第四話
生理が遅れていることには気づいていた。
でも遅れてるって言葉自体がもう日常すぎて、そこに意味があるのかどうかなんて考えたこともなかった。
店に行って酒を作り、クズ男の別の家で寝て、朝になって帰って寝てまた夜が来る。
その繰り返しはもう体に染みついていた。
その日も同じだった。
テーブルに肘をついて、甘い声で客を転がして、グラスに氷を落として、愛想笑いして。
名前すら覚えてない男に肩を触られて。
全部いつもどおりのどうでもいい夜だった。
なのに店の照明がほんの少し滲んだ。
世界が揺れたみたいに。
「彩羽さん?顔色悪くない?大丈夫?」
誰かが言った。
その声だけがやけに遠くて。
「んー……別に……」
足も体も甘い声すら出なくなってーー。
その瞬間、私の意識は深く沈んでいった。
目を開けたら天井が白かった。
鼻につくくらい消毒液の匂いが漂っている。
しばらくぼんやりしていたらカーテンが擦れる音がして看護師が入ってきた。
「……気づきましたか?倒れたそうですね」
「……そうなんですね」
「とりあえず点滴しています。先生、お呼びしますね」
看護師が出ていったあと、部屋の静かさが強すぎてなんとなく目を閉じたり開いたりしていた。
少ししてノック音が響く。
「失礼します」
白衣を着た女性の人がカルテを持って入ってきた。多分、医者だろうなってのは分かる。
「意識ははっきりしていますね。気分はどうですか?」
「……」
「倒れた影響は軽い脱水症状です。かなり無理をしていたはずです。倒れる直前、何か自覚症状は?」
「……いつも通りでした」
「いつも通りで倒れるのは普通ではありませんよ」
そう言いながら、医者はカルテをもう一度確認した。
少し間を置いてから声の温度が変わった。
「……妊娠しています」
その瞬間、空気が止まるみたいに静かになった。
胸が動くとか息が詰まるとかそういう反応じゃなくて。
あ、終わったんだなっていう乾いた音だけが心のどこかで割れた。
「……」
声が出ないというより出す必要がなかった。
驚きとか焦りとかそういう温度が全部消えて、ただやっぱり何かあったんだなっていう淡い感覚だけが落ちてきた。
「現在十九週です。かなり進んでいます。本当に気づかなかったんですか?」
「……知らなかった…です」
言葉に触れない感じがした。
自分の口から出てるのに別の人が喋ってるみたいだった。
「この週数だと中絶ができる期間は非常に限られます。受け入れている医療機関も減ります。選択をするなら猶予はほとんどありません」
ただの説明なのにその言葉だけは冷えた刃物みたいだった。
刺さるんじゃなくて、音もなく沈む感じ。
でも怖くはなかった。
怖いって感情をもうどこかに置いてきたみたいだった。
医者は少し視線を落としてから尋ねた。
「……父親の方に心当たりは?」
「……ないです」
そのないの一言に自分の生活と壊れた日々が全部まとめられているみたいで少しだけ喉がつまった。
医者は少しだけ眉を動かしたがすぐに冷静な表情に戻った。
「そうですか。もし父親の協力が得られない場合、出産後の手続きや支援について説明が必要になります」
「……」
興味があるように聞こえたかもしれないけど、中身は空っぽだった。
内容は理解してるのに、心がどこも反応しない。
「産むのか産まないのか。あなたが決めなければいけません。十九週という週数は……正直、時間がありません」
天井を見たままゆっくり息を吐いた。
息が出ていく音だけがどこか現実に繋がっている唯一の感覚だった。
「……今はちょっと決めれないです」
自分で言ったのにその言葉の中の迷いや本気度も何も掴めなかった。
「そうですか……まあ、少し休んでからで構いません。決めるのはあなたです」
部屋がまた静かになった。
ただその静けさだけがやけに肌に貼りついた。
薄い膜みたいに剥がれなくて、やけに息苦しかった。
その日の夜、なぜかクズ男の家に行った。そこに理由とかない。
行為が終わったあと、クズ男はタバコを吸っていた。
