獣の檻
ふいにまばゆい光を感じて、キリクはおもむろにまぶたを持ち上げた。つっ、と視線をずらせば、ユーリとアリアも過去からの旅を終えて、同じように目を細めている。
答案用紙につづられる美しい文字には、彼女が胸のうちに秘める悲愴さなど、微塵も感じられない。
しばらくふたりの生徒は口を開かなかった。いや、開くことができなかったのだろう。それを催促するようなまねは、キリクもあえてしなかった。
だから、ふたりの心が落ち着くまで、ただただ静かに待っていたのだ。
――どれくらいそうしていただろうか。
やっと口火を切ったのは、ユーリだった。
「触れたものから相手の過去を探る超高難度の魔法……真似しようにも、こんなあっさりできるもんやないですよ、先生……」と、かすれ声で言った学年主席の顔色は、ついさっきまで拷問を受けていたかのようで。
これには苦笑で対するほかなかった。
アリアはうつろな双眸を、どこへともなく漂わせている。それはまるで、魂をフェイメルの記憶のなかに置き去りにしてきてしまったように思えて、キリクの胸に冷たい不安がゆっくりと、しかし確実に広がっていった。
「悪魔が、すべての元凶やったんですね」
「そう、地獄を捨てて、こちらで力を得ようとしている、卑しく、そして恐ろしく狡猾な悪魔です」
「ペンドラゴン提督は、ずっと前に悪魔に乗っ取られてはったんですか……?」
「ええ、残念ながら、本物の提督はすでに魂を失っています」
「ほんまに、そんなことが……」
ユーリが立ちくらみを堪えるように、目頭に指を押し当てる。
「すべてヴァルベリトの罠でした。フェイメルが本物の小瓶を手に入れるよう、巧く……それも、綿密に仕組んだのです。フェイメルはその小瓶を絶対に手放すことはできない……必ず持ち歩くことを計算に入れていた。その目的は、彼女に血の小瓶を使わせることだったのです」
古き竜王の血、幻獣セルカークの光、服従の呪い。ヴァルベリトはこの三つの要素をつなぎ合わせ、私の台本を覆したのだ。
「そして、なによりもやつの真の切り札は彼女自身――意のままに操る術は、もうずっと前に完成していた……」
少女に、『死の呪いをかけた』と嘯いたときに――。
「パーシヴァル先生は、前からすべて知ってはったんですか?」
「フェイメルの子細な過去までは……ですが、軍のトップが悪魔で、北国の支配者になることを目論んでいたのは知っていました」
キリクは答案用紙に目を落としたまま、小さく首をふる。
「それから、フェイメルがスパイをさせられていることも」
不安に揺れるふたりの視線が痛いほどに突き刺さって、言わないつもりでいた真実を告げるか否か、キリクはほんのわずか、思案した。
ユーリの青みがかった紫色の瞳と、アリアの夕暮れ色の瞳が無言で訴える。
『すべて知りたい』、と。
「……フェイメルは、先の襲撃でシキを捕らえるために、悪魔に加担すべき立場でした。おそらく襲撃の直前に、なにかしらの指示があったはずです。ですが、彼女は自分と父親の命を捨ててでも、北国に必要不可欠な黒竜王を……いや、友を助ける決意をした……。実のところ、フェイメルが死の呪いの恐怖に打ち勝てるようにするため、私は彼女をアバロンではなく、キャメロットの生徒として入校させました。そして、性格がまったく対照的なアリア・ソロと同室にしたのです。さらに、アリアと幼馴染みであるユーリをとびきり快活な性格のウルファートと同室に……そこにシキを加えました」
キリクは短く息をついて、一度まばたいてから、ふたたび口をひらいた。
「私は、彼女におのれの命よりも友情を選ぶよう、そう“仕掛け”をしていたのです」
事実、服従の呪いによって操られなければ、それは完成していた。
ひと言も口を挟まず、黙って耳を傾けているふたりにちらと視線を投げれば、嫌悪のまなざしで射抜かれる――そう思っていたキリクは、虚を突かれた。
「だから、フェイメルの使役獣には、幻獣バジリガナルを与えはったんですね?」
確信に満ちた声色の、その背景にある先見の明。
紫瞳には憎悪の欠片もなく、むしろ敬虔さが滲んでいる。
