第10話『城山の九字護身法と、一年前の面接』後編
まさか、あの時のコックリさんが東京からずっと私に取り憑いて、香川までついてきていたなんて。
「なるほどな。コックリさん、ようこそ讃岐の国へ。おもてなしはうどんでええか?」
護さんがそう言った瞬間、私の身体が自分の意思とは全く無関係に、ガタガタと奇妙な動きを始めた。
『……この小娘、ワシの忠告を無視して本当にここへ来おったなぁ……』
私の口から、私のものではない、呪わしい老婆のような声が響き渡る。頭の中はパニックだった。
なになに!? 私の声じゃない言葉が勝手に出てくるんだけど!?
「キツネさんや、ええ加減その子から離れてやってくれんか? さもないと、今ここでそのまま強制除霊させてもらうことになるけど?」
『コーーーンッ! 笑わせてくれるわ! 落ちぶれた現代の低級怪異祓いごときが、このワシに勝てるとでも思っているのか!?』
「勝てないと思ったからこそ、お前は必死に十円玉を動かして、その子をここに連れて来たくなかったんじゃないんか?」
『ぐぬぬ……言わせておけばぁっ!』
ちょっとちょっと! 私の身体、何で勝手に探偵さんに襲いかかろうとしてるの!?
足元がフワリと浮き上がると、私は自分でもあり得ないほどの超スピードで、護さんに向けて鋭い蹴りやパンチを何度も繰り出し始めた。
「頼むから、あんまり事務所内を散らかさんといてくれたら嬉しいんやがな!」
護さんは私の拳を紙一重でかわし、応酬していく。しかし、それは攻撃ではなく、私の身体を傷つけないための完璧な「守り」の演武だった。
『どうした! これが讃岐の国に代々伝わる怪異祓いの実力か! 噂ほどでもなかったなぁ! コーンッ!』
風圧だけでテーブルの上の灰皿が吹き飛び、コップが床に落ちて派手に割れる。激しい乱戦の最中、部屋の隅に立てかけてあった姿見に、自分の姿がチラリと映った。
――これが……私……!?
鏡の中の私は、口元が耳元まで大きく歪み、目は吊り上がって、まるで飢えた野生のキツネのようになっていた。本当に、本物の怪異に乗っ取られてしまったのだ。
『どうした、逃げてばかりではこのワシを倒すことはできんぞ!』
コックリさんの邪悪な霊力にブーストされた私の右足が、閃光のような速度で護さんの懐へ滑り込む。
ドガァッ!!!
「ぐふっ……! くそっ、卑怯やな……。おなごの身体を使って、俺が攻撃できんのを分かっておきながら、なかなか素早い動きをしよる。……やが、もう少しや。儀式の準備は整ったで……」
なんで探偵さん、攻撃しないの……!?
私のせいで、私の連れてきた怪異のせいで、こんな酷い目に遭ってるのに!
その後も、コックリさんに乗っ取られた私の身体が繰り出す打撃を、探偵さんは正面からまともに食らい続けていた。激しい衝撃音とともに、探偵さんの身体が大きくふらつく。
どうして反撃してくれないの? お願い、探偵さん! 私の身体なんて、どうなったって構わないから、早くコイツをどうにかして……!
「探偵さん、お願いっ! 私の身体なんてどうなってもいいから、コイツをやっつけてーーーっ!!」
『……コーンッ!? ワシの精神支配を撥ね退けて叫びおったか……! この小娘、一体何者じゃ……!?』
私が必死に魂の底から叫ぶと、ボロボロになったはずの探偵さんは、口元をニヤリと歪めて笑った。
「オッケーや! こむぎちゃん、合格や。明日から、いや今日からこの事務所においで。やけどな……」
探偵さんはそう言って、激しく荒らされた事務所のカウンターの奥へと滑り込み、あるものを瞬時に掴み取った。
「一つだけ、こむぎちゃんに教えておいてあげるわ。俺の名前は麺場護。俺が守るのはな、うどんの『麺場』だけやない。――自分の『メンバー(仲間)』も守るんや!」
「え……?」
探偵さんはそう叫ぶと、目にも留まらぬ速さで手際よく何かを準備し始めた。
あれは……どんぶり? 一体、この状況で何をしようとしているの!?
