第15話 異世界カジノ(後編)
「全部だ!俺の全財産を賭ける!」
ハンスは、屋敷の証文をルーレットの卓に叩きつけた。
卓を囲んでいた他の客が、息を呑んで身を引いた。
パルムが隆之介の肩で身を小さくした。
「リュウ……あの人、色がもう、真っ黒だよ」
「……」
隆之介は卓に近づいた。胴元の立場で、客の判断に立ち入ることは普通しない。だが、これは普通の額じゃない。
「ハンスさん。一旦、休憩しませんか。冷たい水でも——」
「邪魔するな!」
ハンスの目は血走っていた。
選挙のとき。この男は隆之介を裏切って、評議員になった。ベルガー商会に取り込まれた。あのときの恨みが、ふっと胸をよぎった。
だがそれよりも、別のことを思った。
この卓を作ったのは、俺だ。
「球を入れろ! 俺は赤に賭ける!」
隆之介は、ディーラーに目で合図した。
止めるべきだった。胴元として、客の暴走を止めることはできた。「賭け金の上限を超えています」と一言、言うだけでよかった。
言わなかった。
ディーラーが球を投げ入れた。
円盤が回る。球が縁を駆ける。減速していく。色が混ざる。赤、黒、赤、黒——
球が、緑のマスに入った。
ゼロ。
胴元の取り分だ。ハンスは負けた。
ハンスのすべて。屋敷も、家族も、何もかも失った。
「うわあああああ!」
ハンスの叫び声が、部屋に響いた。
◇ ◇ ◇
三日後。
炙り亭の二階の事務所で、隆之介はリーナと帳簿を見ていた。ハンスから巻き上げた金額、屋敷の評価額を含めて、約280,000G。賭け部屋全体の累計利益は、それを上回っていた。
手元には、これまでにない大金があった。
「リュウさん。今月の賭け部屋の収益、確定しました」
「……ああ」
「フローラさんの取り分を引いても、こちらの手取りは六桁の半ばです」
「……」
いつものリーナなら、ここで皮肉の一つも言うところだ。
今日は、何も言わなかった。リーナの目は、帳簿の数字を追っているふりをしていた。
階下で、扉を叩く音がした。
「ごめんください。リュウノスケ様はおられますか」
女の声だった。震えていた。
隆之介は階段を降りた。
扉の前に、女と少年が立っていた。三十代後半の女性。質素だが、丁寧に手入れされたドレス。隣にしがみついているのは、十歳くらいの少年だった。
「ハンス・ブレンナーの妻でございます」
女性は、そう言った。
隆之介は、息を吐くのを忘れた。
「夫が、こちらの賭け事で全財産を失ったと聞きました」
「……」
「お願いです。屋敷を、取り上げないでください。私たちには、他に行くところがありません」
ハンスの妻は、深々と頭を下げた。
少年も、母親に倣って頭を下げた。
「お願いします。父を、返してください」
少年の声は、震えていた。
隆之介は、何も言えなかった。
ハンスの妻と、子。隆之介はその存在を、知らなかった。ハンスは選挙のとき、家族の話を一切しなかった。独身の遊び人として振る舞い、評議員になってからもそのイメージを通していた。だが家には、ずっと妻と子がいた。
パルムが、肩で小さく泣いた。
「リュウ……この子、お腹空いてる色が出てる。何日も、ちゃんと食べてないよ」
隆之介は膝を曲げて、少年の目を見た。
「……君、名前は?」
「……ヨハン、です」
「ヨハン君。お母さんと一緒に、二階で待ってて。話を聞かせてほしいんだ。それと、下の店から、なんか持ってこさせる。腹減ってるだろ」
ヨハンは母親を見上げた。母親が、無言で頷いた。
◇ ◇ ◇
話を聞いた。