「バジリガナルは主人の命が危険になったとき身代りになる、えらく貴重な幻獣や……万が一、『死の呪いが発動したとき』のために、先生が選ばはったんでしょう?」
「……本当に、きみには脱帽しますよ、ユーリ……」
キリクが苦笑で返せば、ユーリ・フェルマンにクールな笑みが浮かんだ。
「ですが、私は、彼女の呪いが服従の呪いだと気づかなかった――気づいてさえいれば、こんなことにはならなかったのです」
悔いてももはや取り返せない時間がもどかしくて、やるせなくて、キリクは所在なく窓の外に顔を向けた。その先にある、まっ白な山の中腹に焦点を絞る。国軍本部の背後に座する、竜王の城。
本当なら、いまごろ、シキはあそこに居るはずだった……。
あのとき、フェイメルに刻まれた呪いの正体をこの目で確かめるべきだった。――彼女の服をはぎ取ってでも。
人間の羞恥心など、私にはどうでもよいことなのに。
人間など、哀れんでやる価値すらない、下等な存在だと思っていたではないか――。
キリクの脳裏に、人間の友の姿がさっとよぎって、思わず苦笑がこぼれてしまった。それを悟られまいとして、ユーリとアリアに向き直る。
「私は、ふたりを助けたいのです」
きっぱりと告げた言葉が、音のない部屋で弦を弾いたようにびいんと響きわたった。
「そのためには、きみたちの力が必要です。もちろん、ウルファートも――」
「先生、あたりまえやないですか」と、いかにも鼻持ちならない高飛車な声音がキリクの言葉を遮った。
「親友助けるためやったら、なんだってやりますよ」
ふっと微笑を向けられて、それにキリクは微苦笑で応じる。どうやら野暮な台詞を吐いてしまったようだ。
絶望や怒りや悲しみ、それらを凌駕するほどの決然とした意志が、いつの間にか紫の双眸に灯っていた。それは、彼だけに限ったことではない。
悪魔のキリクには推し量ることのできない、強い、強い想いだった。
*
頭を両側から思いきり押さえつけられるような、鈍い痛みがあった。
視界はおぼろげで、クラクラと揺らいでいる。
それでも、冷たく硬い椅子に座らされ、その背に腕を回して後ろ手に縛られていることくらいは、なんとなく理解できた。
床は学校の地下教室のように石造りのため、裸足のシキにしてみれば、けっして居心地のよい床ではないし、むしろ、ある種の拷問を受けているのではないかと思えた。
壁も床同様、石造りらしく、狭苦しい空間に窓らしきものはひとつも見当たらなかった。その代わり、目の前は石壁ではなく太い鉄格子がはめ込まれている。
ここはまるで、獣の檻のよう。
鉄格子のその先にある、壁掛け燭台の淡い灯火が檻の中をほのかに明るくしていた。
せまい部屋の中心に据えられた椅子に、シキは逃げ出すことができぬよう、拘束されていたのだった。
そこは、まごうことなき牢獄――それも、独房である。
意識が混迷する中、氷の塊がのどをゆっくりと通っていくように、現実が心の中に落ち込んでいった。
どうして僕はここにいるんだろう。
どうして裸足なんだろう。
足が、冷たい。
視線を下げれば、制服のブレザーはどこへいったのか、灰色のスラックスと黒く変色したシャツだけの姿になっていた。
――ああ、リュゼの血だ……。
ふと、胸に硬いものが触れていることに気づいて、それがなにかを、もうろうとする頭で必死に考えた。
そうだ、雪山で遭難したときからずっと肌身離さず持っていた、レディ・カラマンシカの手鏡。キリク先生の大切なものだし、いつもそこにあるってわかるよう、シャツの胸ポケットにしまっていたんだ……。しばらく預かっていてほしい、っていわれて二つ返事をしたけれど、こんなことになるなら断ればよかった。
感触からすると、どうやら割れたり壊れたりはしていないみたいで、シキはほっと胸をなでおろす。
――早く、キリク先生に返さないと……。
そこで、もう一つ硬い感触があることに気づいた。ぴくりとも動かない眉を心のなかでひそめる。それは後ろ手に縛られた手に握られていた。とても硬いもので、拳で握れるほど小さい。
なんだろう?
