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異世界転生港区おぢ ── 金なし、地位なし、戦闘力ゼロ。武器は口だけ。──  作者: 八乙女モモ
第2章

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第5話 魔獣素材の先物取引(後編)

 朝、中央広場に行くと、相場板が赤く染まっていた。


 レンドール商業区の中央広場に設置された大きな木の板——素材取引の契約価格が毎朝更新される掲示板だ。昨日まで黒い墨で書かれていた数字の横に、赤い墨で修正値が並んでいる。


 全部、下向きの矢印だった。


 ゴブリンの皮。契約価格1,400G → 900G。

 オークの牙。契約価格3,800G → 2,100G。

 森狼の毛皮。契約価格4,200G → 2,400G。


 隆之介りゅうのすけが広場に着いたとき、すでに人だかりができていた。


「嘘だろ……四千二百が二千四百? 一晩で四割飛んだのか」


「俺、先週3,500Gで買い契約を結んだばかりだぞ。これじゃ——」


「差額、千百Gの損だ。十枚分で一万一千G。一万一千Gだぞ!」


 怒号と悲鳴が入り混じる。


 パルムが隆之介の肩の上で震えていた。


「リュウ……数字が、全部真っ赤だよ。ボク、怖い……」


 隆之介は声に出さず、パルムの頭に指先を当てた。大丈夫。大丈夫だから。


 だが大丈夫ではなかった。


◇ ◇ ◇


 価格暴落の原因は単純だった。


 北方のダンジョンで大規模な魔獣駆除作戦が行われ、素材が一気に市場に流れ込んだのだ。供給が急増し、実勢価格が暴落。それに連動して、実態を離れて高騰していた契約価格が一斉に修正された。


 本来のヘッジ目的で契約していた冒険者や加工業者への影響は軽微だった。彼らは最初から「950Gで固定」のような現実的な価格で契約している。多少の損得はあっても、生活が破綻するほどではない。


 問題は、投機筋だった。


 実態を無視して高値で買い契約を結んでいた投機家たちが、一斉に損失を抱えた。穀物商人が魔獣素材の契約で50,000Gの損を出した。革細工師が本業の資金まで投機に回していて、仕入れ資金がなくなった。


 そして。


 広場の片隅で、一人の小さな商人が膝から崩れ落ちるのを、隆之介は見た。


 六十歳くらいの老人だった。薬草を扱う小さな店の主人。隆之介も炙りあぶりていの仕入れで何度か顔を合わせたことがある。


「……店、畳まなきゃならん。息子に残してやるつもりだったのに……」


 隣にいた若い男。おそらく息子が老人の肩を抱えた。


「親父、大丈夫だ。なんとかなる」


「なんともならんよ。全部突っ込んだんだ。魔獣素材の契約に。値上がりするって、みんな言ってたから……」


 隆之介の足が動かなかった。


 あの老人が投機に手を出した理由は何だ。「みんな言ってたから」。みんなが言っていたのは、隆之介が作った仕組みが成功して、契約価格がどんどん上がっていたからだ。


 火種を作ったのは、自分だ。


◇ ◇ ◇


 午後。炙り亭に戻ると、バルドがカウンターを拭いていた。


「おう。朝から顔色が悪いな」


「……バルドのおっちゃん。先物の件で——」


「知ってる。朝から常連が何人か来て騒いでた。お前が作った仕組みで損した奴がいるってな」


 バルドは手を止めずに言った。


「飯、食え。話はそれからだ」


 炙り香草ステーキが出てきた。いつも通りの、黄金色の肉。隆之介は一口も食べられなかった。


 リーナが帳簿を広げた。


「被害の全体像をまとめました。投機筋の損失総額は推定で300,000G。うち、本来の商売資金まで投機に回していた人が十二人。そのうち三人が廃業の可能性ありです」


「三人……」


「あんたが直接損害を与えたわけじゃありません。投機に手を出したのは彼ら自身の判断です。でも——」


「でも、仕組みを作ったのは俺だ」


 リーナは黙った。否定しなかった。


 そのとき、炙り亭の扉が開いた。


 四十代くらいの男が入ってきた。革のエプロンをつけた職人。この人は東区の武器加工職人だ。


「お前が金城か」


「……はい」


「俺の工房の仕入れ資金、全部吹っ飛んだぞ。お前の仕組みに乗っかったせいでな」


「それは投機として使ったんですか? 本来はヘッジのための——」


「ヘッジだの投機だの知るか! お前が『秋には上がる、今のうちに契約しとけ』って掲示板に書いてただろうが!」


 隆之介は反論しようとした。掲示板には投機を推奨する文言は一切書いていない。ヘッジ目的の契約であることは明記してあった。


 だが、言えなかった。


 仕組みを作った人間が「使い方が悪い」と言うのは、あまりにも無責任だ。港区時代ならそう言い逃れたかもしれない。でも——。


「……すみません」


 頭を下げた。


 職人は舌打ちをして出ていった。


 バルドが厨房から低い声で言った。


「食え。ステーキが冷める」


◇ ◇ ◇


 夜。ゴルドが炙り亭に来た。


 いつもの席。いつものエール。だが、いつもの飄々とした空気ではなかった。


「ゴルドさん。言ってください。『だから言っただろう』って」


「言わん」


「……なんで」


「言ったところで、潰れた店は戻らん。それに、お前はもう分かっとるだろう」


 隆之介は拳を握った。


「俺は悪くない……はずなんだ。仕組み自体は合理的だった。ヘッジとして正しかった。投機に使ったのは彼ら自身の判断だ。でも、なんでこんな気分なんだ。俺が悪いとは思えないのに、俺のせいじゃないとも言えない」


