第五話
31歳になった頃には夜の現場の光から少しずつ離れ始めていた。
派手な照明の下で名前を呼ばれる回数も減って、若いときみたいに指名で埋まる夜はもうどこにもなかった。
辞めると言った日も特別なことは何も起きなかった。
私は店長のところに行って言った。
「……辞めます」
店長はしばらく黙って、それから少しだけ苦笑いを浮かべた。
「……そっか。まあ無理しないほうがいいよな」
引き止められることもなく、ありがとうの言葉も淡くて、優しいのにどこか距離があった。
店長は端の書類をめくりながら、ぽつりと続けた。
「彩羽さ……もし完全に夜を離れたくないなら、知り合いのスナック紹介しようか?落ち着いてる店で無理しなくていい場所」
「……スナックですか?」
「うん。ここよりゆるいし、年齢も気にされにくいし……あんたなら合うと思う」
その提案が胸のどこにも引っかからなかった。
拒否もなかったし、期待もなかった。
ただそういう選択肢もあるんだなって、それだけが静かに落ちた。
「……分かりました。やってみます」
そう答えたら店長はふっと安心したように息を抜いた。
「無理はすんなよ。……ほんとに」
その言葉だけ少しだけ柔らかかった。
完全に夜を捨てたわけじゃなかった。
ただ音量の小さい夜へ移動しただけだった。
カウンター越しに軽い酒を作って、常連のゆるい会話に少しだけ付き合う。
スナックの照明は柔らかくて、声を張り上げる必要もなかった。
「くれあちゃん、今日お客さんちょっと多いよ〜」
「はーい……」
甘い声が勝手に出る。
もう癖だった。
距離の詰め方も目の合わせ方も夜の身体が覚えているものだけが残っていた。
「くれあちゃん今日なんか綺麗だね〜」
「え……ほんと?」
「ほんと助かるわ〜。華あるもん」
「……嬉しいです」
褒められても心は動かなかった。
でも返す声だけはまだ綺麗に出る。
そのギャップが少しだけ虚しくて、少しだけ楽だった。
店を出るのはいつも深夜になる前だった。
ラウンジ嬢のときほど遅くない。
外に出ると空気が冷たくて、それだけで体が少しだけ軽くなった。
家に帰ってシャワーを浴びて、そのまま倒れるみたいに眠る。
起きるのはいつも昼過ぎだ。
部屋の中は静かすぎて、カーテンの隙間からの光がやけに白かった。
「……起きなきゃ」
眠気を引きずったまま洗濯機を回し、簡単な掃除だけして、莉奈の夕飯の準備を最低限だけ整える。
味付けは適当で火加減もいつも雑だった。
玄関で音がして、小さな足音がとことこ近づいてくる。
「まま……起きた?」
「うん。起きたよ」
抱きつかれる勢いは昔より弱かった。
でも、その一瞬だけ浅い場所に薄い灯りが点いた。
「おなかすいた」
「……はいはい。温めるから待っててね」
「うん!」
会話はそれだけ。
夜に備えて声を温存しているわけじゃないのに長く話す気力もなかった。
生活のリズムが乱れていて体も心もゆっくり鈍っていた。
適当に温めた夕飯をテーブルに置く。
「……味どう?」
「ん……たべれる」
その返事が淡々としているのにどこか壊れずに続いていく日常の一部みたいで不思議とその静けさだけは嫌いじゃなかった。
今まで稼いだお金が残っているからこれから困ることは多分ない。
生活の底を支える数字だけがひっそりと動かずにそこにあった。
窓の外を見ると、夕方の光が少しだけ滲んでいた。
メイクを始める時間が近づいている。
「……これでいいや」
良いのかなんて分からない。
ただあのラウンジの匂いより呼吸がしやすかった。
家に帰らなくなった理由なんて、はっきりとは覚えていない。
ただ玄関に向かう足が少しずつ重くなって、鍵を回す指が夜ごとにためらうようになった。
リビングの灯りはいつもついている。
その奥からあの声が聞こえる。
「ママ、おかえり」
「……まだ起きてたの」
「うん、ちょっとだけ宿題」
「もう寝なさい」
「……うん」
莉奈は4歳から12歳に成長した。その音の響きが日に日に忌々しい美咲に似ていく。
なのに見た目は私と似ている。
どこからか混ざった何かが気持ち悪いくらいにズレている。
そのズレを見るのがつらかったし、腹立たしくて、遠ざけてしまう。
「ママ。明日さ、朝一緒に――」
「無理」
「……うん」
「先に寝て」
「分かった。ママおやすみ」
返事を聞く前に靴を脱ぐ。
背中にまとわりつくような視線だけが残ってそれを振り払うように部屋を通り過ぎた。
そんな日が続いていた頃、最近付き合い始めた恋人から、いつものメッセージが来た。
〈今どこ?〉
ただそれだけ。
意味なんてないのに指が勝手に動く。
〈仕事終わったとこ〉
〈来る?〉
〈……うん、行く〉
その一文で帰り道がぼやける。
電車の音が遠くで響くだけの夜。
理由なんていらなかった。
ただ家の灯りを思い出すと吐き気がした。
相手の部屋は静かだった。
きれいに片付いた部屋。
生活の匂いがない分、記憶を刺激しない。
「遅くない?仕事が長引いた?」
「ううん……帰りたくなかっただけ」
「またケンカ?」
「ケンカにもならない」
「……そう」
そのほうが何より心地いい。
深く聞かれない優しさがちょうどよかった。
「なにか飲む?」
「いらない」
「こっち来なよ」
「……うん」
ソファに身体を預ける。
そこには何もない。
温度や情も安らぎも。
でも家の中みたいに声の高さや視線ひとつで記憶の底を掘り返されることもない。
なにも触れてこない場所。
それだけでよかった。
「今日、泊まっていくの?」
「……うん。帰っても寝るだけだし」
「そっか。パンくらいあるから朝食べていきなよ」
「いらない」
その会話の薄さがちょうど良かった。
息を合わせなくていい関係。
感情の温度が低いまま何も揺らさない夜。
こうして恋人の家に行く夜が帰るよりも自然な選択になっていった。
家にいる時間は少しずつ短くなり、莉奈の声は遠くで響く音のようにしか感じなくなった。
「あのね、ママ。今日ね――」
「あとで」
「……うん」
「寝なさい」
「ママはいつ寝るの?」
「関係ないでしょ」
「うん……ごめん」
そして静まり返る。
時計の音だけがやけに大きく響いた。
「……おやすみ」
その声を最後に莉奈はもう話しかけてこなかった。
その静けさに少しだけ安堵している自分がいた。




