第16話 港区おぢの通信簿
商業ギルドの年次査定通知が届いたのは、選挙コンサルの傷が癒えた頃だった。
「リュウノスケ・カネシロ殿。年次査定のため、明日午前十時に支部長室へ出頭すること」
リーナが通知を読み上げた。
「年次査定って何」
「商業ギルドに登録した商人は、年に一度、事業実績の審査を受けるんです。登録継続か、ランク変更か、最悪の場合は登録抹消。あんたが登録してから、ちょうど一年ですよ」
「一年か、あっという間だったな」
隆之介は指を折った。
炙り亭のリブランディング。掲示板改革。竜宮城。冒険者便。リーナの借金。不動産。情報メディア。選挙コンサル。
一年で八つのビジネスに手を出して、まともに残ったのは竜宮城だけ。
「通信簿みたいなもんか」
「通信簿?」
「俺の故郷で、子供が学校でもらう成績表のことだよ。一年の成績を、エレナさんにつけられるわけだ」
パルムが肩の上でそわそわしていた。
「リュウ、大丈夫かな。ボク、なんだかドキドキする」
「俺もだよ」
◇ ◇ ◇
翌朝。商業ギルド支部長室。
エレナ・ヴァイスフェルトが、いつもの完璧な微笑みで待っていた。机の上には分厚い書類の束。隆之介の一年間の活動記録だ。
その隣に、ヴェルクが座っていた。
「ヴェルクさんも来るの?」
「私は査定の記録係です。審査は支部長が行います」
エレナが書類をめくった。
「さて、リュウノスケさん。一年間のレビューを始めましょう」
微笑み。隆之介の港区センサーが例によって警報を鳴らしている。
「まず事業実績。あなたがこの一年で立ち上げた事業——」
エレナは書類を読み上げた。
「炙り亭のリブランディング。結果、成功。ただし事業権は協力者に譲渡済み。収益、現在ゼロ。冒険者ギルド掲示板の改善コンサルティング。結果、成功。ただし一回限りの単発報酬。継続収益なし」
「次。高級社交クラブ『竜宮城』の設立。結果、一時的に成功の後、キャッシュフロー破綻。ギルドからの営業停止命令を経て再建。現在は小規模営業中」
「配達サービス『冒険者便』。結果、失敗。インセンティブ設計の欠陥により六週間で崩壊。最終損益、赤字40,000G」
「下層区不動産賃貸管理。結果、失敗。構造検査規則の見落としにより全物件返却。最終損益、プラスマイナスゼロ」
「情報メディア『レンドール・マーケット・レポート』。結果、一時的に成功。既得権益との衝突により縮小。ただし購読者基盤は維持」
「評議員選挙コンサルティング。結果、クライアント当選。ただし成功報酬を回収できず」
エレナが書類を閉じた。
「総括。一年間で八件の事業を立ち上げ、完全な成功はゼロ。部分的成功が三件。失敗が四件。継続中の事業が一件。以上、これがあなたの査定結果です」
沈黙が落ちた。
数字だけ見れば、惨憺たる成績だ。
隆之介は苦笑した。
「……完全な成功がゼロ。港区時代に誰かに見せたら、笑われるな」
「私は笑いませんわ」
エレナの声が、少しだけ変わった。微笑みはそのままだが、目の温度が違う。
「数字の話は終わり。ここからは、数字に載らない話をするわね」
隆之介が顔を上げた。
「あなたの炙り亭のリブランディング以降、レンドールの食品屋台の平均売上は一割二分上がったわ。あなたが導入した『試食』という手法を、他の屋台が真似し始めたの」
「冒険者ギルドの掲示板は、あなたが去った後もリーナさんが毎朝整理を続けている。成約率は元の三倍のまま。依頼の回転が速くなったぶん、冒険者の平均月収は8,000G上がった。ドルフ支部長からの報告よ」
「竜宮城は今も営業している。上層区と下層区の商人が同じカウンターで酒を飲む場所は、レンドールではここだけ。あなたが作った空間が、異なる層の人間をつないでいる」
「冒険者便の元配達員四名。全員がレンドールの飲食店で働いている。あなたの仕組みで街の店と顔見知りになったのがきっかけ」
「そして——」
エレナが最後の書類を取り出した。