 ゴルドが静かに言った。


「それでいい」


「え?」


「その気持ちを覚えておけ。『俺は悪くないのに、俺のせいだ』。それが、デカい商売をやる人間が背負うものだ」


 ゴルドはエールを飲んだ。


「小さい商売なら、失敗しても自分が損するだけで済む。だが、お前の仕組みはもう、自分だけの話じゃなくなっとる。何百人が乗っかって、何十人が人生を賭けた。そうなると、仕組みを作った人間には、作った責任がついて回る。法律上の責任じゃない。もっと厄介な、道義の話だ」


「道義……」


「お前の故郷の言葉で言えば、なんだ。社会的責任か。お前はまだ、自分の商売が誰かを踏み潰す側面を見ていなかった。今日、初めて見ただろう。それは、お前が次のステージに進んだということだ。喜べとは言わんがな」


 隆之介は何も言えなかった。


 パルムが肩の上で、小さく小さく縮んでいた。普段の半分くらいの大きさ。光も弱い。


◇ ◇ ◇


 翌日。


 隆之介は商業ギルドに向かった。ヴェルクが待っていた。


「金城殿。素材予約契約の件、報告を受けている。投機的利用による被害について、ギルドとして対応を検討する」


「……処分は」


「貴殿への処分はない。規定に違反した事実は確認されていない。取引記録も報告されている。問題は、投機的利用を防ぐ仕組みが規定になかったことだ。これは制度の不備であり、貴殿の責任ではない」


 ヴェルクの言葉は冷静だった。だが、最後に一言だけ付け加えた。


「ただし、金城殿。法の責任がないことと、道義の責任がないことは、別だ。それは貴殿自身が一番分かっているだろう」


 ゴルドと同じことを言われた。隆之介は頷くしかなかった。


◇ ◇ ◇


 一週間後。


 市場は落ち着きを取り戻しつつあった。素材の実勢価格は暴落前の水準に近づき、投機筋は市場から姿を消した。


 残ったのは、本来のヘッジ目的で契約していた冒険者と加工業者だけだ。彼らの契約は正常に機能している。仕組みそのものは壊れていなかった。使い方が暴走しただけだ。


 だが、暴落の記憶は残った。


 意外なことに、その記憶が新しい動きを生んだ。


 損をした商人や冒険者の中から、「次は仕組みで守る側に回りたい」という声が上がり始めたのだ。


「金城さん——いや、リュウさん。あんたの契約で損したのは俺の判断ミスだ。それは認める。だが、もし『損を分担する仕組み』があったら、俺は店を畳まずに済んだかもしれない」


 そう言ったのは、廃業寸前だった薬草屋の息子だった。


「損を分担する仕組み……」


「俺一人で全部のリスクを背負ったから潰れた。でも、もし十人で分担してたら、一人あたりの損は十分の一だ。そういう仕組みは作れないのか」


 隆之介は目を見開いた。


 保険だ。リスクの分散。損害の共有。


 港区の脳みそが、また回り始めた。だが今度は、前とは少し違う回り方をしていた。


 これは儲かるかどうか、じゃない。この仕組みがあったら、あの老人は店を畳まずに済んだかもしれない。


 パルムが肩の上で、ほんの少しだけ元の大きさに戻った。


 リーナが帳簿を閉じて言った。


「所持金、更新します。先物事業の仲介手数料から被害者への見舞金を引いて……現在の手持ち、42,000Gです」


「見舞金? 俺、いつ払ったっけ」


「あんたが朝から炙り亭で動けなくなってる間に、私が廃業寸前の三軒に5,000Gずつ渡しました。あんたの金から」


「……勝手にお金を——」


「勝手にです。文句ありますか」


「……ない。ありがとう」


「褒めてません。あんたが払うべきものを、代わりに届けただけです」


 ゴルドがカウンターの端で、エールを飲んでいた。何も言わなかった。ただ、口元がほんの少しだけ緩んでいた。


 港区おぢの先物事業は終わった。


 残ったのは、42,000Gと、「仕組みを作った者の責任」という重い教訓。


 そして、暴落の痛みの中から芽生えた、小さな種。


 損を分担する仕組み。リスクを共有する仕組み。それは、もう少し先の話だ。


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