天井の白い光だけがずっと目に刺さっていた。
「……今日さ病院に運ばれたら妊娠してるって。ほんと笑えるよね」
灰皿に落ちる灰が一瞬止まった。
「……は? 今なんて言った?」
「十九週目だって」
クズ男は一度だけ乾いた笑いを漏らした。
「……冗談じゃなく?」
「こんな冗談いう意味ある?」
沈黙が落ちた。
布団を握りしめて、視線を避けたまま言った。
「……俺の子……なのか?」
その言い方が気に障った。
「さぁ……?私よりあなたのほうが知ってるんじゃない?」
顔色が変わる。怒りと焦りと保身が全部混ざった声。
「……彩羽ちゃんさ……こういうのちゃんと管理してないの?」
「は?」
「夜の子ってちゃんとしてんのかと思ってたよ……。ピルとか……そういうのさ」
それは完全な責任転嫁だった。
自分が避妊しなかったことは棚に上げたまま。
「……なにそれ。私だけが悪いの?」
「だって……俺、家族いるし。嫁も子供もいるし。バレたらほんとに終わるんだよ?」
終わると言った瞬間、私より自分の人生の心配しかしてないのが伝わった。
「……じゃあ私の人生は?」
気づいたらそう言っていた。
声は甘いのに、足元がふらつくみたいに弱かった。
押し返すように吐き捨てた。
「いや、そっちは……なんとかなるだろ?夜の子ってそういう……なんか強いじゃん。シングルでやってる子とか普通にいるし」
――普通にいるし。
その言葉が一番刺さった。
「……私がどうなってもいいってこと?」
「違う違う違う。そうじゃないって。俺が困るんだよ」
完全に自分のことしか考えていない。
それが逆に滑稽すぎて、少し笑いそうになった。
「ほら……俺も彩羽ちゃんのこと嫌いとかじゃないし……。でも、さすがにこれは……無理なんだよ。俺、家族のことは裏切れないし」
「裏切ってんじゃん」
「……それは……違うって」
違わないのに。
「……もう会うのはやめよう。関わったらマジで俺の人生終わるし。
でも……お金は送るから。それでさ…その……黙っといてほしい」
黙っといてほしいという言葉がこの男の本性の全てだった。元から分かっていたのに、何を期待してたんだろう。ほんと馬鹿馬鹿しい。
「……ほんとごめん。でもこれ以上はお互いのために会わないほうがいい」
お互いのためなんて噓。
「お金だけは……明日中に振り込むから。本当に……頼むよ。これ以上巻き込まないで。もう帰ってくれ」
「あ、そう」
玄関に立つことすらなく、黙って背を向けられた。
その背中を見ていたら、内側のもっと浅い場所がざらっとした。
泣くほどの感情じゃない。
怒るほどの熱もない。
ただ何かが少し折れた音だけが静かに響いた。
出産の日は雨だった。
陣痛の痛みすら曖昧で体が勝手に揺れるだけだった。
中絶ができる週数はとうに過ぎていて、もうどうしようもないところまで来てしまったんだとただ事実だけを眺めるみたいに思っていた。
妊娠が発覚してから酒も飲めなくなったし、タバコも吸えなくなった。
ラウンジにも出勤ができなくて、貯金していたお金は減っていく一方だ。
「もう少しですよ、頑張って」
頑張るって言葉が自分とは無関係な誰かへのものみたいだった。
戻れる場所なんてどこにもないのに。
泣き声が響いたのは自分が息を吸い直した瞬間だった。
「はい、お母さん。元気な女の子ですよ」
腕に乗せられた小さな体は驚くほど軽かった。
その軽さに何を思えばいいのか分からなくて、ただ視界の隅に置くみたいに見ていた。
「名前はどうされますか?」
「……莉奈にします」
「良い名前ですね」
準備した名前なんてなかった。
降ろすこともできず。
ただ時間だけが過ぎて、浮かんだ名前が莉奈だった。
赤ちゃんは泣いていた。
私は泣かなかった。
感動もしなかった。
母親なんだと実感することもなかった。
ただ莉奈の存在だけが、これからの生活に静かに影を落とすものとしてそこにあった。
重いとも思わないし、拒否するほどの感情も湧かなかった。
ただ距離があった。
それだけだった。