「評議員のハンス・ベッカー。先日の評議会で、下層区の営業時間制限の緩和を提案したわ。三十年ぶりの制度改正案よ。あなたが設計した政策提案がベースになっている」
隆之介は黙っていた。
「リュウノスケさん。あなたの事業は確かに、ほとんど失敗しているわ。でも、あなたが蒔いた種は、この街のあちこちで芽を出している。あなた自身の手を離れた場所で」
エレナが微笑んだ。今度は、隆之介が初めて見る種類の微笑みだった。鉄壁ではない。もう少し、人間の温度がある笑顔だ。
「商業ギルドの査定基準は、本来、事業収益だけで判断するものよ。でも私には裁量がある。あなたの登録は継続。ランクは据え置き。理由は『レンドール商業圏への間接的貢献』」
ヴェルクがペンを止めた。
「……支部長。それは査定基準の拡大解釈では」
「裁量の範囲内よ、ヴェルク」
「しかし——」
「ヴェルク」
エレナの微笑みが、一瞬だけ鉄壁に戻った。ヴェルクは黙った。
だが、ヴェルクは隆之介に目を向けて、小さく言った。
「……金城殿。次の一年は、もう少し秩序を守ってくれ」
「善処します」
「善処じゃなくて確約しろと前にも——」
「はい! 確約します!」
ヴェルクの口元が、今度こそ確かに動いた。笑ったのだ。隆之介は見た。
◇ ◇ ◇
支部長室を出た廊下で、隆之介は壁にもたれた。
膝が震えていた。査定が怖かったのではない。エレナの言葉が、予想外に深く刺さったのだ。
リーナが震えている俺の様子を気になり、不思議そうな顔で話しかけてきた。
「リュウさん。大丈夫ですか?」
「大丈夫。ちょっと目から汗が」
「目から汗は出ません。前にも言いました」
「うるさいな。花粉だよ。異世界にも花粉はあるだろ」
パルムが肩の上で、きらきら光っていた。いつもより少し大きくなっている。
「リュウ。今ね、すごくキラキラしてるよ。ボクが目覚めてから一番キラキラしてる」
「何のキラキラだよ」
「市場の空気とは違うやつ。人のキラキラ。うまく言えないけど、あったかいよ」
隆之介は鼻の頭を擦った。
◇ ◇ ◇
その夜。竜宮城で、ささやかな打ち上げが開かれた。
査定継続の祝いというより、一年の節目だった。
バルドが炙り亭から特別メニューを持ち込んだ。ゴルドがいつもより上等なエールを注文した。ドルフが仕事終わりなのか、営業終了後にふらりと現れた。
「お前が査定を通ったと聞いて、顔を出しに来た。飲みに来たわけじゃないぞ」
三杯目を注文しながらドルフが言った。説得力はなかった。
フローラがカウンターの端に座っていた。いつの間に来たのか、誰も気づかなかった。
「あら、お祝いの席? 私も混ぜてもらおうかしら」
「フローラさん。あんた、俺が失敗したときはどこにもいなかったのに」
「成功したときにしか現れないのが私のスタイルよ。でも今日は、成功のお祝いじゃないでしょう?」
「……違うね。生存のお祝いだ」
「ふふ。それなら乾杯する価値があるわ」
隆之介はカウンターに立って、竜宮城を見渡した。
バルドが隅の席で肉をかじっている。ゴルドがエールを飲みながらドルフと何か議論している。フローラが優雅にグラスを傾けている。リーナがカウンターの内側で帳簿を——。
「リーナさん。今日くらい帳簿閉じなよ」
「閉じません。今日の売上は記録しないと」
「……まあ、それがリーナさんか」
隆之介は自分の手のひらを見た。パルムがちょこんと座っている。青い髪の小さな少女が、竜宮城の賑わいを目を丸くして見ていた。
「リュウ。みんな、楽しそうだね」
「ああ」
「ねえ、リュウ。ボク、ひとつお願いがあるんだけど」
「なに」
「みんなに、ボクの姿を見せたい。一回だけ」
隆之介はパルムを見た。手のひらの上の小さな精霊が、真剣な目をしていた。
「擬人化するってこと? でも、魔力の消費が——」
「大丈夫。たぶん三分くらいなら。ボク、この一年でリュウと一緒にたくさんの鑑定をしたから、少しだけ力が溜まってるの。ボクもこの場所の一員でしょ? みんなに挨拶したい」