ハンスは評議員になってから、生活が変わった。ベルガー商会が「接待」と称して、上層区の遊びに連れ回した。最初は社交だと言っていた。やがて毎晩、家を空けるようになった。給金はほとんど残らなかった。
半年前から、賭け事に手を出した。
屋敷の家具が、一つ、また一つと消えた。妻が問い詰めると、ハンスは怒鳴った。「お前は何も知らない、これは仕事の付き合いだ」と。
そして昨夜、屋敷ごと失ったと聞かされた。
「旦那さんは、いま、どこに」
「酒場で、酔いつぶれているそうです。家には、ほとんど帰ってきません」
「……」
ハンスの妻は、静かに泣いた。子供の前で泣くまいとして、声を殺して。
「リュウノスケ様。ハンスは選挙のとき、あなたを裏切ったと聞いています」
「……知ってたんだ」
「夫が、酔って一度だけ話したことがあるのです。『あの男を踏み台にした』と」
隆之介の心に、何かが冷えていった。
ハンスは知っていた。妻も知っていた。それでも、この人は今、隆之介の前で頭を下げている。
恨みは、ある。当然ある。だがそれは、別の話だ。
隆之介はリーナの方を見た。
リーナが、初めて口を開いた。
「リュウさん。屋敷の証文、まだうちで保管しています。賭け部屋の収益も、全部」
「……うん」
「どうしますか」
隆之介は、しばらく天井を見つめていた。
二階の窓から、二つの太陽の光が斜めに差し込んでいた。
「お母さん」
ハンスの妻が、顔を上げた。
「悪かった。お父さんを、こんな状態にしたのは、俺の店だ。屋敷は返します。書類はうちで整える」
「……え?」
ハンスの妻が、目を見開いた。
「全部、返します。利息も取りません。お父さんが負けた他の分も、こっちで持ちます」
「そんな——」
「ただし、一つだけ条件がある。お父さんに会わせてください。一度だけ、話したい」
ハンスの妻は、涙を流したまま、頷いた。
◇ ◇ ◇
その夜。
隆之介は、ゴルドの宿を訪ねた。
ゴルドは古い椅子に座って、エールを舐めていた。
「来ると思ってたぞ」
「……」
「座れ。話を聞いてやる」
隆之介は、向かいに座った。
「ゴルドさん。賭け部屋、閉めます」
「ふん」
「利益は全部、被害者に返します。ハンスの屋敷だけじゃない。連日来てた依存傾向の客、いま五人いる。全員に、負けた金を返します」
「……お前の取り分は」
「ゼロ。借金にならない範囲で、全部返します」
ゴルドは、エールを一口飲んだ。
「お前、馬鹿だな」
「……はい」
「ビジネスとしては、続けるのが正解だ。客は自分の意思で来てる。ヴェルクの規定にも違反してない。誰にも責められない」
「わかってます」
「だが、お前は閉める」
「閉めます」
「なぜだ」
隆之介は、グラスの中の琥珀色の液体を見つめた。
「……儲かるビジネスと、やっていいビジネスは、違うから」
ゴルドの目が、わずかに光った。
「言うようになったな」
「ゴルドさんが、いつか酒場で言った言葉です。『お前はまだ、自分の商売が誰かを踏み潰す側面を見ていない』。あれから、ずっと考えてました」
「で? 答えは出たか」
「出ました。踏み潰されてる人を、見ました。妻と、子供。妻は俺を恨んでいい立場なのに、頭を下げて『夫を返してください』と言った。あの瞬間に、決めました」
隆之介は、息を吐いた。
「俺の故郷では、こういう商売が大規模にある。世界中の都市で、何千人何万人が、毎日金を吸い取られてる。誰もが知ってる場所だ。違法じゃない。でも、その仕組みを作って金を稼いでる連中の中で、夜よく眠れてる人間は、そう多くないと、俺は思う」
「お前、夜眠れなかったか」
「……三日、眠れませんでした」
ゴルドが、ふっと笑った。
