第14話 情報を制す者(後編)
商業ギルド本部。支部長室の前で、隆之介は深呼吸した。
肩の上で、パルムが震えている。
「リュウ……なんかこの建物、空気が重いよ。モヤモヤっていうか、ドロドロっていうか」
「お前にも感じるのか」
「うん。情報が……澱んでる。すごくたくさんの情報があるのに、全部閉じ込められてる感じ」
パルムの感覚は的確だった。商業ギルドは情報の宝庫だ。市場の動向、商人の信用情報、物流の状況、この街の経済を動かすデータがここに集中している。
そしてそのデータは、決して外に出ない。
扉を叩いた。
「どうぞ」
エレナの声だ。穏やかで、やさしい。
◇ ◇ ◇
支部長室には、エレナの他にもう一人いた。
五十代くらいの恰幅のいい男。高級そうな毛皮のマントを羽織り、太い指には宝石の指輪がいくつも光っている。
「紹介するわね。ベルガー商会の会頭、オットー・ベルガー。レンドールの穀物取引の六割を扱う、この街で最も影響力のある商人の一人よ」
オットーは隆之介をじろりと見た。値踏みするような目だ。港区にもいた。自分より格下だと見たら、最初から対等に話す気がないタイプ。
「こいつか。あのくだらん紙切れを配り歩いてる男は」
「紙切れ……?」
「『レンドール・マーケット・レポート』とかいうやつだ。あんなものを撒かれたら商売にならん」
隆之介は一瞬で理解した。
オットーのような大商人は、情報の非対称性で儲けている。穀物の相場が上がることを他の商人より早く知っていれば、安いうちに買い占めて高く売れる。市場の情報が全員に行き渡ったら、その優位性が消える。
「支部長。具体的に、何が問題なんですか」
エレナは書類を開いた。
「商業ギルド情報管理規定、第八条。『市場価格に関する情報の収集および頒布を業として行う場合、商業ギルドの情報公開許可を取得しなければならない』と、あなたこの許可は持ってるかしら」
「……いいえ」
「そうよね。持ってるわけがないわ。この許可を出すのは私だもの」
にっこり。
「許可の申請をしたいんですが」
「もちろん受け付けるわ。審査には六ヶ月かかるけど」
「六ヶ月!?」
「情報を扱うのは繊細な仕事よ。誤った情報が市場に流れたら、混乱が起きるでしょう? 慎重に審査する必要があるの」
六ヶ月。半年間、レポートの発行を止められる。そうなると購読者は離れ、信頼は消え、事業は死ぬ。
パルムが隆之介の肩の上で、目に見えて小さくなった。もはや親指サイズだ。
「リュウ……ダメなの?」
隆之介は声に出さず、唇だけ動かした。
いや、まだだ。
「支部長。一つ聞いていいですか。この情報管理規定、いつ作られたものですか」
エレナが一瞬、目を細めた。
「……十二年前よ」
「十二年前。それ以前は、市場情報を自由に配布できたってことですよね。なぜ規定ができたんですか?」
横でオットーが身じろぎした。エレナは表情を変えなかった。
「市場の安定を守るためよ」
「誰にとっての安定ですか」
空気が変わった。オットーが椅子の肘掛けを掴んだ。
「……小僧。言葉を選べ」
「失礼しました。でも、俺のレポートが配布されて困る人って、限られてますよね。一般の商人や冒険者は喜んでます。困るのはきっと情報を独占して利鞘を取っていた人たちだ」
オットーの顔が赤くなった。
「貴様、何が言いたい」
「別に。事実を述べてるだけです」
リーナの口癖が移った自覚はあった。
エレナが静かに手を上げた。オットーが口をつぐむ。この部屋の権力者は、太った商人ではなく、微笑む支部長だ。
「リュウノスケさん。あなたの言いたいことはわかるわ。情報の透明性は市場を効率化する。それは正しい。でもね、」
エレナは立ち上がった。窓の外を見る。レンドールの市場が見下ろせる。
「この街の経済は、一夜にして今の形になったわけじゃないの。百年以上かけて、商人たちが少しずつ信用を積み上げて、取引の慣行を作って、今の仕組みができた。あなたの言う『非効率』は、別の角度から見れば『安定』なのよ」
「……」
「情報を一気に開放したらどうなると思う? 相場が乱高下するわ。経験の浅い商人が生の相場データだけを頼りに無謀な取引をする。大量の仕入れミスが起きて、物流が混乱する。それは誰も得をしない結果でしょう?」
反論したかった。しかし、エレナの言葉には一理あった。
港区でも同じだった。フィンテックが既存の金融規制とぶつかる構図。規制する側にも、規制する側の論理がある。そして多くの場合、スタートアップは規制に負ける。
パルムが耳元で小さな声で言った。
「リュウ……あの人、嘘は言ってないよ。でも、全部本当でもない。『安定』を守りたいのは本心だけど、その安定で得をしてる人たちを守りたいのも本心」
隆之介は心の中でうなずいた。パルムは数字は間違えるくせに、人の本音を読む精度だけは異常に高い。
「支部長。わかりました。レポートの発行は停止します」
エレナが少し意外そうな顔をした。もっと食い下がると思っていたのだろう。
「聞き分けがいいわね」
「ただ、一つだけ覚えておいてください。俺が配るのをやめても、情報の流れは止まりません。三十八人の購読者が、レポートの価値を知ってしまった。あの人たちは、これからも情報を求める。俺じゃなくても、いずれ誰かが同じことを始めます」
エレナは微笑んだ。いつもの笑みだが、どこか苦いものが混じっていた。
「そうかもしれないわね。でも今日は、あなたが止まる日よ」
◇ ◇ ◇
ギルドの建物を出た。
午後の陽射しが眩しい。二つの太陽が容赦なく石畳を照らしている。
リーナが隣を歩きながら言った。
「……思ったより、あっさり引きましたね」
「勝てない喧嘩はしない。規制と正面からぶつかっても消耗するだけだ。港区でもそうだった。法律を変えるにはロビイングが必要で、ロビイングには金と時間と人脈がいる。今の俺には全部ない」
「……珍しく冷静ですね」
「冷静じゃないよ。めちゃくちゃ悔しい」
隆之介は拳を握っていた。爪が掌に食い込んでいる。
「でもさ、一個だけわかったことがある」
「なんですか」
「この街で本当に力を持ってるのは、剣でも魔法でもない。情報と、それを管理するルールだ。ルールを作る側に回らない限り、俺みたいな余所者は永遠に弾かれる」
「ルールを作る側……って、それは商業ギルドの幹部とか、街の評議員とか——」
「政治だよ、リーナさん」
リーナが立ち止まった。
「……まさか」
「まさか、だよ」
◇ ◇ ◇
バルドの炙り亭に戻ると、ゴルドが先に来て飲んでいた。
「エレナに潰されたか」
「潰されました」
「だろうな。情報管理規定は、ベルガー商会を筆頭にした大手商人連合がギルドに作らせた規則だ。あれを正面から崩すのは、レンドールの経済構造そのものに喧嘩を売るのと同じだ」
「知ってたなら先に教えてくださいよ」
「教えたところで、お前は止まらなかっただろう」
「……否定できない」
ゴルドが杯を空けた。
「だがな、リュウ。お前のレポートは三十八人の商人と冒険者の行動を変えた。それは事実だ。情報の力を知った人間は、もう知らなかった頃には戻れん」
パルムが隆之介の肩の上で、少しだけ元の大きさに戻った。
「ゴルドさんの言う通りだよ、リュウ。あの三十八人、すごく悔しがっていた。レポートがなくなって困るって」
隆之介には聞こえない声だったが、いや、聞こえていた。パルムの言葉はいつも、隆之介の心に直接届く。
リーナが帳簿を開いた。
「最終収支を出しますね。レポート事業の売上が87,000G。紙代と配布コストが12,000G。差し引き純利益75,000G。ここから既存の借金20,000Gを返済して、バルドさんへのツケも清算すると——」
「残りは?」
「28,000G。黒字です」
隆之介は目を丸くした。
「……黒字?」
「たった三週間の営業でしたけど、購読者が増えるペースが速かったので。原材料費がほぼゼロの情報ビジネスの強みですね」
「借金、完済……?」
「はい。マイナスが消えました」
隆之介はテーブルに額をつけた。今度は悔しさではなく、安堵で。
「……やっと。やっとゼロに戻った」
バルドが炙り香草ステーキをもう一切れ出した。
「泣くなよ。みっともねえ」
「泣いてねえよ。汗だよ」
「目から汗は出ねえだろ」
パルムが隆之介の頬をちいさな手で叩いた。隆之介にしか感じない、羽毛のような感触。
「リュウ、泣いてもいいよ。でも三十秒だけね。それが、あなたのルールでしょ?」
三十秒。失敗しても三十秒で立ち直る。いつから、この精霊は俺のことをそんなに知っているんだ。
隆之介は顔を上げた。
「リーナさん。次の話をしていい?」
「……もう次があるんですか」
「さっき言った通り、ルールを作る側に回りたい。そのためには政治に関わるしかない。ちなみに、レンドールに選挙ってあるの?」
リーナがため息をついた。今日だけで何回目か、もう数えていない。
「ありますよ。商業ギルドの評議員選挙が来月です。まさか、あんた自身が出る気ですか?」
「まさか。俺みたいな余所者が出ても票は取れない。でも、出る人間を当選させることはできる。港区じゃそういうの、コンサルティングって言うんだ」
「コンサルティング?」
「選挙に勝ちたい候補者に戦略を売る。マーケティング、ブランディング、情報戦とか、俺が今まで異世界でやってきたこと全部、選挙にも使える」
ゴルドが杯を置いた。
「……お前、ギルドの評議員選挙に首を突っ込む気か。忠告しておくが、あれは商売よりも遥かに汚い世界だぞ」
「知ってますよ。港区の区議選を見てきたんで」
「しかもな。選挙コンサルが報われるとは限らん。候補者ってのは勝ったら自分の手柄、負けたらコンサルのせいにする生き物だ」
隆之介は笑った。
「ゴルドさん、それ港区でも全く同じです」
パルムが目をキラキラさせた。
「選挙!なんだかわからないけど、面白そう!」
「お前にはまだ早いよ」
「えー。ボクも手伝う! 投票率とか支持率とか、鑑定できるかもしれないよ!」
「……鑑定で支持率が見えたら、世の中の選挙コンサル全員廃業するわ」
「見えるかも! たぶん!」
「『たぶん』はいらない」
リーナが帳簿を閉じた。
「あんたの計画は毎回めちゃくちゃですけど、今回の情報ビジネスで、初めて借金がなくなったのも事実ですからね」
「お、リーナさん。今のちょっと——」
「褒めてません。帳簿の事実を述べただけです」
所持金、28,000G。
異世界に来て初めての、純粋な黒字。
隆之介はレンドールの夕暮れを見た。二つの太陽が沈んでいく。いつもの景色だ。でも今日は、少しだけ色が違って見えた。
港区おぢの次なる戦場は政治へ。




