第1話 異世界フランチャイズ(前編)
金城隆之介は、レンドールの朝市を歩いていた。
異世界に転生して一年と少し。所持金は20,000G。借金はない。港区時代の年商十二億から比べれば鼻で笑われる額だが、この世界に裸一貫で放り出されてからの道のりを思えば、奇跡みたいなものだ。
いや、奇跡じゃない。実力だ。
と、隆之介は思っている。周囲の全員が「運と人脈」だと思っていることには、まだ気づいていない。
「リュウさん。今日の目的は何ですか」
隣を歩くリーナが聞いた。赤い髪を朝風が揺らしている。帳簿を小脇に抱え、もう片方の手には今朝の竜宮城の売上メモが握られている。
「散歩だよ、散歩。港区でもね、朝の六本木を歩くとアイデアが降りてくるんだよ。始発前のケヤキ坂を——」
「港区の話は結構です。で、本当の目的は」
「……竜宮城の家賃を来月分まとめて払いに行く途中」
「素直に言ってください」
肩の上で、パルムがくるくる回った。手のひらサイズの青い髪の精霊は、朝の市場の活気に目を輝かせている。
「リュウ! 今日の市場、キラキラしてるよ! あ、あの薬草屋さん、昨日より値段が12G上がってる! いや11G! いや……12.4Gかも!」
「どれだよ、全くわからん」
「えへへ。誤差です」
相変わらずのポンコツ精霊だ。だが隆之介は嫌いじゃない。パルムの「市場の空気を感覚で読む」能力は、数字の精度を補って余りある。
◇ ◇ ◇
炙り亭に着くと、バルドが朝の仕込みをしていた。
炙り香草ステーキの香りが石畳の通りまで漂っている。一年前、ただの干し肉屋だったこの店は、今やレンドールの名物屋台だ。隆之介がリブランディングを仕掛け、バルドが「味」で応えた。二人三脚の結果か、いや、バルドの実力九割、隆之介のハッタリ一割だ。
「おう、リュウ。朝メシか」
「朝メシ。あとツケの件」
「お前、まだツケ残ってたのか」
「残ってないよ。払いに来たんだって。ほら、現金」
バルドが目を丸くした。隆之介が自発的にツケを払いに来るのは、一年間で三回目くらいだ。
「……気持ち悪いな。何か企んでるだろ」
「企んでないよ。失礼な。人の善意を——」
「リュウさんが善意で動いたことは、私の記憶にはありません」
リーナが即座に切った。パルムまで小さな手を挙げて「ボクの記憶にもないです!」と加勢した。味方がいない。
バルドが炙り香草ステーキを二人前、皿に盛った。隆之介とリーナが席についたところで、店の前に馬車が止まった。
降りてきたのは、見覚えのない中年の男だった。上質だが地味な旅装。商人の目をしている。港区で鍛えた人物鑑定が、瞬時に弾き出す。金はある。地位もそこそこ。だが派手さはない。堅実なタイプ。
「失礼。バルドの炙り亭は、こちらですか」
バルドが振り向いた。
「うちだが」
「東のグランハルトから参りました。アルベルト・ケスラーと申します。私は、グランハルトで食料品を扱う商会を営んでおりまして——」
男は懐から名刺代わりの木札を取り出した。ケスラー商会。グランハルト支部。穀物・加工食品の卸売。
「炙り亭の評判は、グランハルトにも届いております。特にこの『炙り香草ステーキ』。行商人たちが口を揃えて絶賛しておりまして。実は——」
アルベルトは居住まいを正した。
「この料理を、グランハルトでも提供したい。つきましては、レシピと看板の使用許可をいただけないかと」
バルドが固まった。
リーナが固まった。
隆之介だけが、にやりと笑った。
肩の上のパルムが小声で言った。
「リュウ。今、すっごく悪い顔してる」
「悪い顔じゃないよ。ビジネスの顔だよ」
「同じだと思います」とリーナ。
◇ ◇ ◇
場所を竜宮城に移した。昼の竜宮城は閑散としている。カウンターにバルド、アルベルト、隆之介、リーナ。ゴルドはまだ来ていない。あの爺さんは夜にしか現れない。
