第7話 異世界キャバクラ「竜宮城」(後編)
翌朝。竜宮城は静まり返っていた。
蝋燭は消えている。スタッフの三人はフローラの店に戻った。テーブルには布がかかったまま、誰も座っていない。
隆之介はカウンターに座って、帳簿を見ていた。
未払い金の総額、980,000G。手元の現金、310,000G。差し引き、670,000Gの不足。
営業停止中は売上ゼロ。つまり、この670,000Gを手元から——いや、手元にもない金で、どうにかしなければならない。
リーナが薄いスープを持ってきた。
「……フローラさんから連絡は?」
「ありません。昨日からずっと」
隆之介は苦笑した。
成功したら近づく。失敗したら去る。フローラはそういう人間だと、最初からわかっていたはずだ。
「俺が馬鹿だったよ」
「今さらですか」
「今さらだね。キャッシュフローの管理を怠った。経費の私的流用をした。届出を後回しにした。全部、港区時代にベンチャーが潰れるのを見てきたパターンだ。人のことだと分かるのに、自分のことになると見えなくなる」
リーナは何も言わなかった。
「……最悪のパターンは?」
「未払い金を期限内に精算できなければ、商業ギルドのブラックリスト入りです。レンドールで一切の商売ができなくなります」
「期限は?」
「二十日以内」
二十日で670,000G。一日あたり33,500G。営業停止中に、だ。
隆之介は頭を抱えた。
「……やっちまった」
静まり返った竜宮城に、リーナの声だけが響いた。
「ところで。未払い先の卸商の一軒は、バルドさんが昔から世話になってる業者です。バルドさんに事情を話せば、支払い延期の交渉をしてくれるかもしれません」
「……おっちゃんに? あの人にはもう迷惑かけたくない」
「あんたが迷惑をかけたくなくても、バルドさんはたぶん助けますよ。あの人は、恩を忘れる人じゃないですから」
隆之介は黙った。
「それと、冒険者ギルドのドルフ支部長。掲示板の件で恩がある。商業ギルドとの折衝で口添えしてくれるかもしれない」
「……リーナさん、なんで助けてくれるの。もう俺と組んでても得しないでしょ」
リーナは帳簿を閉じて、立ち上がった。
「得とか損とか、そういう話じゃないです」
それだけ言って、出ていった。おそらくバルドのところに交渉しに行ったのだろう。
隆之介は一人、竜宮城のカウンターに残された。
蝋燭のない店内は暗い。あれだけ華やかだった空間が、ただの古い石造りの建物に戻っている。
この景色にも、見覚えがある。
港区で派手に遊んでいた頃。何軒かの店を回して、一時は月商数千万を叩き出して、調子に乗って、最後はいつも、閑散とした店内で一人で酒を飲んでいた。
あの頃と何が違う?
一つだけ違う。
あの頃は、潰れた後に電話をかけてくる人間が一人もいなかった。金がなくなった瞬間に、全員がいなくなった。
だが今は、バルドがいる。リーナがいる。ドルフもいる。
金がなくなっても、消えない人間がいる。
隆之介は、そのことの意味にまだ気づいていなかった。ただ、胸のどこかが少しだけ痛いような、温かいような、よくわからない感覚があった。
港区時代には、一度も感じたことのない感覚だった。
◇ ◇ ◇
三日後。
バルドが卸商との支払い延期を取り付けてくれた。「三十日延長。ただし利子つきだ。まったく、あの兄ちゃんは世話が焼ける」と言いながら。
ドルフが商業ギルドに口添えしてくれた。「あいつは馬鹿だが、悪い奴じゃない。潰すより泳がせた方が街のためになる」と言ったらしい。
リーナが届出書類を全て整えた。酒場から社交サービス業への変更届、派遣労働の届出、営業計画書。全部、自分一人で。
「……リーナさん、これ全部一人で?」
「あんたが寝てる間にやりました。三日徹夜です」
「ごめん——」
「謝らなくていいです。ただし、今月の私の給料は倍です」
「……はい」
営業停止は十五日間で解除された。未払い金は分割での支払いが認められた。
ただし、竜宮城は元のバー形態に戻された。フローラのスタッフはいない。高級ワインもない。あるのは蝋燭と香草の匂いと、磨き上げたカウンターだけ。
振り出しだ。
いや、振り出し以下だ。借金が残っている。
「……さて」
隆之介は竜宮城のカウンターに立った。初日と同じ景色。蝋燭が揺れている。客はいない。
「リーナさん」
「なんですか」
「俺さ。港区にいた頃、店を潰すたびに思ってたんだよ。『次は絶対うまくやる』って。でも毎回同じ失敗する。なんでだと思う?」
「自分を客観的に見られないからじゃないですか」
「……身も蓋もないけど、たぶんそう。だから——」
隆之介はリーナに向き直った。
「これからは数字のことはリーナさんに最終判断を任せる。俺が暴走しそうになったら、帳簿を叩きつけて止めてくれ。それがパートナーの仕事だ」
リーナは五秒ほど黙った。
「……パートナー、ですか」
「嫌?」
「嫌じゃないですけど。——帳簿を叩きつけるのは、物理的にやっていいんですか」
「比喩だよ比喩。……いや、本当にヤバいときは物理的でもいい」
「了解しました。覚悟しておいてください」
リーナの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
たぶん、笑った。たぶん。
◇ ◇ ◇
その夜。竜宮城に最初の客が来た。
バルドだった。
大きな体をカウンターの椅子にねじ込んで、ぶっきらぼうに言った。
「エール一杯」
「……おっちゃん。来てくれたんだ」
「暇だったからな。——それと」
バルドは隆之介の顔を見て、にやりと笑った。
「炙り亭の前を通った客に、ここのことを宣伝しといた。明日から何人か来るぞ」
隆之介は、グラスを磨く手が少し震えた。
金なし。借金あり。信用はまた傷ついた。
だが、人は、残った。
「ありがとう、おっちゃん」
「礼はいらねえ。投資だ」
「……その言い回し、誰に教わったの」
「お前だよ、馬鹿」
二つの太陽が沈んでいく。竜宮城の蝋燭に、再び火が灯る。
港区おぢの異世界キャバクラは、こうして幕を閉じた。
だが、港区おぢの物語は終わらない。
懲りないのだ、この男は。
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