ここに連れて来られた記憶も定かじゃないし、手のなかのものがなにかさえ、思い出せない。でも、手を開いてはいけないような気がして、握りしめた拳に、少しだけ力を込めた。
鉄格子の扉が開いたのは、そんな時だった。
シキが緩慢な動作で顔をあげると、全身を鎧で固めたふたりの兵士が、猫のような俊敏さで牢にすべり込み、槍をさっと構えた。
「中将、どうぞなかへ」
兵士のひとりがいうや、彼らの後ろからやけに厳めしい軍服に身を包んだ男が現れた。その男の背後には、さらに甲冑の兵士が数人控えている。
「黒竜王」
相手を嘲弄するような、お世辞にも友好的とは程遠い口調だった。
「抵抗することなど、このファクローが許さぬ!」
ベルガモット先生のように相手を黙り込ませる一喝が轟く。
けれど、シキには反論することも抵抗することも、できはしなかった。霞がかった頭や視界と同様、口を開くことさえおっくうでたまらないのだから。
それよりも、ファクローと聞いて無意識に胃のあたりがムカムカするのは、あの『ファクロー』がすぐさま連想されるからだろう。
この名前がつく奴は、どいつもこいつも、カンジが悪いに違いない……。
無反応でいると、目の前の兵士のひとりが、「どうやらまだ意識が混濁しているようです」と、きびきび答えた。それにファクローがうなずいて、背後にすっと目配せをする。すると、奇跡の業で真っ二つに海が割れるがごとく、左右に身を引いた彼らの間を、だれかがゆっくりと進んでくる。
落ち着き払った物腰の、中年の男性であった。
「うむ」
ブロンドに白いものが目立ちはじめたものの、それをきっちりなでつけた髪と、たっぷりの口髭が目を引いた。軍服の襟にはあまたのバッジがさんさんと輝き、尊厳をいかんなく誇示している。やや恰幅がよく見えるのは、おそらく彼がまとっている独特の雰囲気のせいだろう。それほど太っているわけでもなく、ひと言で表すなら、いかにも威厳がありそうな体格だ。
「黒竜王」
とても恭しく、それでいて年齢と経験を重ねた泰然さに満ちた響きで、その人がいう。
「お初にお目にかかります、私は北国国軍の総指揮を執らせていただいております、ソーナ・ペンドラゴンと申します……」
胸に手を当て、屹立したままペンドラゴンは目を細めた。
「黒竜王は無抵抗の一般市民を虐殺したことにより、軍法百七条に則り、黒竜王の捕縛を適用しました。我々には竜王を裁く権利があるのです」
彼がなんといっているのか、シキには理解できなかった。
言葉は通じるのに、意味が理解できない。耳に刺さる不快な単語、黒竜王を糾弾する言葉の羅列、そのほとんどが右から左に流れていった。
ぼんやり見上げるシキに、彼はさきほどの恭しさとは打って変わって、くちびるの端をくっと引き上げた。冷笑だ。それが消えやらぬうちに、腰の剣帯から細長い剣をスラッと抜くと、シキのあごにあてがって顔を上げさせた。
「古き竜王の血は新たな竜王にとっては毒……というのは、本当らしいな」
口髭さえ動かぬささやき声で、彼は確かにそういった。
生物上、もっとも五感の優れる竜王だけに聞こえるように。
「このまま一生効いてくれると、じつに有り難い」
その細めた目の奥に潜む嘲笑が、シキの瞳に映る。
「やれ」
そういったのはファクロー中将だった。
甲冑の兵士が槍を構えなおすと、ペンドラゴンは剣を納めて踵を返した。石の床を打つ靴音が離れて、そこにもう一つの靴音が加わる。