隆之介は少し考えて、笑った。
「……やれよ。お前の好きにしろ」
パルムの身体が光り始めた。
手のひらの上の小さな光が膨らみ、弾け、竜宮城の空気を満たした。
光が収まったとき、カウンターの横に一人の少女が立っていた。
青い髪。透き通るような肌。高校生くらいの背丈。隆之介の鑑定眼の精霊パルムが、人の姿を取っていた。
竜宮城が、一瞬で静まった。
「……誰だ、この美少女は」と、バルドが食べかけていた肉を落とした。
「おい。嬢ちゃん、どこから入ってきた」ドルフが椅子から立ち上がった。
フローラだけが目を細めた。
「あら。精霊ね。珍しい。鑑定系の精霊? この子、あなたの?」
「俺の、というか——」
パルムが深々とお辞儀をした。少しよろけた。擬人化は慣れていないのだ。
「は、初めまして! 僕はパルムです! リュウの鑑定眼に住んでます! いつもお世話になってます!」
全員が隆之介を見た。
「リュウさん。この子が、あんたが虚空に話しかけてた相手ですか」
「……そうです」
「本当にいたんですね」
「だから言ったでしょ」
パルムはおずおずと一人ひとりに近づいた。
バルドの前で立ち止まった。
「バルドさん。いつもリュウに美味しいご飯をありがとうございます。ボク、炙り香草ステーキの匂い、大好きです」
バルドが顔を赤くした。
「……お、おう。いつでも食いに来い」
ゴルドの前で。
「ゴルドさん。リュウが失敗するたびに、ゴルドさんが教えてくれたこと、ボク全部聞いてました。ブレーキを先に設計する。土地の流儀を知る。ボクも覚えてます」
ゴルドが白い髭を撫でた。目が、少しだけ潤んでいた。
「……よく覚えとるな。嬢ちゃん」
ドルフの前で。
「ドルフさん。掲示板の色分け、まだ続いてるんですよね。あれ、リュウがすごく喜んでたんですよ」
「ワシじゃない、リーナがやっとるんだ。あいつに言え」
リーナの前で立ち止まった。パルムの目が、じわりと潤んだ。
「リーナさん。ボク、リーナさんが一番好き。リュウがめちゃくちゃやるたびに、帳簿で叩いて、ため息ついて、でもいつも隣にいてくれて。リュウが一番助けられてるの、リーナさんだって、ボク知ってます」
リーナが目を逸らした。
「……褒めてるんですか、それ」
「褒めてます!」
リーナは褒め慣れていないのか、顔を赤め、もじもじしていた。俺には絶対に見せない顔だ。
「そう。……ありがとう、パルム」
パルムの身体が、ちらちらと透け始めた。三分の限界が近い。
最後に、パルムは隆之介の前に立った。
擬人化したパルムは、隆之介の胸の高さくらいだった。見上げる青い瞳が、光を帯びている。
「リュウ」
「ん」
「ボク、鑑定眼からいろんな数字を見てきたよ。売上とか、利益率とか、市場価値とか。でもね、この一年で一番大きく動いた数字が何か、知ってる?」
「何」
「リュウの魅力値。22から55。倍以上になったんだよ。戦闘力は3のままなのに」
隆之介が目を見開いた。
「……俺のステータス、変わってたのか」
「うん。ずっと変わってた。少しずつ、少しずつ。バルドさんに炙り亭を任せたとき。リーナさんの借金を払ったとき。エレナさんに堂々と交渉したとき。ハンスさんに裏切られても怒鳴らなかったとき。全部、ちょっとずつ上がってた」
「……魅力って、そういう仕組みなのか」
「ボクにもよくわからない。でも、たぶんね。魅力って、お金でも戦闘力でもなくて、『この人のそばにいたい』と思わせる力なんだと思う。リュウは——」
パルムの身体がさらに薄くなった。あと数秒。
「リュウは、港区にいた頃よりずっと貧乏で、ずっと弱くて、ずっと失敗してる。でも、港区にいた頃の倍以上、人に好かれてるよ」
光が弾けた。パルムの身体が小さくなり、手のひらサイズの精霊に戻った。くたっと隆之介の肩に倒れ込む。
「……つかれた。ボク、もうねる……おやすみ……」
パルムが寝落ちした。肩の上で、すやすやと。
竜宮城が静まっていた。
