北国国軍、『氷の女王』
「シキ!」
かすむ視界、鉄格子の向こうに現れたのは、リジルだった。彼女の橙色に近いつややかな金髪は、燭台の明かりでより赤味を増して、琥珀色の輝きを放っている。夜の海にかがり火を灯したような瞳は、不安の色を濃くしてゆらめいていた。それもまた綺麗だな、などと屈折気味に考え、シキはうつろなまなざしをリジルに向けた。
彼女は猛獣の檻に怯むこともせず、鉄格子に飛びついた。
「シキ! 一体どうしてこんな……怪我は?」
ゆっくりと首を横にふれば、リジルは檻を拳で叩き、短く毒づく。
ひとつにくくった長い髪が肩からすべり落ちて、胸の前に流れた。
いまにも泣きそうな、あるいは憤りをあらわにした表情を眺めながら、なぜリジルがここにいるのかを考え――すぐにあきらめた。どうせ考えたところで答えは出ない。
「シキ、よく聞いてくれ……きみの身柄はいま、軍によって拘束されている……ここは、国軍の地下牢……あれから三日経っているんだ」
あれから、とはどれからだろう。シキはいま一度、リジルをまじまじと見つめた。
彼女がキリッと着こなす枯草色の詰襟の制服。サイズこそ違えどファクロー中将とほどんど同じデザインのものだった。あえて違いを挙げるなら、バッジや勲章のメダルが中将よりも控えめだということくらいだろうか。
リントヴルム・トリスタン大佐――リジルをそう呼んだのは、フェイメルだったはずだ。
リジルの本名であり、それを彩る肩書き。
――そうか、ここは軍の牢獄で、僕は、捕まったのか……でも、どうして僕が捕まるんだ? 憶えているのは、学校を襲ってきた悪魔や、魔獣や、闇の魔術師をほとんど追い払ったところまで――。
「提督に掛けあってはみたんだが、わたしの権限ではシキをここから出してやることができないんだ……すまない……!」
鉄格子を握る手に、力がこもる。
「いま、軍はまともじゃない。提督はシキをずっとこの地下牢に閉じこめておくつもりだ……提督は――ペンドラゴンは北国の権限を竜王から奪うつもりだ! そんなことがあってはならないし、許されるはずがない! 国を統べるべき竜王を捕らえその上に人間が王として立つなんて!」
どこへぶつけてよいかわからぬ怒りが、石に囲まれた独房に虚しく響いた。
リジルがふたたび檻を拳で打った。
「衛兵が……」
鉄格子からスルスル手が滑って、その場に力なく膝をついたリジルが、ぽつりと語る。
「……『ここにいる人間を皆殺しにする』と黒竜王が宣言した、と衛兵が報告してきた……おかげで上層部も混乱している。朝から続いている会議はまだ終わりそうもない……もうすぐ日が暮れるというのにな。本当はきのうにでもここへ来たかったんだが……各セクターの対応に追われて、本部に戻ってきたのは朝方で……。だから、この休憩中しかシキに会えないと思って、急いで来たんだ……地下牢の扉番がまた強情なやつで、すこし時間を食ったよ……」
檻越しに、たとえ苦笑いだとしてもほほえんでくれるリジルに、できれば笑顔を返したかった。だが、それすらもシキにはままならない。ほほえむどころか、目を開くだけで精一杯なのだから。
「シキが人間を皆殺しにするだなんて、あまりにもばかげた話だ……シキはそんなことをするものか。そうだろう、少なくとも、わたしが知るシキは、だれかの死を望むはずがない……!」
見つめてくる青い瞳には、少しの疑念も嫌悪も浮かんではいなかった。
強い信念と聡明な輝きをその目に宿している。ふだんの凛としたリジルがそこにいた。
「シキ、いまはどうしてやることもできないが、必ずここから出す方法を見つける……だからそれまで、耐えてくれ……!」
リジルがぐっとくちびるを噛んだとき、その目じりに涙が浮かんだ。その瞬間、シキの胸がぎゅっと締めつけられるような、妙な重苦しさを訴える。
リジルの泣いている姿を見たくない。
リジルを泣かせていいはずがない。
リジルを泣かせるなんて、たとえそれが僕自身であっても、許せるもんか……。
気だるい体と、さえない頭を奮い立たせて、シキはすべての力をのどに集めた。
「……あ、ありが、と……」
なんとかしぼり出した声は、風邪をこじらせてのどがガラガラになってしまったブラッド教頭にそっくりだった。具合さえ悪くなければ、自分で大笑いするところだが、いまはそんな余裕があるはずもなく。
ただ驚いたように目を大きくするリジルを見つめることしかできなかった。
