第23話 ノルディアの雪夜に灯るもの
ノルディアの町は夕暮れの冷気に包まれていた。
石畳の道に薄く霜が降り、吐く息は白く揺れる。
レオンハルトはリオンを抱いたまま、迷いなく進んでいく。
「この先に、昔よく通った店がある」
「……そんな思い出の場所に、僕たちが行っていいんですか」
「いいに決まっている。あそこは誰でも歓迎してくれる」
やがて、木造の小さな食堂が見えてきた。
看板には、ノルディアの象徴である“雪狼”の絵が描かれている。
扉を開けると、暖炉の熱気と、蜂蜜とバターの甘い香りが押し寄せた。
「わあ……!」
リオンが目を輝かせる。
僕もだ。
甘い菓子の香りは久しぶりで、お腹がグーグー鳴りはじめる。レオンハルトに聞こえていないといいのだけれど。
店内は素朴で、木製の長テーブルが並び、壁には干したハーブが吊るされている。
客たちは厚手の外套を脱ぎ、温かいスープをすすっていた。
「いらっしゃい。……おや、レオンハルトじゃないか!」
店主の太い声が響く。
「久しぶりだな。今日は家族連れか?」
レオンハルトは一瞬だけ僕を見た。
「……まあ、そんなところだ」
僕の心臓が跳ねた。
店主は気にする様子もなく、笑顔で席へ案内する。
「さあ、座りな。寒かったろう。まずは温かいスープだな。今日はベリーのスープがよくできてるぞ」
レオンハルトが僕を見る。
「リオネル、ベリーのスープは好きだろう?」
「……はい」
「ホイップしたクリームをたっぷりつけてくれ。リオンにはハニーポリッジを。甘さは控えめにしておこう」
「やった!」
リオンは椅子にちょこんと座り、足をぶらぶらさせている。
レオンハルトは続けて言った。
「それと、スフレを三つ。リオネルの分には蜂蜜煮のベリーを多めに。蜂蜜酒も頼む」
「はいよ!」
店主が厨房へ戻ると、レオンハルトは僕へ向き直った。
「……リオネル。君が甘いものを食べるときの顔が、私は好きなんだ」
「ぇっ……」
「四年前も、よく笑っていた。あの頃の君を、また見たいと思っている」
ハシバミ色の瞳がやさしい光を帯びてくる。
胸が熱くなる。
けれど、レオンハルトには婚約者がいる。
それに――冤罪であったとしても、僕は罪人の息子だ。
「…………」
僕は無言でレオンハルトを見返す。
失われた時間は戻らない。彼もそれを知っているはずだ。
そのとき、湯気の立つスープと粥、蜂蜜酒が運ばれてきた。
ベリーのスープは深い赤色で、表面に白いクリームが溶けている。
ハニーポリッジは黄金色に輝き、テーブルの上に蜂蜜の香りがふわりと広がった。
「わああー……おいしい……!」
さっそくスプーンですくって食べ始めたリオンが、たちまち目を丸くする。
僕もスープを口に運ぶ。
甘酸っぱいベリーの味が口いっぱいに広がり、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「リオネル。君がこうして食べてくれるのが、私はいちばん嬉しい」
「……レオンハルト……」
僕たちがおいしそうに食べる様子を、レオンハルトは蜂蜜酒を片手に目を細めて見守る。
そういえば四年前も、彼はこんなふうに僕を見ていた。
言葉にしなくても、視線が多くを語っていた。
あの頃に戻れたら、どんなに――。
スフレが運ばれてくると、リオンは歓声を上げた。
「ふわふわだー!」
レオンハルトは微笑む。
僕もひとくち食べ、言葉を失った。
久しぶりの甘味に、口の中がとろけそうだ。
「リオネル、君が甘いものに弱いことを……私は最初からお見通しだよ」
「……っ」
甘い香りと、レオンハルトの甘い視線。
胸が苦しくなる。
だけど――
胸によぎる、レオンハルトのフィアンセの影。
それでも、この時間は僕だけの幸せだ。
湯気の立つハニーポリッジがリオンの前に置かれた。
黄金色の粥の上に溶けた蜂蜜がとろりと光り、甘い香りがふわりと漂う。
リオンは目を丸くした。
「……いいにおい……」
レオンハルトが微笑む。
「リオン、熱いからゆっくり食べるんだぞ」
「うん!」
リオンは木のスプーンをぎこちなく握り、恐る恐る粥をすくって口に運んだ。
一瞬、動きが止まる。
そして――
「……あまい……!」
その声は、驚きと喜びが混じり合った、まっすぐな響きだった。
リオンはもう一口、そしてもう一口と、夢中でスプーンを動かし始める。
「おいしい……! あったかい……!
なんか……ここが、ぽかぽかする……!」
小さな手で胸を押さえながら、リオンは笑った。
その笑顔は、寒いノルディアの冬を一瞬で溶かすような、まぶしいほどの純粋さだった。
僕は思わず目を細めた。嬉しすぎて涙が出そうになる。
レオンハルトも同じらしく、リオンそっくりのハシバミ色の瞳が潤んで光っていた。
「リオン……そんなにおいしい?」
「うん! こんなの、はじめて……!
これ……しあわせの味だよ!」
胸がきゅっと締めつけられた。
リオンは、こんなにも小さなことで幸せを感じられる子なのだ。
レオンハルトも、優しい目でリオンを見つめている。
「リオン。甘いものは、頑張った子へのご褒美だ。今日は……特別な日だな」
「とくべつ……?」
「そうだ。君が初めて外の世界を見て、初めて甘いものを食べた日だ」
リオンは嬉しそうに頷き、またスプーンを口に運んだ。
その姿を見ているだけで、僕の胸の奥まで温かくなっていく。
――この子には、もっとたくさんの“初めて”を見せてあげたい。
そう思った瞬間、レオンハルトがそっと僕を見た。
「リオネル。君も……食べなさい。
君が甘いものを食べるときの顔を、私はどんなにか……」
言いかけて、レオンハルトは言葉を飲み込んだ。
僕は視線を逸らし、スフレにそっとスプーンを入れた。
ふわりと湯気が立ち、蜂蜜煮のベリーがとろりと溶け出す。
「……いただきます」
口に入れた瞬間、甘酸っぱいベリーと柔らかな生地が広がった。
「……おいしい……」
レオンハルトが微笑む。
「だろう?」
リオンは粥を食べながら、僕とレオンハルトを交互に見て、にこにこしている。
「リオネル、うれしそう……!」
その言葉に、僕は思わずスプーンを止めた。
胸が熱くなり、僕はそっとリオンの頭を撫でた。
「リオン……ありがとう」
リオンは嬉しそうに笑い、また粥をすくった。
その小さな背中を見つめながら、僕は思った。
――この子の“しあわせ”を守るためなら、どんな困難でも乗り越えられる。
ノルディアの寒い夜の中、三人の食卓だけが、静かに温かく灯っていた。