そしてエールを注いだ。隆之介のグラスに、新しい一杯を。
「お前の答えは、出たようだな」
「……はい」
「とりあえず飲め。今夜は、お前の奢りじゃない。俺の奢りだ」
◇ ◇ ◇
翌日。
隆之介はフローラの社交クラブを訪ねた。
賭け部屋の閉鎖を伝えた。利益の全額を被害者に返すこと。フローラの取り分の三割も、隆之介が肩代わりして自腹で出すこと。
フローラは、しばらく無言だった。
ワインを、二杯ぶん、ゆっくり飲んだ。
「リュウノスケ」
「はい」
「あなただけ、損してるわよ。これ」
「わかってます」
「私は損してないわよ。三割はあなたが払うんでしょう? なら、私は痛くも痒くもない」
「そういうつもりです」
「……」
フローラが、グラスを置いた。
彼女が、初めて隆之介の顔をまっすぐ見た。
成功時に近づき、失敗時に去る。三百歳のエルフが、これまで一度も隆之介に向けたことのない種類の目だった。
「あなた、少し大人になったわね」
「……」
「私が言うんだから、間違いないわ」
フローラの目に、ほんの一瞬、何かの感情がよぎった。たぶん、評価という名の感情。あるいは、それ以外の何か。隆之介には判別できなかった。
「賭け部屋、惜しいけど閉めましょう。私の社交クラブも、それなりに損するけど、まあ今回はいいわ。あなたとビジネスをすると、いつも何か新しいものを見せられる。今回も、見せてもらったわ」
「……ありがとうございます」
「でも、リュウノスケ」
フローラの優雅な微笑みが、戻ってきた。
「次は、私が損しないビジネスを持ってきなさいね。じゃないと、本当に縁を切るわよ」
「……肝に銘じます」
◇ ◇ ◇
その夜。
隆之介は炙り亭のカウンターで、エールを飲んでいた。
パルムが肩の上で、いつものサイズに戻っていた。
「リュウ。あの賭け部屋に通ってた人たち、みんな『色』が薄くなったよ。灰色の靄、消えてきてる」
「そうか」
声に出して答えた。
リーナが帳簿を閉じた。
「リュウさん。今月の収支、確定しました。最終純利益、マイナス32,000G」
「……結局マイナスかよ」
「フローラさんの取り分を肩代わりした分です」
「うん。仕方ない」
「仕方なくないですよ。ただ——」
リーナが、初めて隆之介の目を見て言った。
「今月の決算は、私の知る限り、最も誇らしい赤字です」
「……お、リーナさんが褒めてくれた」
「褒めてません。事実を述べただけです」
「それを褒めてるって言うんだって」
「言いません」
ため息。いつもの。
ただ、いつもより、ほんの少しだけ、長かった。
それと、隆之介が気づかないところで、口元が少しだけ緩んでいた。たぶん。
「あ、それと、ヴェルクさんから、賭け部屋閉鎖の届に対して、返事が来てました」
「なんて?」
「『見事だ』と、一言だけ」
「……あの堅物、そういう言い方するんだ」
「あの人なりの、最大級の賛辞だと思いますよ」
隆之介は、エールを一口飲んだ。
港区にいた頃、何度も儲かるビジネスを潰したことがある。理由は色々だった。飽きた、面倒になった、別の儲け話に乗り換えたなど。
だが今回は、違った。
今回は、自分から、儲かっているビジネスを閉じた。理由は一つ。このままやっていいビジネスじゃなかったから。
港区時代の自分には、絶対にできなかったことだ。
たぶん。
……ほんとに、たぶん。
二つの太陽が、地平線に沈んでいく。
港区おぢの異世界カジノは、こうして幕を閉じた。
儲かるビジネスと、やっていいビジネスは、違う。
知っていたつもりで、知らなかった言葉。
異世界に来て、ようやく身体で覚えた言葉だった。




