第16話 リーナ、独り立ちする
竜宮城のカウンターは、夕方なのに静かだった。
異世界カジノの撤退から十日が経っていた。フローラの取り分まで肩代わりした結果、月の最終純利益はマイナス三万二千G。隆之介の所持金は、また借金の側に転がり落ちていた。
「……静かだな」
隆之介はカウンターに頬杖をついた。
リーナが奥のテーブルで何かを書いていた。帳簿ではない。もっと、何か別のものだ。
「リーナさん」
「はい」
「何書いてるの?」
「秘密です」
「俺にも秘密?」
「秘密です」
リーナはこちらを見もしなかった。羽ペンの先がさらさらと紙を滑る音だけが響く。
隆之介の肩でパルムが寝ていたが、眠い目を擦り起きたみたいだ。
「リュウ、リーナさん、なんか今日いつもと違うね」
パルムが片目を開けて言った。隆之介は頷いた。
違う。何かが違う。
長年商売をやっていれば、こういう胸騒ぎを無視するのは得策ではないと知っている。港区時代も、レンドールでも、変わらない真理だった。
◇ ◇ ◇
三日後。
隆之介はバルドの炙り亭で朝食を食べていた。最近の朝は炙り肉と黒パン、それに薄いエール一杯がルーティンになっている。
「おい、ちょっといいか」
バルドが厨房の奥から声をかけた。
「嬢ちゃん、最近よく来るぞ。先月の終わり頃から」
「リーナさんが?」
「うちの常連の隠居さんと、肉屋のジャンと、それから、靴屋のおっさん。三人とも俺の常連だ。揃って嬢ちゃんに何か聞いていたぞ」
隆之介はパンをかじる手を止めた。
「何聞いてるの」
「帳簿の付け方だとよ」
「……はい?」
「いつも一緒にいるのに知らねえのか。嬢ちゃん、最近そういうのを請け負い始めたって聞いてたが」
隆之介はパンを飲み込んだ。エールを一口飲んだ。それから、ゆっくりとカウンターに肘をついた。
「……バルドのおっちゃん」
「なんだ」
「俺、リーナさんから何も聞いてないんだけど」
「そうか」
「うん」
「まあ、聞いてねえもんは仕方がねえな」
バルドはいつも通り、料理の手を止めずに言った。だが、微妙に口角が上がっている。隆之介には見えた。
「おっちゃん、笑ってる?」
「笑ってねえよ」
「絶対笑ってるだろ」
「お前の嬢ちゃんが何やってるかぐらい、男は把握しといた方がいいぞ」
「俺の嬢ちゃんじゃないし。そして把握してないからキレてるんだけど」
「キレてる時点でな——」バルドが背中を向けたまま続けた。
「お前の『投資』関係じゃねえ、ってことだ」
隆之介は黙った。
港区時代なら、こういう時に何か気の利いたことを言って場を流していた。だが今日は何も言葉が出てこない。
パルムが肩の上で目を擦った。
「リュウ、なんか『独占』されてたものを取られたみたいで悔しいの?」
「それは違うだろ」
「でも顔が悔しそうだよ」
「悔しくない。普通だよ」
バルドが背中を向けたまま、ぼそりと吹き出した。
「おい。エールおかわりするか?」
「いる」
「だと思った」
朝なのにエール二杯目。
リーナがいたら絶対に止められていただろう。
◇ ◇ ◇
竜宮城に戻ると、リーナはまた机に向かっていた。
今度は隠そうともしない。羊皮紙が三枚、テーブルに広げられていて、それぞれに違う商人の名前と、月別の売上、仕入、利益が几帳面に書き込まれている。
「リーナさん」
「はい」
「ちょっと、聞いてもいい?」
「はい」
「何やってるの」
リーナは羽ペンを置いて、顔を上げた。
「経理代行です」
「経理代行」
「中小商人三人と契約しました。一店舗あたり月3,000G。初月は割引で2,000Gにしたので、まずは月6,000Gの売上です」
隆之介は座った。
「いつから」
「先月の終わりからです。その時にヴェルクさんに契約書を見てもらいました。届出も済んでいます」
「カジノの最中じゃん」
「あんたが射幸心ビジネスで悩んでる横で、私は別の道を考えていました。それだけです」
「俺に黙って——」
「相談したら、あんたはすぐに『十店舗にしよう』『加盟料を取ろう』『フランチャイズ展開だ』って言うでしょう。そういうのは要らないんです」
「言うかな」
「言います。フランチャイズの時のことを思い出してください」
「……あれは事故だった」
「事故じゃありません。あんたの仕様です」
