
ガラガラガラ……ドーーンッ!!!
「こむぎぃぃぃーーーっ!!」
凄まじい衝撃波が鼓膜を破らんばかりに轟き、自分が雷に打たれると直感した瞬間、横から飛び込んできた大きな身体が私を強く抱きすくめ、地面へと押し倒した。
落雷の凄まじい熱風を背中に浴びながら、二人の身体は石段の手前をゴロゴロと激しく転がった。
「ま、護さん……っ!?」
「あ、ありがとな、こむぎちゃん。お前の作ってくれた隙、無駄にはせん。やけど……お前をこんな危険な目にだけは、絶対に合わせられん。ここは、俺に任せてくれんか。……ぐっ!」
立ち上がろうとした護さんが、苦悶の表情で膝をついた。
「護さん!?」
直撃こそ免れたものの、私を庇った右足のスーツの裾が真っ黒に大きく焦げている。痛々しい火傷の痕が、護さんの自由を奪っていた。
『しぶとい奴らよ! じゃが、これで本当に終いじゃ!』
天狗が再び杖を大きく振り上げる。二度目の落雷が来たら、もう防げない。
「こむぎちゃん、走れるか!? 悔しいけど、ここは一旦引くしかない!」
「はいっ!」
私は護さんの肩を必死に支え、死に物狂いで険しい山道を駆け降りた。
命からがらあの天空の鳥居の外へと脱出すると、不思議なことに、さっきまでの暴風と落雷の喧騒は、まるで初めから無かったかのように穏やかな静寂へと戻っていた。




