第35話 揺らぐ心の影
レオンハルトがいなくなり、アーロンはメアリーと散歩に出かけてしまった。
カーヴェル副院長とフェルナー法務官も、楽しそうに池のまわりを散策している。
「リオン、僕たちも……」
立ち上がって駆け回るリオンと散歩に行こうとしたとき、背後から声がかかった。
「あら? レオンハルト・ヴァルターさまはどちらかしら? あなた、親戚か何か?」
ハンカチで口元を隠したまま慎重に振り向くと、見知らぬ淑女が立っていた。
女は赤毛で、同じ色の派手なドレスを着ている。
高級な布地が使われているので、どこかの令嬢か奥さまなのだろう。
レオンハルトとはどういう関係なのか。
「さっきまでこちらにいらしたと思ったのに」
「レオンハルトに何かご用ですか?」
レオンハルトは今、軍部の偵察に向かっている。
勘繰られると困る。僕は焦りを覚えた。
「フフ……私の話、聞いていませんこと? シャロンと申しますの」
女は自信ありげに微笑んだ。
「いいえ、まったく。どなたですか?」
女の態度が気に入らない。
僕はほんの少しムッとしながらこたえる。
「……そ、そう。あの……私は今、結婚して隣国におりますが……実はその、独身の頃、レオンハルト・ヴァルターさまのファンでしたの」
シャロンがドギマギしながら言った。
「そういう方は、彼が結婚したあとでさえ、たくさんおりましたから。数まで把握はしておりませんが」
「あら? 私はただのおっかけじゃありませんのよ。レオンハルト・ヴァルターさまがまだ独身だった頃の話ですわ」
――独身時代のレオンハルトを知ってる?
ということは、彼女は六年前、首都セラフィオンで暮らしていた可能性が高い。
だとしたら、僕の顔を知っているかもしれない。
ハンカチで隠した顔を、慌てて下に向けた。
ん……?
独身時代のレオンハルト――。
「お見合い……をしたのですか?」
シャロンの自信満々な様子に、胸がざわつく。
レオンハルトはこの女性と懇意だったのだろうか。
「申し込みたかったのですが……レオンハルト・ヴァルターさまは、お見合いをすべて断ることで有名でしたの。そうではなくて、私はこういうストレートな性格だから、直接ご本人に確かめたことがあるのよ。
彼はアルファだから、ルクス神学院から自由に外出できたでしょう? 帰省を狙って屋敷の前で待ち伏せして、聞いてみたの」
アルファは自由に行動できたのか。
知らなかった。
「何を、ですか?」
「“レオンハルト・ヴァルターさまが好きなの方”のことですわ」
「えっ? どういう意味ですか」
「まあ、あなたご存じないの? レオンハルト・ヴァルターさまの関係者席にいらっしゃるから、てっきり身内だと」
「身内……みたいなものですが」
「レオンハルト・ヴァルターさまが見合いや交際の申し出を断る理由、いつも“好きな人がいる”って決まり文句だったのはご存じ?」
「なんとなくは」
「それが誰か、どうしても知りたくて……本人に面と向かって聞いた勇気ある女性が、この私なのよ」
「はあ……」
シャロンの自信満々の様子が、こっけいに感じられるようになってきた。
見かけと違って、好人物のようだ。
「“好きな人がいる”という事実は本当だったわ。本人の口から直接聞いたのだから確実よ。
でも、“その人とは結婚できないから教会担当の監査官になり一生、結婚しない”と言われたの。残念ながら、好きな人が誰なのかは、頑として教えてくださらなかったわ。絶対に叶わないからという理由で」
「…………」
胸の奥が痛む。
レオンハルトは、その人のことがそんなに好きだったのか。
「そして……卒業間近に彼の新たな噂を聞いたわ。
“好きな人と結婚するために聖騎士にはならず、北方領ノルディアで監査官見習いになる”というものだったわ……。
その事実だけで、私たちはすぐにピンときたの。現カーヴェル副院長が、レオンハルト・ヴァルターさまの“好きな人”だと。
カーヴェル副院長は当時から、北方領ノルディアの教会担当監査官だったわ。レオンハルト・ヴァルターさまがこの地で見習いの研修をされたのは、カーヴェル副院長の口添えだと聞いていたから」
「……っ!」
胸の中が大きく揺れた。
彼女の話は本当なのだろうか。しかし、嘘をつく理由がない。
それに、事実と一致している。
「…………」
レオンハルトとカーヴェル副院長は、結婚を誓い合うほど仲が良かった?
二人の態度から、そんなことは微塵も感じられない。
僕の前で演技をしているのか?
「その後、レオンハルト・ヴァルターさまは、とびきり美しい奥さまと結婚されたわ。私も遠目に見たことがあるけれど、女神のように素晴らしい方だったわ。天使みたいな気品と愛らしさにあふれていて……奥さまに対する嫉妬の想いはまったくなかったわ。羨望……その一点のみよ。皆も同じ気持ちだったわ。
カーヴェル副院長でなくて本当によかったって、みんなで大喜びしたのよ。だって、彼女、ずいぶん昔に婚約者がいたみたいだし」
「えっ? 不倫……だったのですか」
男だと勘付かれないようにわざと甲高い声で質問しながら、ハンカチでさらに顔を隠した。
「カーヴェル副院長がその婚約者と結婚したかどうかは知らないわ。でも彼女には、不貞をしたというよくない噂があったわ。それが原因で、長年の愛人がいるのにいまだに結婚できないらしいわよ」
愛人とはフェルナー法務官のことだろうか。
もしくは――レオンハルト?
「カーヴェル副院長はレオンハルト・ヴァルターさまが学生だった頃、首都セラフィオンの王国監査院で教会系の監査官だったでしょう?
レオンハルト・ヴァルターさまが聖騎士から監査官志望に変更したのは、カーヴェル副院長の影響よね。結婚後も、北方領ノルディアでの暮らしの方が長かったみたいだし。赴任したカーヴェル副院長がいたからでしょうね」
「……っ!」
シャロンの話が僕の中で、過去の出来事や疑問点と結びついていく。
では、レオンハルトはずっと、カーヴェル副院長と――。
「あんなに素晴らしい奥さまがいながら、結婚後も関係を続けるだなんて……レオンハルト・ヴァルターさまには本当にがっかりだわ。カーヴェル副院長とは子供の頃からの知り合いだから仕方ないって説もあったけど」
「えっ? そうなんですか」
シャロンの口から飛び出す情報は、どれもこれも僕を動揺させるものばかりだ。
「遠い親戚だって聞いたことがあるわ。私は夫の赴任先が隣国だから、ルミナリア王国には久しぶりに帰ってきたのよ。ここノルディアは夫の実家で、里帰りしたばかりなの。だから最近の噂には疎くて……」
彼女は話し終えると、満足したようにスタスタと去っていった。
僕は気分が悪くなり、その場に座り込んだ。
「…………」
胸の奥に大切に仕舞っていた過去の幻影が、黒く塗りつぶされ焼き捨てられていく。
大声で泣きたい気分だ。
「ママー! だいじょぶ?」
リオンが駆け寄ってくる。
僕の顔をのぞき込み、心配そうに見つめている。
つぶらな瞳が曇る。
「ぅぅん……なんでもないよ。ちょっと……疲れただけ」
リオンを膝に乗せ、子守唄を歌ってあげる。
きゃっきゃっと声を上げ、よろこぶリオン。
忘れ去っていたはずの恋心――
それが、嫉妬や羨望、後悔や未練とともに、僕の胸に再び戻ってきた。