隆之介は天井を見上げた。バルドの炙り亭をフランチャイズ化して大失敗したのは、つい数ヶ月前のことだ。あの時バルドが看板を引き抜いて回った姿は、今でも夢に出る。
「俺、なんでリーナさんに相談されなかったの」
「相談する必要がなかったからです」
「……そっか」
「あんたが悪いんじゃないです。これは私の事業ですから」
リーナはそう言って、また羽ペンを取った。
「で、競合分析はちゃんとやった?」隆之介が口を挟んだ。
「あと、価格設定の根拠は。顧客の生涯価値は計算した?」
「黙ってください」
「生涯価値だけでも——」
「黙っててください」
リーナは隆之介を見もしなかった。
◇ ◇ ◇
その夜、竜宮城のカウンターにゴルドがいた。
いつものように、安いエールを舐めるように飲んでいる。隆之介は隣に座った。
「ゴルドさん」
「なんだ」
「リーナさん、独立したみたいなんだけど」
「ふん」
「俺、口を挟みたい。挟んでいい?」
ゴルドは杯から目を離さずに言った。
「やめとけ」
「でも俺の方がビジネスの経験は——」
「リュウ。お前、俺がなんで引退したか、覚えてるか」
隆之介は黙った。
ゴルドの過去。以前聞いた話だ。大陸一の商人と呼ばれたゴルドは、市場を独占した結果として、小さな商人たちが自分で考える力を奪っていたと気づき、自ら帝国を解体した。
ゴルドが言った。「育てたつもりが、潰してた。教えたつもりが、口を挟みすぎてた。あいつらは俺の言うことを聞くのが正解だと思い込んで、自分で考えるのをやめた」
「……」
「お前、リーナに同じことするのか」
「しない」
「即答だな」
「即答するよ。あの人を潰したくない」
ゴルドは初めて、隆之介を見た。短い視線。だがそれは、いつもの飄々とした酔っぱらいの視線ではなかった。
「……お前、少しは商人らしくなったな」
「ゴルドさん、それ褒めてる?」
「半分だ。残り半分は、まだまだ口が軽い」
「半分でも俺には十分です」
ゴルドは杯を干した。
「事業には口を出すな。ただし、頼まれたら全力で答えろ。それが手放すってことだ」
「……覚えておきます」
「覚えておけ。育てるってのはな、握りしめてる手を、開いてやることだ」
ゴルドはそれだけ言って、いつもより早く店を出ていった。
残された隆之介は、しばらく動けなかった。
◇ ◇ ◇
それから二週間。
リーナの事業は、隆之介の予想を上回るペースで成長していた。
中小商人三人から、五人。五人から、七人。ギルド改革のときに隆之介が庇った商人たちが、口コミでリーナを紹介していた。隆之介の蒔いた種が、リーナの畑で芽を出していた。
リーナはとうとう、竜宮城の隅に小さな机を増設した。「ヴァイス経理事務所」と書かれた木の看板を、リーナ自身の手で掛けた。
ヴァイス。リーナ・ヴァイス。それが彼女の苗字だった。隆之介は今になって初めて知った。
「リーナさんって、ヴァイスっていうの」
「言ってませんでしたっけ?」
「言ってない。一年以上一緒にいて、初めて聞いた」
「あんたが聞かなかったからです」
隆之介は看板を見上げた。シンプルな木の板。文字はリーナの几帳面な筆跡で、墨の濃淡まで均一だ。
「……綺麗な看板だね」
「ありがとうございます」
「俺の竜宮城の看板より綺麗じゃない?」
「比較対象が間違ってます」
「うん、それは認める」
カウンターの向こうで、リーナが新しい契約書を一枚、棚にしまった。
隆之介は気づいた。リーナがもう、自分の方を見ていない。指示を待っていない。判断を仰がない。
胸のどこかが、ちくりと痛んだ。
港区時代に何度か感じた痛みに、少しだけ似ている。だがあれは、部下が独立して客を持っていった時の痛みだった。今の痛みとは、違うものだ。
もっと、温度が高い。
「リュウ」
肩のパルムが言った。
「リーナさん、嬉しそうだよ」
「だね」
「リュウは?」
「俺は——」
隆之介は深呼吸した。
「べ、別に寂しくないし。投資が回収されただけだし」
「うわー。それ完全に寂しがってる人の言い方だよね」
「うるさい。でも、バルドのおっちゃんもこんな感じだったのかもな」
炙り亭ができた日。バルドが屋台から店を持って、隆之介の手を離れた時。あの時バルドは、少し寂しそうな顔で隆之介を見送っていた。
