第6話 ゴルドの過去 大陸一の商人が消えた日
先物取引の暴落から五日が経っていた。
隆之介は炙り亭のカウンターで、三杯目のエールを空にした。昼間から飲んでいる。リーナが隣で帳簿をつけながら冷たい目を向けているが、今日は何も言わない。
バルドが黙って四杯目を置いた。
「おっちゃん。俺、頼んでないけど」
「顔を見りゃわかる。飲め。話はそれからだ」
パルムが肩の上に座っている。しかし、元気がないのか、まだ小さいままだった。普段の三分の二くらい。光も弱い。
「リュウ……大丈夫? ボク、何かできることある?」
隆之介は声に出さず、首を横に振った。パルムが小さな手で襟を握りしめた。その仕草が見えるのは隆之介だけだ。
炙り亭の扉が開いた。
花の香りがした。
フローラ・エーデルシュタインが、午後の日差しの中に立っていた。三百年を生きたエルフの美貌は、薄暗い酒場には眩しすぎた。
「あら。久しぶり。生きてたのね」
「……フローラさん。久しぶり」
「儲かってないときのあなたに用はないの。今日は様子を見に来ただけよ」
カウンターの端に座り、バルドに目で合図した。ワインが出てくる。彼女専用の上等な一本だ。
「先物の件は聞いたわ。あなたが作った仕組みで、街の商人が何人か潰れたそうね」
「……はい」
「ふふ。反省してる顔。珍しい」
フローラはワインを一口含んで、隆之介をまっすぐ見た。三百年分の目だ。
「ねえ、リュウノスケ。あなた、この街に来てからずっと『儲ける仕組み』を作ってきたでしょう。フランチャイズ、先行予約、先物。全部、お金を動かす仕組み。でもね——」
フローラが立ち上がった。ワインは半分残っている。
「お金を動かす仕組みは、人も動かすの。人が動けば、傷つく人も出る。あなた、それに初めて気づいた顔をしてるわ。遅すぎるくらいだけど、気づかないよりはましかしら」
扉に向かいながら、フローラは振り返った。
「今度儲かったら呼んでちょうだい。お祝いの席なら喜んで付き合うわ」
花の香りが消えた。フローラらしい退場だった。成功の匂いがしない場所には一秒も長くいない。
パルムが肩の上で、目を丸くしていた。
「リュウ……あのお姉さん、すっごく綺麗だけど、すっごく怖い……」
隆之介は声に出さず苦笑した。同感だ。
◇ ◇ ◇
夕方になって、ゴルドが来た。いつもの席。いつものエール。だが今日は、一杯目を飲み干した後に、こう言った。
「リュウ。今日は話がある」
「……話?」
「お前が聞きたがっていた話だ。俺がなぜ商人を引退したか」
隆之介は顔を上げた。出会った頃から聞きたかった問い。ゴルドは「また今度な」で切ってきた。その「今度」が、まさかの今日だった。
「なんで今日なんですか」
「お前が今日、ようやく聞ける顔になったからだ。さっきのエルフの嬢ちゃんも同じことを言っとっただろう。気づいた顔になった、と」
◇ ◇ ◇
ゴルドが二杯目のエールを注文した。リーナは帳簿を閉じて、静かに聞く体勢になった。
「三十年前。俺はヴァルディア大陸の東西交易路を一人で切り開いた。東の港町ノルデンから、西の鉱山都市カルドまで。馬車で片道二十日の距離を、中継拠点を五つ作って十二日に縮めた」
「十二日。それはすごい」
「そうだろう。俺の商隊だけが通れる道を整備した。護衛も俺が雇った。中継地点に宿場と倉庫を建てた。全部俺の金で、俺の名前で。ヴァルディア大陸で東西の物を運べるのは、俺の商隊だけだった」
「独占だ」
「そう。完全なる独占だ。そして独占は、最初は、みんなに喜ばれた」
パルムがぴくりと反応した。「最初は」という言葉の不穏さを、小さな精霊は敏感に感じ取ったようだ。
「東の魚が西で食えるようになった。西の鉱石が東に流れて、鍛冶屋が潤った。英雄扱いだったよ。問題は、その後だ」
ゴルドの目が、少しだけ遠くなった。
「俺の交易路が唯一のルートだから、運賃は俺が決める。最初は良心的だった。だが利益が出始めると欲が出る。運賃を少しずつ上げた。俺以外に選択肢がないから、商人は払うしかない。五年で運賃は三倍になった」
「それでも使わざるを得ない」
「そうだ。運賃が上がると、小さい商人から脱落していく。大量の荷物を運べる大商人は吸収できるが、小口の商人には致命的だ。十年で、東西交易に関わる小規模商人の半数が廃業した」
パルムが小さな声で言った。「リュウ……それ、先物のときと同じだ……」
隆之介は声に出さず頷いた。自分が作った仕組みで小さな商人が潰れた。それは五日前に見た光景と、三十年前のゴルドの話が重なる。
「それだけじゃない。俺の中継拠点がある五つの街は栄えた。だが、交易路から外れた街は衰退した。人が流れ、金が流れ、気づけば大陸の富が交易路沿いに集中して、それ以外の場所が枯れていった」
「気づいたのは?」
