表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
透明な彼と真っ黒な彼女  作者: 栖川 葵依
IF編 泡沫の夢、醒めないままに
90/90

第六話

 四十三歳を迎えた春。

 玄関の鍵を回す音がやけに重く響いた。


 靴を脱いで廊下を進むとソファーに莉奈が座っていた。

 顔を上げるでもなく、ただ視線だけがこちらを冷たく追った。


「……帰ってきたの?」

「見ればわかるでしょ」

「別に。確認しただけ」


 その言い方が刺さる。

 美咲に似ているとか誰に似ているとか。

 そんな比較すらもうどうでもよくなるほどただトゲだけがそこにあった。


「……ごはん作ったけど、食べる?」

「いらない」

「そうだと思った」

「なら聞かないで」

「確認しただけ」

「……勝手にすれば」

「してるよ、前から」


 少し前まで聞き返してきた声がもう感情の底を見せなくなっている。

 気を使っているわけじゃない。

 ただ関わる気がないだけ。


「明日、学校終わったら……帰らない」

「は?」

「友達のところに泊まる」

「……理由は?」

「言う必要ある?」

「……好きにすれば」


 その言葉の切れ味に、十六歳の幼さなんて欠片もなかった。

 私のほうこそ返事をする意味を見失う。


 莉奈は淡々としたまま、表情ひとつ動かさない。

 こちらを真正面から見ているのに、まるで通り過ぎているような目。

 その無関心が妙に苛立ちを撫でた。


「……あんた、ほんと冷たいわね」

「今さらでしょ」

「誰に向かって言ってるのよ」

「別に。事実じゃん」


 その言い方にイラつきだけが一気に上がった。

 ただ目の前の態度そのものが嫌でたまらない。


「……その生意気な態度に腹立つ。誰が育ててやったと思ってるの」

「お母さんに育てられた覚えもないし、お母さんの子なのが一番恥ずかしい」


 その一言で体の温度が一段落ちた。

 言い返す前に娘の目が完全にこちらを見ていないのがわかった。


「は?……何あんた。私が悪いとでも言いたいの」

「……当たり前じゃん。そうやって私からも何もかもから逃げてきてさ。ほんとださい。絶対こんな大人になりたくない」


 気づいたときには手が動いていた。

 頬を打つ乾いた音だけが部屋に響く。

 強いわけじゃないのに十六歳の身体がわずかに揺れた。


 莉奈は驚かない。

 怒らない。

 泣かない。

 ただ少し顔をそらして小さく吐き捨てた。


「……そういうのもういいって言ってるじゃん。めんどくさい」


 その声に何の感情もなかった。

 ただ距離だけが残った。

 そのことでまた虫の居所が悪くなる。


 台所の明かりはついているのに、家のどこにも仲の良い母と娘の気配は既になくなっていた。


 翌日の昼過ぎの部屋は静かだった。


 カーテン越しの光が床に細く落ちているだけで、生活の気配はほとんどない。


 テーブルには学校の書類や冷めたカップも置きっぱなしのまま。

 片づけようと思った記憶すら曖昧だった。


「……ただいま」


 口に出したところで何も変わらない。

 声が空気に吸われるだけだった。


 莉奈は最近ずっと家にいない。

 学生なのに帰宅時間はバラバラ。

 友達の家に泊まる日ばかりで、この家にただいまが返ってくることはもうない。


 冷蔵庫から水を取り、少し飲む。

 喉を通る感覚だけがやけに薄かった。


 寝室に向かおうとして、視界の端がふっと揺れた。


「……?」


 立ったまま、少しだけ待てば戻ると思った。

 けれど床の色が近くなる。

 壁がゆっくり傾いていく。


 息を吸おうとしても空気が胸まで入らない。

 心臓が強く打ったのか弱くなったのかすら判別できなくて。


 ソファーに手をつこうとした瞬間、腕の力がすっと抜けてしまう。


 床の冷たさが肌に触れる。

 天井の光が揺れて見える。


 声が出ない。


 息も深く入らず、体を動かすこともできない。


 あぁ……わたし。


 ……ここで死ぬんだ。


 そう実感したら走馬灯みたいに昔の楽しかった頃の思い出が次々と浮かぶ。


 梨沙や美桜。紗月のこと。


 私が自らの手で手放してしまった親友たち。今はどこで何をしているのかも分からない。


 そして佑磨くんと佐伯くんに私より一つ歳下なのに啖呵を切ってきた御崎心陽。


 もしもあの時に反省してたら私はどうなったんだろう?


 ……どこで間違えてしまったのかも、もうわからない。遠い記憶のようで、ずっと悪夢から醒めないまま。


 そこで私の視界は真っ黒になった。



 夕方、エレベーターの鏡に映った自分の顔が少しだけ疲れて見える。

 鍵を回す音だけがマンションの廊下に小さく響く。


「……ただいま」


 いつも通り返事はなかった。でも、それもいつものことで慣れてる。自分でも嫌な慣れだとは思うけど。


 靴を脱いで歩こうとしたとき、リビングの床に伸びた影が目に入る。


「え……お母さん?」


 声に反応はなかった。

 部屋の空気がいつもよりひどく静かだった。


 近づいた瞬間、時間がどこかで切れていることだけがすぐにわかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