第20話 ノルディア領主の冷笑
レオンハルトはリオンを抱いたまま部屋を出ると、さらに階段を上へ向かって歩き始めた。
「リオネル……大丈夫か?」
「は、はい」
踊り場で立ち止まったレオンハルトが、突然、僕の手を握りしめた。
そのあたたかな体温に触れた瞬間、時が一気に四年前へと巻き戻っていく。
砂糖菓子の城。
野原ではコマドリが鳴き、空は青く澄んでいた。
義父母の笑い声、まっしろなクリームで飾られた甘いパイやケーキ。
レースのドレスに身を包み、レオンハルトの巧みなリードに合わせてステップを踏む、笑顔の僕。
そして――ロマンチックな夕べ。
鳥たちがさえずりだす朝まで、愛し合った月夜の晩。
「…………」
「どうかしたのか?」
「リオネルー!」
気がつくと、レオンハルトとリオンが僕の顔を心配そうに覗き込んでいた。
「い、いえ! 緊張してしまって」
僕はレオンハルトの手を慌てて振り払い、無理に笑ってみせた。
「次は、もっと緊張するぞ。それに……油断できない」
「……っ!」
レオンハルトの瞳が真剣な光を帯びる。
僕はまた、全身を硬直させた。
「リオネル……カーヴェル副院長は、なぜリオンをひと目見て、孤児院への出資を即断したのかな。
彼女は教会への支援にとても慎重な人だ」
「僕の事情を、よくご存じなのではないかと……虐待の事実などを」
「薬は塗っているか? 足りなければ作らせるぞ」
「大丈夫です。四年前……大量に持たせていただいたので」
僕の背中の傷のために、レオンハルトが知り合いに頼んで作らせてくれた薬。
別れるとき、大量に持たせてくれた。
そのおかげで、傷はだいぶ目立たなくなっていた。
「彼女は教会と官僚の癒着に敏感だ。
この四年間、監査官の元妻である君に接触しないようにしていた事情はわかる。
だからこそ、孤児院の援助を断言した姿勢が理解できない」
「…………」
カーヴェル副院長は、女性特有の感覚で僕の身の上に同情してくれただけだと思っていた。
他に、何かあるのだろうか。
***
上階の廊下は、下の階よりもさらに静かだった。
厚い絨毯が足音を吸い込み、空気は冷たく張りつめている。
レオンハルトはリオンを抱いたまま、迷いなく奥の扉へと進んだ。
扉の前に黒い制服を着た兵士が二人。
レオンハルトを見ると、すぐに姿勢を正した。
「領主殿はおられるか」
「レオンハルト監査官。はい」
「案内は不要だ」
レオンハルトが短く答えると、兵士が扉を開いた。
重厚な扉がゆっくりと開き、冷気が流れ込む。
部屋の奥、窓辺に立つ男がこちらを振り返った。
レオンハルトがあらかじめ説明してくれていた人物――
アーヴィン・ロウ=ノルディア領主。
五十代。
銀髪に近い淡い金髪、氷のような青い瞳。
微笑んでいるのに、目だけが笑っていない。
「これはこれは……王国監査院の新しい“切り札”が、わざわざご機嫌伺いとはな」
声は柔らかいが、底に冷たいものが流れている。
レオンハルトは一歩前に出て、丁寧に頭を下げた。
「本日は、新しい助手の紹介に伺いました」
「ふむ……」
アーヴィン・ロウの視線が、レオンハルトの腕の中のリオンへと移る。
「その子は?」
「孤児院の子です。名はリオン。私の助手――リオネルが保育しています」
レオンハルトは淡々と答えた。
アーヴィン・ロウの視線が、今度は僕に向けられた。
その目は、まるで“値踏み”するようだった。
「……リオネル・アルヴィオン。
君の顔は覚えているよ。四年前、首都セラフィオンの社交界で見かけた。
美しい容姿が、レオンハルトとともに皆の目を引いていた」
胸がひやりと冷えた。
「……覚えていただけたとは、光栄です」
「光栄かどうかは、これから決まることだ」
アーヴィン・ロウはゆっくりと歩み寄り、僕の目の前で立ち止まった。
近くで見ると、その瞳は氷のように冷たく、底が見えない。
「アルヴィオン公爵家の嫡男が……北方の地で神父見習いとは。
人生とは実に、予測できないものだな」
言葉は穏やかだが、刺すような真意が混じっている。
レオンハルトが一歩前に出た。
「領主閣下。リオネルは私の助手です。
彼の過去は、仕事にまったく関係ありません」
アーヴィン・ロウは薄く笑った。
「詮索などしていないよ。ただ――興味があるだけだ。
四年前の事件が……君たちの中ではまだ“終わっていない”ようだからな」
僕の心臓が跳ねた。
レオンハルトの声が低くなる。
「当事者にとって……事件に時効はありません」
アーヴィン・ロウの瞳が鋭く光る。
「まあいい。
監査官殿、君の動きはすべて“見させてもらう”。
北方領は王都のように……甘くはないぞ」
アーヴィン・ロウは肩をすくめた。
レオンハルトは静かに頭を下げる。
「覚悟の上です」
アーヴィン・ロウは最後に、リオンをじっと見つめた。
「……その子、おまえたちに似ているな」
僕の背筋が凍りついた。
レオンハルトはリオンを抱き直し、冷たい声で言った。
「閣下。
憶測でものを言うのは、おやめください」
アーヴィン・ロウは笑った。
「ふふ……失礼。
では、歓迎しよう。ノルディアへ」
その笑みは、歓迎とは程遠かった。




