第9話『城山の九字護身法と、一年前の面接』前編
「護さん、一体ここはどこなんですか? 山道は狭くて暗いし、ろくに街灯もないし……。今日もまた、香川県警からの緊急依頼ですか?」
私は今日も、護さんの愛車である軽トラの助手席に揺られていた。窓の外は、吸い込まれそうなほどの深い闇。不気味な夜の出動は、中村トンネルの件以来これで何度目だろうか。
「こむぎちゃん、今日は依頼やない。我が麺場家はな、代々封印力を増大させるために、讃岐各地の霊脈を訪れてそこで力を蓄えないかんのや。……今日修業するんはここ、城山や」
護さんの言う通り、私たちが訪れたのは坂出市と丸亀市にまたがる『城山』という場所だ。
ここは古くから、あの弘法大師(空海)が修行に使ったという滝があったり、はるか古代の人間が大規模な祭祀を行っていたという『明神原遺跡』が眠る、讃岐屈指の超巨大な霊的スポットだった。
軽トラを降り、漆黒の山頂へと足を踏み入れる。満月の光を浴びながら、護さんはおもむろに両手を天へと広げ、お腹の底から響く厳かな声で、怪しげな呪文を唱え始めた。
「一・挽、二・捏、三・伸!」
指先を鋭く突き出す。
「一・水、二・練、三・熟!」
さらに足を踏み鳴らし、山頂の霊気を引き寄せる。
「一・延、二・切、三・茹!」
護さんの全身から、青白い霊力がこれまでにない密度で溢れ出し、夜の山を照らしていく。
「きえええぇぇぇーーーいっ!!!」
凄まじいほどの気合とともに、護さんは両手で空間を九字に切り裂いた。凄まじい風圧が周囲の木々を激しく揺らす。
「……あの、護さん。それ、全部うどんの用語か何かですよね? 麦を挽いて、水を合わせて、練って、切って茹でるっていう……。本当にそんな料理手順みたいな呪文で、怪異祓いの霊力が上がるんですか?」
私が思わずツッコミを入れると、護さんは額の汗を拭いながら、どこか寂しげに、そして優しく微笑んだ。
「お、こむぎちゃん。うちの探偵事務所に来てから、もう一年ちょっと過ぎようというのに、まだ俺が信じられんのか?」
「いや、信じられないって訳じゃないんですけど……」
そう、護さんの怪異祓いの力は、間違いなく本物だ。それは私が誰よりもよく知っている。
私の脳裏に、忘れもしないあの日――私が東京からはるばる香川にやってきて、この麺場探偵事務所の面接を受けに来た、一年前の記憶が鮮明に蘇っていた。
◇◇◇
「へぇ、清水こむぎちゃんか……。いやぁ、実にいい名前やなぁ。讃岐うどんを打つにはな、ええ『水』とええ『小麦』が絶対に必要なんや。うん、合格――」
「本当ですか!? ありがとうございます! じゃあ、今日からでも働かせて――」
一年前のあの日。多賀町の古いビルの二階にある「麺場探偵事務所」の応接スペースで、私は面接用の履歴書を前に、歓喜の声を上げていた。
私は物心がつく小さな頃から、とにかくオカルトに興味があった。
暇さえあればホラー映画を漁り、ネットの怪談スレッドを読み漁り、東京近郊の有名な心霊スポットを巡ったりもしていた。
だけど、私は本物の「実物(怪異)」を見たことが一度もなかった。霊感もゼロ。
見たことがないからこそ、余計に未知なるオカルトの世界へと深くハマってしまったのかもしれない。高校を卒業して、四国の怪異祓いの一族という噂を聞きつけて、この探偵事務所に履歴書を送りつけたのも、その探究心の成れの果てだった。
「……と言いたいところやが。こむぎちゃん、ずいぶんとやっかいなもんを背中に連れてきよったな」
「え……?」
さっきまで履歴書を見ながらデレデレしていた護さんの表情が、一瞬で凍りついた。
私を睨みつける、凍るような鋭い眼光。いや、護さんの視線は、私の顔ではなく、私のすぐ『背後の空間』をじっと睨みつけていたのだ。
「これは……『コックリさん』か?」
そう言われた瞬間、私の心臓がドクンと大きく跳ね上がった。
身体がガタガタと震え出す。記憶の扉が開き、香川県へ発つちょうど前日、東京のサークル仲間と繰り広げた「あの不気味な儀式」の光景が、鮮明に脳裏へと蘇ってきた。
◇◇◇
「ねーねー、こむぎ。せっかくオカルト研究会の最後の集まりなんだし、コックリさんに香川県の探偵事務所のこと聞いてみなよ!」
「えー、まぁいいけど……。明日面接だし、このまま今後の進路について聞いてみようかな」
東京の放課後。夕暮れ時の薄暗い部室で、私は友達数人と、五十音表が書かれた紙の上で、一枚の十円玉に人差し指を置いていた。窓の外からはカラスの鳴き声が不気味に響いている。
私は少しふざけた気持ちで、十円玉にそっと問いかけた。
「コックリさん、コックリさん。えーと、明日私は香川県の『麺場探偵事務所』っていう所に面接に行くんだけど……無事に受かると思いますか?」
その瞬間、指先に置いた十円玉が、自分たちの意思とは無関係に、ゾクリとするような冷たい滑らかさで紙の右側へと動き出した。『いいえ』
「うわ、『いいえ』だって! こむぎ、明日いきなり不採用じゃん、やばいよ!」
友達はケラケラと無邪気に笑った。
「じゃあ……麺場探偵事務所は、何か危ない、ヤバいところですか?」
今度は、十円玉が迷うことなく反対の左側へと滑っていく。
『はい』
「ヤバいって、どういう意味だろう……。本当に危ないのかな」
胸を焦がすオカルトへの好奇心から、私はさらに踏み込んだ質問を投げかけた。
「じゃあ、私は明日、麺場探偵事務所に行かない方がいいですか?」
その瞬間、部屋の電気が一瞬だけパチパチと明滅した。
十円玉が、それまでとは比べ物にならない異常な速さで、五十音表の下側の文字列を激しく往復し始めたのだ。
『い』『く』『な』『い』『く』『な』『い』『く』『な』『い』『く』――。
紙が擦れるほどの速度で、何度も、何度も、狂ったように「いくな」の文字を繰り返す十円玉。
「ひっ……!」
流石に気味が悪くなり、恐怖が限界に達した私は、思わず儀式を省いて、十円玉から勢いよく手を離してしまった。
その後、友達と慌てて塩を撒き、なんとかその場は収まったと思っていたのだが――。
私はどうやら、とんでもないものを連れてきてしまったようだった。