バルドが鼻を啜った。ドルフが咳払いをした。フローラがグラスで口元を隠した。
ゴルドだけが、静かにエールを飲んでいた。
「……お前。いい精霊を持ったな」
「……ああ」
隆之介の声が、少しだけ掠れた。
◇ ◇ ◇
深夜。客が帰り、竜宮城に隆之介とリーナだけが残った。パルムは肩の上で眠り続けている。
隆之介は反省ノートを開いた。今までの全ページをめくった。
「ブレーキを先に設計する」
「土地の流儀を知る」
「インセンティブは報酬に従う」
「ストック収入は管理コストとセット」
「情報はルールと一体」
「コンサルは他人の成功を作る仕事」
六つの教訓。六つの失敗。六つの失敗から残った、数え切れない人のつながり。
最後のページに、隆之介は一行書いた。
「この街で、もう少しやってみる」
港区に戻りたいと思わなかったわけではない。六本木の夜景。フェラーリのエンジン音。タワマンの42階から見下ろす東京。あの世界が恋しくないと言えば嘘になる。
だが、あの42階に、バルドの炙り香草ステーキを持ってきてくれる人はいなかった。ゴルドのように本気で叱ってくれる人もいなかった。リーナのように三日徹夜で帳簿を整えてくれる人もいなかった。パルムのように、失敗するたびにしょんぼりして、成功するたびにキラキラしてくれる存在もいなかった。
港区時代の金城隆之介は、年商12億円のIT社長だった。六本木ヒルズの42階に住み、フェラーリを乗り回し、インスタライブでシャンパンを開けていた。側から見たら、成功者に見えていた。
異世界の金城隆之介は、借金まみれの三流商人だった。借金と失敗を繰り返し、戦闘力は農民以下の3で、魔法は測定不能のゼロ。
でも——
隆之介は竜宮城のカウンターを見た。バルドが置いていった包み。ゴルドが忘れていった酒杯。リーナの帳簿。パルムが眠る自分の肩。
「……金なし。地位なし。戦闘力ゼロ」
独り言のつもりだった。でもリーナが聞いていた。
「武器は口だけ、でしょ。いつものやつ」
「ああ。でもさ」
隆之介は笑った。リーナに向けた笑顔ではなく、自分に向けた、少し照れくさい笑顔。
「口だけでも、結構やれたな」
リーナは何も言わなかった。ただ、ため息をつかなかった。この一年で、リーナがため息をつかなかったのは、たぶんこれが初めてだった。
「……ええ。結構、やれましたね」
◇ ◇ ◇
翌朝。
隆之介が目を覚ますと、竜宮城のカウンターに手紙が一通置いてあった。
差出人の名前はない。封蝋には、見覚えのない紋章が押されていた。
中には一行だけ。
『大陸北方の港湾都市ノルデンにて、異界よりの帰還に関する文献あり。——友より』
隆之介の手が、止まった。
異界よりの帰還。
元の世界に、戻れるかもしれない。
パルムが肩の上で寝ぼけ眼を擦った。
「リュウ……? どうしたの、朝なのに顔が怖いよ……」
隆之介は手紙を折りたたんで、ポケットにしまった。
「……なんでもない。パルム、朝飯食おう。バルドのとこ行くぞ」
「うん!」
竜宮城の扉を開けた。レンドールの朝。二つの太陽が昇り始めている。
石畳の大通りを歩くと、顔見知りの商人が手を振った。冒険者便の元配達員のトモルがパン屋の前で掃除をしていて、「リュウさん、おはようございます!」と声をかけてきた。炙り亭からは煙と肉の匂いが漂っている。
隆之介はポケットの中の手紙に触れた。
帰れるかもしれない世界と、帰りたくない理由が増え続ける世界。
その選択は、まだ先の話だ。
「バルドのおっちゃん! 朝飯だ! 腹減った!」
「うるせえ、開店前だ。仕方ねえな。食え。話はそれからだ」
いつもの言葉。いつもの朝。
港区おぢの異世界生活は、まだ始まったばかりだ。
——鑑定結果——
金城 隆之介
戦闘力:3
魔力:測定不能
体力:22
知力:71
魅力:55
所持金:20,000G
固有スキル:鑑定眼(市場価値特化)
スキル精霊:パルム
備考:この男の本当の資産は、数字には載らない。
──第1部「異世界転生港区おぢ」完──