「アルベルトさん。単刀直入に聞きます。レシピを買い取りたいんですか? それとも、炙り亭の名前を使いたいんですか?」
隆之介が切り出した。バルドが「おい、俺の店の話を勝手に——」と口を開きかけたが、リーナに目で制された。交渉事は隆之介に任せた方がいい、という一年間の学習成果だ。
「できれば、両方です」とアルベルト。
「レシピだけでは、お客様に『本物の炙り亭』だと伝わりません。看板があってこそ——」
「なるほど。ちなみに、買い取り価格はおいくらで」
「レシピと看板の使用権で、50,000G。一括払いで」
50,000G。悪くない額だ。だが隆之介の港区センサーは、別の数字を弾いていた。
鑑定眼を起動する。
——鑑定結果——
対象:炙り亭ブランド使用権
推定市場価値:月額 8,000〜12,000G(継続課金型の場合)
一括売却時の機会損失:年間 96,000G以上
パルムが数字を読み上げた。
「月額8,000から12,000Gだって! 50,000Gの一括って、五ヶ月で元取れちゃうよ!」
隆之介は声に出さずうなずいた。一括買い取りは安すぎる。これは——
「アルベルトさん。提案があります」
「はい」
「買い取りじゃなく、フランチャイズにしませんか」
「……フランチャイズ?」
リーナが「また変な言葉を」という顔をした。もう慣れているが。
「簡単に言うと、看板とレシピを『貸す』んです。買い取りじゃなくて、使用料を毎月いただく。その代わり、バルドさんが作ったレシピと調理手順を完全にマニュアル化して、誰でも同じ味を再現できるようにお渡しします」
「マニュアル……?」
「手順書です。材料の量、焼き時間、香草の配合比率、全部を紙に書き出す。料理人のカンに頼らない、仕組みとしての味の再現。俺の故郷ではこれを『オペレーション・マニュアル』と呼びます」
バルドが眉をひそめた。
「……リュウ。料理ってのは、マニュアルで作るもんじゃねえぞ」
「わかってるよ、バルドさん。でもこう考えてくれ。バルドさんの味を百点としたら、マニュアルで七十点は再現できる。七十点でも、グランハルトにとっては革命なんだ。だって向こうは『素材をそのまま食う』文化だろ?」
アルベルトが大きくうなずいた。
「おっしゃる通りです。グランハルトの食文化は……正直、レンドールとは比べ物になりません」
「でしょ。七十点の炙り香草ステーキでも、グランハルトでは百二十点の衝撃になる。で、月額の使用料は10,000G。加盟時の初期費用として別途30,000G。その代わり、マニュアルの提供、最初の一週間はバルドさん本人が現地で指導、あと看板のデザインもこっちで用意する」
アルベルトの表情が変わった。一括50,000Gの提示が、初期費30,000G+月額10,000Gになった。年間で150,000G。三倍だ。
だが、アルベルトは拒否しなかった。
「……月額制、ですか。確かに、毎月サポートがいただけるなら——」
「もちろん。定期的にレシピの更新もしますし、新メニューの開発もある。バルドさん、新メニュー開発はできるよね?」
「話が進みすぎだ! 俺はまだ何も——」
「バルドさん。あんたの料理が、別の街の人にも届くんだよ。それって、すごいことじゃない?」
バルドが黙った。
武骨な手が、エプロンの裾を握っていた。嬉しいのか、戸惑っているのか。たぶん両方だ。
リーナが帳簿を開いた。
「整理しますね。フランチャイズ契約の場合、初期費用30,000Gは我々の手元に入ります。月額10,000Gの配分はバルドさんがレシピ提供者として六割、リュウさんがビジネス設計として三割、管理運営費として一割。これでどうですか」
「おお。リーナさん、いつの間にそんな計算——」
「一年間あなたの隣にいれば、嫌でも覚えます」