ペンドラゴンとファクロー中将が退室するやいなや、ガチャン、と鍵を回る音が響いた。
檻の中に残された二人の兵士は互いに顔を見合わせ、どうしたものかと槍を構えたまま思案しているらしかった。そうして長いこと沈黙が漂った。だが、いよいよになってひとりが「やるぞ」と兜の中でつぶやく。
彼は少し身を引いた格好で、勇気を奮い立たせるような掛け声を上げたあと、シキの顔をめがけて槍を突きだす。
妖しい光を纏う刃が、皮膚を滑る。
ざっくり頬を真横に裂かれ、燃えるような激痛が走った。
「おい、なにやってる早くしろ!」
役目を終えて一目散にシキから離れた兵士が、ヒステリックに叫んだ。
「わ、わかってる!」もう一人が叫び返す。
兵士は鎧篭手の隙間から小瓶を取り出し、やっとのことで蓋を開けると、頬から滴る黒い血を慎重に集めはじめた。
その手は、ふるえている。
――僕が、怖いんだろうか。
ものの数秒で彼はシキから飛び退き、鉄格子の外で控えていた兵士と見事な連携で、すぐさま牢を飛び出した。
ふたたび、猛獣の檻に鍵がかかった。
この石造りの牢獄は、死がそこに潜んでいるように、ただ暗く、湿った静寂のなかに沈んでいる。そして、そこにおいて、シキは確かに孤独だった。手を伸ばせば、いつもかたわらに寄り添ってくれた友はもういない。
シキにとって、孤独と恐怖は同義だ。
目の前がゆがみ、胃のムカムカはピークに達していた。
檻の外から畏怖とも恐怖ともつかない敵意のまなざしが刺し込んできて、椅子に縛られたままのシキには逃げ場がなかった。
ついに、首を支えることすらままならくなってしまった。意識が、遠のく――。
ところがどうだろう、どこからともなく、声が聞こえた。
歌うように軽やかで、おそろしく冷ややかな、それでいてよくよく聞き慣れた――。
「この国のあるじを辱めるとは、虫ケラ以下の分際にしては、勇気がある……おれの力が戻ったとき、ここにいる人間どもに安らかな死はないと思え」
首を支えることができなくなったはずだが、檻の外で鎧をガチガチ鳴らして、情けないほどふるえる数人の兵士を、どういうわけかはっきりと目に捉えている。
「皆殺しだ」
死刑宣告に被って、短い悲鳴が石造りの牢に反響した。
そのとき、シキははっきりと自覚した。
いつ昏倒してもおかしくない状態のなかで、自分が目を見開いていることを。そして、たったいまシキを動かしている力が、自分自身の意思によるものではないことを。つまり、なにかほかの力がシキの体を勝手に動かしたのだ。それはまるで、第三者に内側から乗っ取られたような、あるいは異物をとり込んだような心地で――。
勝手に持ち上がっていた首からやっと力が抜けていった。それはすなわち、体の所有権がシキのもとへ返された、ということだ。
自分の身になにかが起こっている。
兵士たちが怯えていたように、シキもおのれに怖れを感じていた。
彼らは鉄靴を石の床を打ち鳴らし、なにごとかを叫びあって階段を駆け上がって行ってしまった。
そうしてシキだけが孤独と一緒に取り残される。
僕は、どうなるんだろう。
ユーリたちに、みんなに会いたい。
キリク先生、リュゼ……おとうさん――。
それから一体、何時間経っただろうか。
階段を下りてくる気配を感じて、シキはうっすら意識を戻した。