「二十年目だ。交易路から外れた小さな村を通りかかった。半分以上が空き家だった。村の長老が言ったよ。『グランハイムの道ができてから、商人が来なくなった。あんたの道が便利になるほど、うちは寂れた』」
バルドが皿を拭く音だけが響いた。
「俺は、その村を潰したんだ。俺の道で」
◇ ◇ ◇
「それで帝国を解体した」
「すぐにじゃない。運賃を下げてみたり、支線を引いてみたり、色々試した。だが根本的な問題は変わらなかった。俺一人が全部握っていること自体が問題なんだ。独占者の善意は、独占の問題を解決しない。構造を変えなきゃ意味がない」
隆之介は息を呑んだ。港区時代のプラットフォーム規制議論と同じ構図だ。
「だから解体した。交易路を五つの区間に分けて、五つの街に管理権を渡した。中継拠点は地元の商人組合に譲渡した。俺は全部手放した」
「三十年かけて築いたものを、全部?」
「全部だ。金は残った。だが名前は消えた。『大陸一の商人ゴルド・グランハイム』は、その日に死んだ」
パルムの目に涙が浮かんでいた。小さな雫が、小さな頬を伝う。隆之介にしか見えない涙だ。
「リュウ……ゴルドさん、すごく寂しそう……」
隆之介はそっとパルムの頭に指先を当てた。テーブルの下で、誰にも見えないように。
「ゴルドさん。後悔してるんですか」
「解体したことは後悔しとらん。もっと早く気づけなかったことを後悔しとる。二十年も独占を続けた。その間に潰れた商人、枯れた村、出ていった若者。取り返しがつかんものが多すぎる」
◇ ◇ ◇
四杯目のエール。ゴルドは完全に酔っていたが、目だけは澄んでいた。
「リュウ。お前に話したのは、説教のためじゃない。お前はこの一ヶ月で、仕組みを作る商売を三つもやった。仕組みは作った瞬間にお前の手を離れる。良い方にも悪い方にも、お前の想像を超えて動く」
「……先物で、思い知りました」
「ああ。お前はもう見ただろう。自分の商売が誰かを踏み潰す瞬間を。俺は二十年かかった。お前は半年で気づいた。それは、たぶん、才能だ」
隆之介は何も言えなかった。
しばらくして、エールを一口飲んで、ぽつりと言った。
「……ゴルドさん。俺にも似たようなことがあるんですよ。商売の話じゃなくて。昔、大事にすべき人を、蔑ろにした。仕事が忙しくて、金があって、自分は正しいと思ってた。気づいたときにはもう遅かった」
ゴルドは追及しなかった。ただ、エールを飲んだ。
「……まあ、そういうことは誰にでもある」
二人は黙って飲んだ。バルドが追加のつまみを出した。何も言わずに。
ゴルドが立ち上がった。足元がふらついている。
「リュウ。覚えておけ。成功の反対は失敗じゃない。成功の反対は成功に気づかないことだ」
「……どういう意味ですか」
「今に分かる」
片手を上げて、夜の大通りに消えていった。
◇ ◇ ◇
リーナが帳簿を開き直した。
「リュウさん。所持金の報告です。あんたが昼から飲んだエール四杯で800G、ゴルドさんのエール四杯が800G、フローラさんのワインが1,500G。バルドさんのつまみ代が300G。差し引いて38,600Gです」
「フローラさんの分も俺持ちなの?」
「あの人、自分で払ったことあります?」
「……ないな」
「ないですね。次、何をやるんですか」
「次は……もう少し考える。今回は走り出す前に」
「あんたが『考える』って言ったの、初めてかもしれませんね」
「俺だって成長するんだよ」
「本当ですか?」
「七割くらいは」
「残りの三割が怖いです」
パルムが元気を取り戻したように、ぴょんと飛び跳ねた。
「リュウ! ボク、さっきゴルドさんの話聞いてて思ったんだけど、独占がダメなら、逆にみんなで一緒に運ぶ仕組みを作ればいいんじゃない? 一人で道を握るんじゃなくて、みんなで荷物を出し合って——」
隆之介は目を瞬いた。ひっそりと答えた。
「パルム。それ、混載便って言うんだよ」
「え、もう名前あるの!?」
隆之介の口元がわずかに緩んだ。パルムのおかげで、少しだけ前を向けた気がした。
リーナが怪訝な顔で隆之介を見ている。
「……また虚空に向かって笑ってます」
「笑ってない。考えてるんだよ」
「虚空を見ながら?」
「虚空に見えるだけ。ちゃんと相談相手がいるんだって」
「はいはい」
二つの太陽が沈んでいく。炙り亭のカウンターに、いつもの夕暮れが差し込む。
ゴルドが三十年前に手放したもの。隆之介が港区時代に蔑ろにしたもの。二人の商人は、失くしたものの形が違う。だが、「気づくのが遅すぎた」という痛みだけは、同じだった。
そして、フローラが言った言葉が、まだ耳に残っている。
「お金を動かす仕組みは、人も動かすの」
次に作る仕組みは、人を潰す仕組みではなく、人を守る仕組みにしたい。
そんなことを考えている時点で、港区時代の金城隆之介は、もういない。この異世界に来てから少しずつ変わっていることに本人だけがそれに気づいていない。




