第二話
今の時間が朝なのか、昼なのか分からない。
あたしが今、起きているのかもよく分からなくてしばらく天井だけを眺めていた。
引っ越してから何日か経ったはずなのに部屋の空気はずっと新しいままで生活の匂いが全くしない。
家具が並んでいるのに誰のものでもないみたいだった。
ベッドから起き上がる気力もなくて少しだけ体を動かすとシーツが擦れる音が静かに響いた。
その音だけが今日の始まりを告げている感じがした。
スマホが近くにあったので手を伸ばして画面をつける。
LIMEの通知はゼロ。
既読にもならない。
SNSもゼロ。
タイムラインは動いているのに、あたしの世界だけ止まっている。
佑磨くんのアイコンをタップしてトーク画面を開く。
〈瑠奈には悪いとは思うけど、もう俺たち関わるのやめよう。あのときの返事もしなくていい〉
その文字が薄く光の中で滲む。
関わらないほうがいい。
その言葉がずっと頭のどこかで響いていて眠れない。
返事をしようと何度も思ったのに結局一文字も打つ勇気が持てなくて。
「…なんでなの。佑磨くん……」
あんなに優しかった声もキャットランドであたしのことを好きと言ってくれたことも全部、壊れてなくなってしまった。
取り戻す方法なんてどこにもないし、どうやったら取り戻せるのかもあたしにはわからない。
「……好きだって言ってくれたのに」
人ってこんなに簡単に離れていくんだなって思ってしまって。何も私は悪いことはしてないのに。
ただ寂しかっただけで、なんでこんなに責められないといけないの。寂しさを埋めることが悪なら、愛してくれない人たちはもっと悪であるべきなのに。
もう明日なんかこないで欲しい。だって、明日を迎えるたびに辛くなるから。現実なんて一切見たくもない。
小さく落ちた音が広い部屋の中でよく響いた。
空気の重さが体にまとわりついて動く気がしない。
机の上に置かれた通信制高校の資料だけがやけに現実味のある存在だった。
名前の欄には南條瑠奈と印字されていて、まだ見慣れない文字がじっとこちらを見ているようで思わず視線を逸らしてしまった。
あれから2年が経ち“私”は通信制高校を卒業した。家はもうあの人達との約束通り引き払って、今は都内の1DKのマンションで暮らしている。
スマホを手に取って銀行のアプリを開く。
最初は三百万円あった残高も今はもう残りわずかしかない。
この2年間、通信制高校に通いながらいろいろな仕事をやってきた。
コンビニ。
ファストフード。
居酒屋のホール。
カフェの募集。
簡単な軽作業。
どの仕事も向いてなくて、どれも長続きせず、それは卒業しても同じだった。
働くことがこんなにも大変で、難しいことなんて知らなかった。
もう一人で生きるのが嫌で耐えられない。寂しい。だれか私のことを助けてほしい。
今の私には何もないし、あの人達からは縁切りされてるから生涯独り身だし、いっそのこと……と思うけど、そんな勇気ない。
だからいま、求人サイトでとある採用情報をみている。
【世界観に合う可愛いキャストを募集!接客とSNS発信ができれば未経験でも歓迎!!時給とバックあり】
「……こういうの私でもできるのかな」
鼓動が少し早くなる。
怖いのに応募ボタンを押す指は震えながらも止まらなくて、面接当日をそのまま迎えてしまう。
初めて見たお店は思ったより小さくて。
でも外観はやけに明るかった。
ピンクのネオンが薄い昼の空気をゆらめかせていて近づくだけで胸がざわついた。
ドアを開けると甘い匂いがした。
照明が少し暗くてその中に白い衣装が浮かび上がっていた。
「可愛いね〜。とりあえず座って」
へらっと笑ったスタッフに案内され、奥の小さなテーブルに座る。
奥から店長らしい男性の人が出てきて、手に持ったタブレットをこちらに向けた。
「じゃあまず源氏名どうする?何か希望ある?」
「…源氏名ですか」
聞き慣れない言葉に一瞬だけ思考が止まる。
「このお店のね。名前の響きが大事だから。短めで呼びやすいやつ。ひらがなとかカタカナの子が多いよ〜」
タブレットには女の子たちの名前がずらっと並んでいた。
しあ、みる、うい、あむ、れい、のあ。
店長が指でスクロールしながら軽く言う。
「じゃあ、しあがいいです」
「うん。いいね!声も顔も可愛いし、しあはかなり似合うと思うよ」
私の返事を待つ前に店長は入力フォームにしあと打ち込んだ。
それがここで働く名前なんだという事実がじわっと胸に落ちる。
「それでいつから入れる?」
「……明日から入れます」
「分かった。明日からよろしくね」
「はい。よろしくお願いします」
できるかどうかなんてどうでもよかった。今の私に残されたのは偽物の笑顔と明日を凌ぐためのお金だけだ。
翌日、案内された狭いバックヤードには、香水の匂いとタバコの匂いが混じって停滞していた。
「サイズこれで大丈夫かな?更衣室で着替えてきてね。あ、お店のルール言うの忘れてた。
まずお客さんとは連絡先交換禁止。席につく時は笑顔でチェキでは距離を詰めすぎないこと。それとお店のBwitterに写真出すからさ、明るく写るように気にしといて」
「分かりました」
