第一話
玄関の明かりはついているのに家の中は静かだった。
外の風も止まってここだけ時間が外れたみたいな感覚だった。
靴を脱いでスリッパに足を入れると底が少し硬く感じる。
大理石の冷たさがつま先からじわっと染みてきて歩くたびに擦れる音が薄く響いた。
湿った制服の裾が足にまとわりついて呼吸が浅い。
玄関からリビングまでの廊下がいつもより長くて光がゆっくり追いかけてくるみたいで落ち着かなかった。
扉の向こうで時計の音が少しだけ聞こえる。
カチ、カチと等間隔で落ちるその音が強く刺さっていく。
真鍮のドアノブに触れると手が汗ばんでいた。
ゆっくり押して中に入るとパパとママとお姉ちゃんが並んで座っていた。
照明だけが橙色に光っていてその下に三人の影が真っ直ぐ伸びていた。
「……学校から聞いた。これは本当なんだな」
パパの声が低く落ちて遥斗くんと楽しそうに喫煙や飲酒をしているツーショットやLIMEでのやり取りのスクリーンショットがまとめられた紙が照明に反射していて、それが鋭く光って息が詰まる。
「……ごめんなさい」
ママがわずかに視線をあたしに向けてくるが、怒りじゃなくて冷めた失望の目をしている。
「ごめんなさいで済むことじゃないの。未成年であんな写真を取られて花園家の名に傷がついたのよ」
声の端が硬くて返す言葉が見つからなかった。
言い訳を探そうとしても喉がうまく開かない。
お姉ちゃんが少し身を乗り出してため息をつく。
「どうしてあんな人たちと関わったの。私なら絶対しないよ」
その私ならって言葉に体のどこかがひりつく。
お姉ちゃんさえいなければ。
何度も、何度もそう思った。
あたしがどんなに頑張ってもお姉ちゃんとの差が埋まることがなくて、涼しい顔をして、前をひたすら歩んでいく。
裏であの家のお姉ちゃんは優秀なのに、妹の方は容姿以外は平凡なのねって言われるあたしの気持ちが!!
それがどれだけ辛くて、どれだけ悔しいのか。
あたしの気持ちなんか全てを持ってるお姉ちゃんがわかるわけない。
お姉ちゃんに同情や優しくされる度に自分が見下されている感覚になって。お前は容姿しか取り柄がないんだと突きつけられてるようで。
でもそんな優秀なお姉ちゃんが誇りなのに。本当はお姉ちゃんを尊敬しているのに。素直に大好きだと言えたらって思うけど、それはあたしのプライドが許さなくて。
お姉ちゃんのことは今は憎くくて、目障りで。そしてそんなことを思っているあたしのことがお姉ちゃんより大っ嫌いで目障り。
「……言葉がそれだけだとはな。見損なったぞ」
パパの腕組みがわずかに動く。
その沈黙が何かを決める前触れのように感じた。
「停学は二週間だと理事長から聞いた。だが……このまま何事もなかったようにお前をこの家にいさせるのはリスクが高い」
その言葉が落ちた瞬間、空気がぴんと張り詰めた。
冷えたというより何かがすっと抜け落ちるような感覚で体の内側がうまく支えられなくなる。
怒りとも不安とも違うざわつきが胸の奥で勝手に動き始めて落ち着かない。
パパは淡々と言葉を続けた。
「だからお前には卒業までの間だけ暮らせる家を用意させた。ここではもう生活させられん」
言われた内容が頭に届くより先に反発の気持ちがじわっと浮かぶ。
どうしてこんなふうに切り捨てられるのか分からない。
「そしてこれからは南條と名乗れ。花園姓を名乗ることは今後一切許されない。そして二度と敷居をまたぐな」
ほんの一瞬で世界の輪郭がぼやけた。
苗字が剥がされる感覚なんて想像したこともなくて言葉の意味が真っ直ぐに入ってこない。
「……え?なにそれ」
何かの間違い……だよね?……うそだよね?
「……仕方ないでしょう。これ以上花園の家名を傷つけるわけにはいかないの。申し訳ないけど、理解してちょうだい」
冷たく突き放されたその言葉が皮膚に直接触れてくるみたいで思わず息が詰まった。
どうしてあたしが厄介みたいに扱われなきゃいけないの。
悪いのはあたしのことを愛してくれないみんなでしょ。あたしは悪くない。
そんな沸々とした怒りが湧いてくる。
「…なんで……あたしは悪いことしてないじゃん!!!何をしたって言うの!!!」
「お前は何を言ってる?自分のしたことがどれほどのことなのか理解してないのか?」
「うるさい!!!あたしはずっとパパとママに愛されたかっただけなのに!!それの何が悪いの!!」
「お前のその軽率な行為のせいでどれだけの損失や人が動いたと思っているんだ!」
未来を切られるような言葉だった。
その無責任な距離に怒りが一瞬だけ強く燃えたのに声にできないまま消えた。
お姉ちゃんは少し顔を伏せていた。
照明の光が髪に落ちて揺れる。
「……瑠奈がこうなるとは思わなかったよ。味方でいたかったのにごめん」
優しいはずなのに、その言葉が今のあたしには届かなかった。
水面に落ちる音みたいに遠くて触れようとしても形が掴めない。
「いいよね、お姉ちゃんは。昔からパパやママに愛されてさ。私の気持ちなんか知らないくせに、味方でいたかったとか軽々しく言わないで」
「そんな言い方しなくても……。私はただあなたの将来を」
「美咲、もういいわ。この子には何を言っても無駄よ」
「……それが見苦しいと言っているんだ。これ以上、美咲を汚すな」
「……あたしが…汚いってこと?」
均等に落ちてくるその音が心の表面を少しずつ削っていった。
パパの言葉はまるで部屋の隅にあるゴミでも指すように淡々としていた。あたしはここではもう家族という形を保つための不純物でしかない。
なんであたしはこの人たちに愛してもらいたいとか思ってたんだろう。ほんとに反吐が出る。
「……もういいよ。わかった。出てけばいいんでしょ」
背を向けた瞬間、リビングの暖かな光が、あたしを追い出すための冷たい拒絶に変わった。
静まり返った廊下に自分の心臓の音だけが嫌に大きく響く。
さっきまで自分のものだったはずの家が一歩踏み出すごとに、知らない誰かの屋敷のように遠ざかっていった。