そして今、隆之介は今、同じ顔をしている。
「そうか。俺、卒業される側になったわけか」
呟いた声が、自分でも驚くほど小さかった。
◇ ◇ ◇
二つの太陽が沈んだ後の星だけの夜空。眼下にレンドールの街が広がっている。バルドの炙り亭からは、夜営業の煙が細く立ち上っていた。
炙り亭は、隆之介が手を引いてからもう一年以上が経つ。それでも、毎晩あの煙は上がる。バルドは新メニューを考え、看板を磨き、不器用な字で「本日のおすすめ」を書く。
隆之介がいなくても、回っている。
今度はリーナだ。ヴァイス経理事務所の看板が、竜宮城の隅にひっそりと掛かっている。月6,000Gの売上は、すぐに18,000Gになり、来月にはもっと増えるだろう。隆之介の助けは要らない。
隆之介がいなくても、回っている。
「……いいことなんだよな、これは」
声に出してみた。風に吹き散らされた。
いいことだ。間違いなくいいことだ。バルドが独り立ちした時も、そう思った。今回もそう思っている。
なのに、寂しいのはなんなんだ。
「リュウ」
肩のパルムが、小声で言った。
「リーナさんが独り立ちするの、嫌だった?」
「……いや」
「ホント?」
「ホント。嬉しい。たぶん、すごく嬉しい」
「じゃあ、なんで寂しいの」
「嬉しいのと寂しいのが、両方あるんだよ。人間って、面倒な生き物だよな」
「……難しい。よくわかんないや」
「難しいよ」
パルムは肩の上で小首を傾げて、それから、隆之介の首筋にぴたりと頬を寄せた。手のひらサイズの体温が、ほんの少しだけ伝わってくる。
「リュウ。ボクは、まだリュウのとこにいるよ」
隆之介は、一瞬だけ動きを止めた。
「……そうだな」
「ボクは独り立ちしないからね。鑑定眼の精霊だから、リュウから離れたら消えちゃうし。だから、リュウが寂しくても、ボクはずっといるよ」
隆之介は星空を見上げた。瞬きを、二回した。
「パルム」
「なに?」
「お前さ。たまに本当にいいこと言うな」
「えへへ。いま魔力が少なくて、計算もちょっと間違えるかも」
「……お前、本当にすぐ台無しにするな」
「うん。これがボクだから」
パルムが小さく笑った。鈴のような音だった。
隆之介は深呼吸した。冷たい夜の空気が、肺の奥まで届いた。
卒業される側になった。それは事実だ。バルドに、リーナに、隆之介の手は要らなくなった。二人とも、自分の足で立っている。
だが、隆之介の傍にもまだいる。
パルム。計算をよく間違える、無邪気な相棒。たぶんこの先も、ずっと一緒にいる。
卒業される側にも、卒業されない関係はある。
「パルム」
「なに?」
「明日からも、よろしくな」
「うん。よろしく!」
星が、レンドールの夜を照らしていた。
◇ ◇ ◇
翌朝、竜宮城に客が訪れた。
ヴェルクだった。書類を抱えていた。
「金城殿」
「ヴェルクさん。朝からどうしました」
「相談だ。商業ギルドの内部改革は、今回も否決された。これはお前も知っての通りだ」
「ええ」
「だが、別の形で街を動かすことはできるかもしれん」
ヴェルクが机の上に書類を一枚置いた。
「レンドール商業祭。全ての商人が参加できる、街を挙げての一大イベントだ。他都市からも客を呼ぶ。秩序を壊さずに、組織を中から変える。考えてみないか?」
隆之介は書類を見た。それから、リーナの方を見た。
リーナは羽ペンを止めて、こちらを見ていた。隣のヴァイス経理事務所の看板の前で、腕を組んで。
「あんたの『大規模化したくなる病』、また発症しますか」
「……たぶん」
「だと思いました。ちなみに、今あんた赤字三万二千Gですからね」
「知ってるよ」
「知ってて受けるなら、止めません」
リーナは小さくため息をついた。だが、その口元はわずかに上がっていた。
弟子ではない。部下でもない。同じ方向を向いて立つ、対等な誰か。
隆之介はヴェルクに向き直った。
「ヴェルクさん。詳しく聞かせてください」
「金城殿。今回ばかりは秩序を破るなよ」
「善処します」
「善処じゃなくて——」
「確約します」
ヴェルクの口元が、ほんの少しだけ動いた。笑ったのかもしれない。たぶん気のせいだが。
港区おぢの次の戦場は、街のお祭り。
リーナのヴァイス経理事務所の看板に、朝の光が当たっていた。




