第65話 囚われの小部屋で
「はぁ、はぁっ……な、なぜ……どうして……!」
呼吸が乱れ、胸が焼けるように痛む。
パニックで頭がまともに働かない。
何が起きている――?
ヴォルン院長の指示でこの部屋に来たはずだ。
そうだ。舞踏会の夜も同じだった。
発情促進魔法が仕掛けられた小部屋。
そして、末の王太子――。
反射的に窓の方角へ身を翻した。
だが、体は鉛のように重く、膝が崩れ、床を這うように進むしかない。
「はぁ……っ、うぅ……」
頭がぼうっとして、視界が揺れる。
レオンハルト……リオン……誰か……。
「おや? 発情魔法が効いてないじゃないか。ヴォルン院長は何をしているんだ」
「……っ!」
やはり――。
どうして僕は、舞踏会での院長の不自然な指示をもっと疑わなかったのか。
レオンハルトの推測はすべて正しかった。
黒幕はヴォルン院長。
だとしたら、彼は僕の継母と――。
コツ、コツ、と靴音が近づく。
「……っ!」
反射的に身を縮め、防御の姿勢を取った。
逃げ場など、どこにもないと知りながら。
「捜したよ、愛しい人。舞踏会で見初めてから……胸が焼けるようでね。調べてみれば、かの有名なリオネル・アルヴィオン殿だったとは! レオンハルト・ヴァルター監査官の元妻……噂通り、素晴らしいオメガだ!」
「はぁ、はぁっ……おたわむれを……! 僕は、あなたには屈しない!」
体は重く、意識は霞む。
それでも、僕にはリオンがいる。
この身を明け渡すくらいなら――死んだほうがましだ。
「いいや。君は私のものだ。君ほど美しい人を見たことがない。王太子である私のものになるのが当然だ……」
「うっ……!」
王太子の手が、後ろから僕の髪を撫でる。
その指先が、ぞわりと頭皮を逆なでする。
六年前、レオンハルトに噛まれたうなじがあらわになる。
「黒く染めていたのだな。目の色まで変えて……だが、隠しきれない。髪色を変えようと、あなたの美しさは滲み出る……本当に、息を呑むほどだ。この番からの噛み痕さえも……芸術品だ」
「……っ!」
髪を愛でた手が、今度は僕の背をゆっくりとなぞる。
その瞬間、背骨の奥まで冷たい恐怖が突き刺さった。
胸が激しく脈打ち、酸素が足りなくなる。
怒りと恐怖が混ざり合い、体が震えだす。
バシッ――!
「あっ!」
残っていた力のすべてを振り絞り、王太子の手を払いのけた。
「はぁ……っ、はぁ……っ……!」
床を這いつくばり、窓を目指して必死に逃げる。
穢されるくらいなら――ここで死ぬ。
リオン、レオンハルト……ごめん。
「あーっはははは! 手負いの獲物を追い詰めるのは、実に愉しい。さて――」
「……っ!」
王太子の靴が、僕の太腿の裏を容赦なく踏みつけた。
骨が軋む音がした気がする。動けない。
それでも、腕を震わせ、必死に前へ進もうともがく。
「まだ抵抗するか……生意気なやつだ」
ガシッ!
「ぐっ……ふぅっ……!」
背中に強烈な衝撃が走る。
蹴られた。
ボスッ! ガンッ!
続けざまに、何度も。
肺が押し潰され、呼吸が奪われる。
視界が暗くなっていく。
『ヒュッ……パシッ』
九歳から浴び続けたムチの音が、耳の奥で蘇る。
肉を裂く、あの音。
その記憶に囚われ、体が完全に固まった。
逃げられたと思っていたのに――。
僕はまだ、継母の地獄に縛りつけられている。
このままでは――。
「ふふ……ははははっ! やっーとおとなしくなったな。では……味見といこうか」
王太子の影が、僕の上に覆いかぶさる。
アルファの荒い息が、すぐ近くで熱く触れた――。