『き、貴様ぁーっ! さっきからちょこまかと! 何をしている、ワシを愚弄するかぁっ!』
「そんなこともあろうかとな、今日の昼、円座にある『カクタニ製麺』で、極上のうどんと出汁を分けてもらっといたんや。……そして、これを見ぃ!」
探偵さんがお箸でガバッと掴み上げたのは、人間の顔の大きさほどもある、信じられないくらい巨大な『お揚げ』だった。
「これぞカクタニ製麺名物、甘くてふっくらした最高のお揚げや! キツネさんや、おもてなしはキツネうどんでええな!」
『ぐ、ぐぬぬ……やめろ……貴様、何をする気じゃ……! 狐のワシを誘惑する気か……!』
怪異が激しく怯む中、探偵さんは凄まじい職人技の速度で麺を湯がき、ダシを温め、カクタニの大将からもらってきたという新鮮な生姜をたっぷりとうどんに乗せた。そして大判のお揚げを豪快にトッピングして『特製きつねうどん』を一瞬で完成させると、コックリさんの攻撃をかわしながら、身体が硬直した私の口元へとその丼を差し出した。
「さぁ、これを食え、こむぎちゃん!」
香ばしいダシと、お揚げの甘い香りが鼻腔を貫く。私の身体を操る怪異の拒絶を無視して、熱々の麺とお揚げが口の中へと滑り込んできた。
――な、何これ……っ!?
噛み締めた瞬間、モチモチとした極上の麺から放たれるお揚げの芳醇な甘さが、口いっぱいに、優しく広がっていく。そして何と言っても、ピリリと効いた辛すぎない生姜の清涼感が、最高のアクセントとなって絶妙なバランスを作り上げていた。
「お、おいしいいぃぃぃ~~~~~っ!!!」
その至高の美味さに魂が震えた瞬間、私の身体からどす黒い冷気がブワッと噴き出し、身体がフッと軽くなった。
あまりの美味さに耐えかねて、コックリさんが私の身体から引き剥がされるように飛び出してきたのだ!
『やめろぉぉぉ! 貴様! 悪魔のうどんめ、やめろーーーっ!』
「――ようやく、その薄汚い姿を現したな。まっとったぞ、この時を!」
探偵さんはその一瞬の隙を見計らい、保冷バッグからカチコチの冷凍うどんを取り出すと、ビニール袋に詰めて、宙に浮かぶ怪異の頭上へと大上段から振り下ろした。
バキィィィー――ン!!!
『コーーーンッ!?』
硬度を極めた塩の塊による強烈な一撃。その凄まじい衝撃とともに、怪異の姿は光の塵となって完全に消え去っていった。
散らかった事務所に、ようやく静寂が戻る。
「ふぅ……なんとかなったな」
「た、探偵さん! 大丈夫ですか!?」
私が心配して駆け寄ると、探偵さんは脇腹を押さえ、ふらつきながらもうどんの器を持って立ち上がった。
「あぁ、大丈夫や。これくらい大したことない。……それより、改めてようこそ、麺場探偵事務所へ」
「あ……、あの、よろしくお願いします!」
私は嬉しさと感動で胸をいっぱいにしながら、深々とお辞儀をした。
「ところで護さん、さっきのって本物のコックリさんですよね?」
「いや。今のはコックリさんのフリをしとった、もっと低級の妖怪――『狐者異』や。生前に食べ物を貪った怨念で動く怪異やから、たまにああやって美味いものを求めて悪さしよるんよ。……さて、それはさておき、せっかくのカクタニのうどん、俺も今から食べようかな」
護さんが嬉しそうに手元のどんぶりを覗き込んだが――そこには一滴のスープすら残っていなかった。
「あの……。あまりに美味しすぎて、乗っ取られてる間に、私、全部食べちゃいました……」
「……コ、コーーーーンッ!!!」
怪異よりも悲痛な、護さんの絶望の悲鳴が、夜の事務所に虚しく響き渡るのだった。
◇◇◇
「――ぷっ、あははは! やっぱりいつ思い出しても、あの時の護さんの顔、最高でしたね」
ハッと意識が戻る。
そこは満月の光が降り注ぐ、夜の城山の山頂。
護さんは修行のポーズを解き、未だに少し恨めしそうな目で私を振り返った。
「お前なぁ、人が命懸けで守ったカクタニのきつねうどんを完食したこと、まだ根に持っとるけんの」
「もう、一年前のことじゃないですか! それより護さん、霊力のチャージはバッチリですか?」
「あぁ。あの時の『狐者異』の件も、今思えば今回の江戸蕎麦派の侵略の前兆やったわけや。よし修業はここまで! 山を下りよう」
護さんは颯爽と軽トラのアクセルをふかした。
その時、背後に忍び寄る影に私たちはまだ気付かなかった。