アルベルトが手を差し出した。
「ケスラー商会として、前向きに検討させていただきます。正式な契約書は——」
「商業ギルドの書式に則って、リーナさんが作ります。ヴェルクさんに確認も取る。今回は規則をちゃんと守りますよ」
隆之介はリーナに目配せした。リーナが小さくうなずいた。一年前なら「あんたが規則を守る日が来るとは」と毒を吐いただろうが、今は黙ってうなずく。信頼の蓄積が、言葉を省略させている。
◇ ◇ ◇
アルベルトが帰った後。夜の竜宮城。
ゴルドがいつもの席でエールを傾けていた。
「聞いたぞ。フランチャイズとかいうやつか」
「さすがゴルドさん。耳が早い」
「バルドが興奮して話してたんだよ。あいつ、顔には出さんが嬉しそうだったぞ」
隆之介はカウンターに肘をついた。
「ゴルドさん。正直どう思います?」
ゴルドが杯を置いた。白い髭の奥の目が、一瞬だけ鋭くなった。
「お前の発想は面白い。看板を貸して金を取る。仕組みとしては筋がいい。だが、」
「だが?」
「お前は一店舗のことしか考えとらん。グランハルトの一軒が成功したら、次はどうする。別の街からも話が来る。三軒、五軒、十軒。看板が増えるたびに、お前の目が届かなくなる」
「いや、だからマニュアルで——」
「マニュアルで味は七十点再現できるかもしれん。だが、マニュアルで『心』は再現できんぞ」
隆之介は口をつぐんだ。
ゴルドがエールを一口飲んだ。
「商売がデカくなるのは気持ちがいい。わしも若い頃はそうだった。だがな、リュウ。デカくなるということは、潰れたときに巻き込む人間も増えるということだ。一軒の失敗は一軒の問題で済む。十軒の失敗は、十の街の問題になる」
ゴルドの声には、どこか遠い記憶を辿るような響きがあった。
「覚えておけ。看板ってのは信用の塊だ。一つでも腐った看板が出たら、全部の看板が腐る」
パルムが隆之介の肩の上で、小さく身震いした。
「リュウ……ゴルドさん、今すごく真剣な空気。市場の空気とは違うけど、重い」
隆之介は黙ってうなずいた。ゴルドの言葉は正しい。頭ではわかっている。
でも——。
「ゴルドさん。その話、また今度じっくり聞かせてください。とりあえず今は、一軒目を成功させることに集中します」
ゴルドは何も言わず、杯を傾けた。
隆之介はカウンターから竜宮城を見渡した。バルドが隅の席で、メモ帳に何かを書いている。たぶんレシピの書き出しだろう。リーナがカウンターの内側で契約書の草案を引いている。パルムが隆之介の肩で、すやすやと寝始めた。
この景色が好きだ、と隆之介は思った。
港区にもこういう場所があればよかったのに。
思って、すぐに首を振った。何を感傷的なことを。港区に帰れば、もっといい景色がある。六本木のスカイラインが。タワマンからの夜景が。
帰れれば、の話だが。
「リュウさん。契約書のたたき台、明日の朝までに仕上げます。ヴェルクさんとの打ち合わせは明後日で取れそうです」
「さすがリーナさん。仕事が早い」
「褒めてません。急がないと、あんたがまた余計なことを始めるからです」
「おう。信頼されてんのか、されてないのか」
「信頼してませんが、予測はできます」
隆之介は笑った。
フランチャイズ第一号。グランハルトへの出店。炙り亭の看板が、レンドールの外に出る。
これは始まりだ。港区おぢのビジネスが、一つの街を超えるための第一歩。
だが、この時の隆之介は知らなかった。
看板を「貸す」ということは、看板の「信用」を預けるということだ。そして信用は、築くのに一年かかり、壊れるのは一日で済む。
港区では常識だったはずのその教訓を、異世界で最も痛い形で思い出すことになるのは、もう少し先の話だ。
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