第三話
鏡の中に移る今の私の名前は彩羽。コンカフェ嬢はやめて、別のお店で働いている。
目元だけが甘くつり上がってるのに、内側は氷みたいに冷えていた。
金持ちのクズ男も常連の男たちも何もかもめんどくさい。でも私が一人で生きていくうえでは必要な人たちだから、体を求められれば誰にでも預けた。
そこに愛情とかそんなくだらないものはお互いに一切ない。
信用できない感情の筆頭は好意や愛情で、最も唾棄すべきもの。
ヒールを鳴らしてフロアに出ると、ライトの照り返しが肌を綺麗に見せるらしい。
「彩羽ちゃーん、こっち!」
「今日めっちゃ可愛いじゃん」
「ねえ昨日のLIME既読無視したでしょ?ちょっと寂しかったんだけど」
「ごめん〜。寝落ちしちゃってさ……ねえ、今日は何飲む?」
「彩羽が選んでよ。俺、やっぱ彩羽のセンス好き」
「じゃあ〜……一番高いの入れちゃおっか?」
「は?それは反則。でも入れるわ」
「ありがと。嬉しいよ……」
とろける甘さが口から勝手にこぼれた。
でも中身なんてひとつもなかった。
「彩羽さん、3番席から指名です」
「あ、みんなごめんね。また戻ってくるね」
「おけ!待ってるね!いっておいで」
3番席に座っているクズ男がすでにボトルを入れていた。
「遅いじゃん。待ってたよ」
「ごめんね……別のお客さんが離してくれなくて。ね?」
この男は美人な奥さんと子供がいるのに、若い女を抱くクズな男。
そしてそんな私はそのクズ男と同じ穴に堕ちてしまった。
「今日はホテル行こうよ?」
「いいよ〜……」
「ちゃんと俺だけ見てよ」
「うん、けいくんしかみてないよ」
「嬉しい。俺、彩羽ちゃんのためなら何でもする」
「嬉しい」
クズ男は満足そうに笑った。
その浅さすらどうでもよかった。
手が腰に触れる。
何も感じない。
クズ男の手が私の腰を離れたあと、グラスの氷がカランと鳴り、その音だけがやけに耳に刺さった。
「そろそろ出よっか。タクシー呼んであるから」
「……ありがと」
甘い声が勝手に口から出る。まるで脊髄反射みたいに。
心の中は静かで、冷たくて、深い穴みたい。
フロアを歩くと、別の客の視線が刺さる。
「彩羽ちゃーん、帰っちゃうの?あとで来てよ」
「指名代入れるのに〜」
私は軽く振り返って微笑んだ。
「ごめんね?またあとで……ね?」
柔らかい声。
けど、その約束を守るつもりなんて一つもなかった。
店の自動ドアが開いた瞬間、夜の空気がまとわりつく。
香水とアルコールと街の匂いが混じっていた。
「今日、なんかいつもより可愛いじゃん。ドレス似合ってるよ」
クズ男がそう言ってくる。
優しい声。
熱っぽい目。
「…ほんと?」
心が死んでるのに声だけは生きてるみたいに甘くなる。
それが余計に笑える。
タクシーの後部座席に並んで座ると、クズ男の指が私の手をそっと握る。
「彩羽は可愛いね」
「ほんとに嬉しいよ」
「もっと近づいていい?」
「……うん」
その返事を落とすとき、やわらかく震えた。
まるで囁きの残り香みたいに声だけが甘く沈む。
冷たくて、乾いてて、何も動かない。
街の灯りが車窓を流れ続けた。
私はただそれをぼんやり見ていた。
「今日は……ちゃんと甘えてよ」
「んー……どうしようかな……」
声はとろけるみたいに柔らかい。
でも心は氷みたいに固まって動かない。
ホテルの部屋は薄い暖房の匂いがした。
白いシーツの上に座ると、照明の光がやけに柔らかく見えた。
綺麗だとも汚いとも思わなかった。
「こっちにおいでよ。寒いでしょ?」
クズ男が腕を広げる。
私は適当に歩いて、何も考えずに寄りかかった。
「……あったかいじゃん。ありがとね」
甘い声だけが口から零れた。
言葉の中身がどこかに落ちたまま拾う気もなかった。
肌に触れる手の動きも。
息の近さや引き寄せられる感触も全部ただ事実として体が理解するだけだった。
気持ちよさも嫌悪もない。
ただそうしないと私は生きていけない。こんなクズ男や他の男たちに媚びながら生きていくしか。
「彩羽、ほんと綺麗だな」
「……そう?ありがと」
その声だけが生き物みたいに甘かった。
それ以外は静かすぎて、眠っているみたいだった。
カーテンの隙間から街の赤い光がふわっと入ってきた。
歓楽街のビジョンが空気を震わせるみたいに明るかった。
人の声がぐちゃぐちゃに混ざって、アルコールと湿った夜の匂いが肌に染みついてくる。
歩いていたら、視界の端を強い光が裂くみたいに走った。
高いビルの上であの女……美咲が笑っていた。
無駄のない体のライン。
透けるような肌。
完璧に計算された微笑み。
光に守られてるみたいな存在感。
「……は?」
音にならない声が零れた。
足が勝手に止まった。
なんで?
美咲は笑顔で、私は夜明け前の歓楽街で酒と嘘の残り香を吸ってるのに。
どこを間違えたとかじゃない。
間違えた場所なんて思い出せないほど、ずっと壊れたまま。
嫉妬って言葉じゃ片付けられない。
もっと尖ってて、もっと濁ってて、皮膚の裏を引っかくようなざらつきが広がっていった。
焦げた匂いみたいな感覚が体のどこかでチリッとした。
視界が白む。
光のせいじゃなくて、ただ思考の輪郭が崩れるみたいにぼやけていった。
広告の中の美咲は世界の中心に最初から選ばれてたみたいで、私はその下に落ちた影のほうでぼんやり立っていた。
選ばれない側の形をしたまま固まっていた。
「……くだらない」
呟いた声は甘くて乾いていて、そのくせ中身が完全に死んでいた。
歩き出しても体のどこかでずっとチリチリ音がしてるみたいだった。
名前のない感情が傷口をゆっくり広げるみたいに夜明けの街に滲んでいく。