差し出されたのはかつての私なら絶対に選ばない、ひどく現実味のないフリルがたくさん施された服装だった。
「……私じゃないみたい」
そう呟いても鏡の中の子は微動だにしなかった。
「しあちゃ〜ん準備できた? あ、ちなみにうちは毎日ランキング出してるから。数字意識して頑張って」
スマホの画面が目の前に差し出される。
名前がずらっと並んでいて、上から順に売上順だった。
トップの子は笑って写っていた。
もちろん、私の名前はまだそこにはない。
数字意識して頑張ってね。
店長のその言葉だけが妙に強く響いた。
数字で評価される世界。
可愛いだけじゃだめな世界。
新人は最下位から始まる世界。
背中が冷たくなる。
頑張るって残酷な言葉だと思ってしまう。はっきり言って重荷でしかない。
制服の裾が少し揺れた。
鏡の中の私はゆっくりまばたきをしただけだった。
店内は外から見たより暗くて、テーブルだけが照明で浮いていた。
甘い匂いと香水とアルコールが少し混ざっていて、呼吸をするたびに胸がざわつく。
「しあちゃん、このテーブルお願いね〜」
スタッフの軽い声が背中を押す。
客席に視線を向けると三人組の男性が笑いながらこっちを見ていた。
年齢はバラバラで、テンションだけが揃っていた。
「……はい」
制服のスカートを指で少し直しながら近づく。
歩くごとにヒールが床を鳴らす音がして、その音だけが自分の現在地を教えてくれる。
怖いのに顔だけは自然と笑ってしまう。
「はじめまして。今日から入りました。しあです!」
声がふわっと出た。
こんなふうに人前で笑うのはいつ以来だろう。
両親に絶縁宣言されてからだから……2年ぶりなのかな。もうそんなに経つんだ。
通信制
「うわ、めっちゃ可愛いじゃん」
「いや実物、優勝でしょこれ」
「声もいいな〜こういう子好きだわ俺」
「ありがとうございます。緊張してるんですけど……優しくしてね?」
自分で言いながら、こんな台詞が自然に出てくることに少し驚く。
まだ私が笑えていた頃の癖。
「緊張してるの?嘘でしょ絶対慣れてるじゃん」
「いや新人って聞いたんだけど?ほんと?」
「初日でこのレベルはやばいよ」
「嬉しいです!初めてなのでとても緊張してて」
「じゃあ初チェキ頼むわ!」
「俺も〜」
「俺も三枚いく!」
一気に声が重なって、空気が明るく跳ねた。
「こんなに……ありがとうございます。じゃあ何のポーズにします?」
「しあちゃんに任せる!」
「おまかせ〜!映えるやつで!」
「俺ツーショがいい!」
「じゃあ……こういうのどうですか?」
手で小さくハートを作ってみせると、三人とも同時にうわっと声を上げた。単純で内心笑ってしまう。
「可愛い!」
「天才かよ」
「それでいこうそれで」
ライトが強くて、視界がじわっと白む。
「撮りますね〜」
シャッターが鳴る。
「しあちゃんポーズ上手くない?」
「絶対他でやってたでしょ」
「天性のアイドルじゃん」
「そんなことないよ〜!褒めすぎです!」
笑顔がするっと顔に貼りつく。
その瞬間だけ南條瑠奈からコンカフェ嬢のしあという別人になれた気がした。
チェキのフィルムを手渡すと、三人とも子どもみたいに歓声を上げた。
「これ保存版だわ」
「今日から通うわ」
「推し決定〜!」
「わー!ありがとう!しあ、いっぱい頑張っちゃいます!」
自分の声が客席の騒がしさに溶けていく。
心は相変わらず動いていないのに笑顔だけは様になっている。
「しあちゃんは好きな飲み物ある?差し入れで頼むよ」
「え、いいの……?じゃあミルクティーで……」
「はい決定!ミルクティー二つ追加で〜!」
スタッフに手を挙げながら男たちが笑い合う。
「ねえしあちゃんって誕生日いつ?」
「彼氏いるの?絶対いるでしょ」
質問が矢継ぎ早に飛んできてそのたび笑顔で返していく。
「秘密です!いっぱい仲良くなったら教えるかもしれませんよ〜?」
「え〜それズルい!」
「でもそれがいいんだよ!」
会話が止まらない。
テンションが高くて、軽くて、明るくて。
その明るさが逆に少しだけ痛かった。
「しあちゃん、もう一枚いい?」
「俺もツーショ追加」
注文が次々積み上がる。
手元の伝票に数字が増えていく。
その数字が店のランキングに反映されることを思い出す。
ただ笑って。
ただポーズを作って。
ただ求められるしあを演じる。
「しあちゃん、やっぱ人気出るわこれ」
「今日当たり引いたわ〜」
「今度指名するね?」
「ほんとにありがとうございます!……また会いに来てくれると嬉しいな」
また笑った。
口角が上がるたびに自己嫌悪。
裏に戻るとスタッフがちらっと声をかける。
「しあちゃん接客めっちゃ上手いね。今日の売上いいよ。めっちゃ期待してるから」
「はい!ほんとに頑張ります!」
口では頑張りますなんて言ったけど、期待してるという言葉が重くて、肩に乗ったまま落ちなかった。
ロッカーの鏡を見ると、制服がきらきらしていた。
笑っているのにどこにも自分がいない顔だった。
「……ちゃんとできちゃうのがいちばんやだ」
そう呟いた声は小さすぎて、鏡にも届かなかった。
照明の白さが増した気がした。いつの間にか私はこの光に慣れていくのかな。