「シキ」とつぶやいた彼女は、細い指で涙をすくいとり、首だけでうなずく。
「待っていてくれ、必ず戻る!」
リジルがさっと身を翻した。遠のく足音を子守唄に、シキはゆっくりと目を閉じた。
彼女がふたたび地下牢に現れたのは、それからあまり時間が経たないうちのように思う。
リジルの匂いを感じた。
今までは意識しなければ気配は感じなかった。ところが、むこう側から勝手に懐に飛び込んでくるかのように、いまは匂いが手にとるようにわかる。いや、むしろ五感そのものが以前よりも敏感に、そして鋭利に研ぎ澄まされたような感覚だった。
ただ、体の不調がそれらを鈍らせていた。視界はぼやけ、聞こえる音はくぐもり、匂いもやや薄い。吐く息は雪より白く、肌はしびれてもはやトリ肌すらたたない。味は……なにも食べていないから、判断のしようがなかった。
つまるところ、より優れたはずの五感はどれも中途半端で、ほとんど役に立ちそうもない、ということだ。
シキはまぶたを持ち上げ、鉄格子に目を凝らす。
軍服姿のリジルが立っていた。ところが、その表情に違和感を覚えた。「どうかしたの?」と声を掛けたくても、体はシキの命令をすげなく無視して、かすれ声さえ出てこない。
リジルの視線はまっすぐシキに向いていた。背後に同じ軍服を着た長身の青年と、鎧姿の兵士を二人ひき連れ、鉄格子の扉の鍵を開けた。
石牢に広がる張りつめた空気は、彼らの警戒心そのものだった。
しかしリジルの凛然とした態度がくずれることはなく(つまり眉のひとつも動くことなく)、シキからすこし距離をおいて立った。その斜め後ろに長身の青年が控え、その背後に鎧の兵士が続いた。
「黒竜王」
冷たく、硬い響きだ。
「北国国軍提督、ソーナ・ペンドラゴン閣下の命により、今後、黒竜王の尋問を担当させていただくことになりました、リントヴルム・トリスタンと申します。なぜ無辜の民に対し、あのような大量虐殺を行ったのか、洗いざらい吐いていただきたく存じます」
リントヴルムと名乗った彼女が、微笑を浮かべる。ひやっと背筋が冷たくなるようなほほえみだった。
嫌悪と恐怖と侮蔑。それらを混ぜて、練り合わせたものが、一斉に放たれた矢よろしく突き刺さってくる。
「第一セクターから第三セクターを縦に貫いた炎はいまだくすぶり、鉱山が丸ごと消え、町や村は焦土と化しております。犠牲者の数は、数千では済まないでしょう……」
シキは混乱する頭で、一体なんのことかを考えた。
たしかペンドラゴン提督も似たようなことを口にしていたはずだ。だが、やはりリジルの言葉もペンドラゴンの言葉も、意味までのみ込むことができなかった。
「なぜあのような惨い仕打ちをなさった?」
実際、屋上から悪魔の大群を焼き払ったところで記憶が途切れている。
しばしの静寂のあと、短い嘆息が聞こえた。
「ご理解いただけなくて、ひじょうに残念です、黒竜王。ですが、黙秘したところで刑罰が軽減されることはありません。それともうひとつ……黒竜王には提督閣下に従い、天候の乱れを正していただかねばなりません。こればかりは提督閣下でも成すことが叶わない……北国の天候を自在に操ることができうるのは、黒竜王のみ。拒むことは、このトリスタンが許しません」
リジルのいっている意味が、まったく理解できなかった。そもそもシキは天候を操るなんてできたためしがないし、したこともない。第一、その術も知らないのだ。
だが、理解できたこともある。
彼女はシキを「黒竜王」と呼び、今までのように友人として「シキ」と呼ぶことはない。裏を返せば、もはや友人ですらないということだ。
シキはそっと首を横にふった。
「……われらが黒竜王のお命を握っていることをどうぞお忘れなく……」
リジルが、いや、トリスタン大佐が冷笑を浮かべた。
「あくまでも抵抗なさるようだ。いいか、首をたてにふるまで血を採りつづけろ」
「……はっ」
彼女の背後で、重たい金属が擦れる音が鳴った。鎧の兵士たちが慎重に歩を進めてくる。
シキのめまいがいっそう激しさを増した。
「なにも知らぬ民を虐殺した罪は、こんなものでは済まされないぞ……! 悪竜が……!」
彼女の美しい双眸が、憎悪の炎に燃えている。
目の前にいるのはリジルであるはずなのに、まるで人が変わったような……別人のようだった。いや、実際シキは彼女を知らない。自分を嫌悪と憎しみの眼差しで刺すリジルに、会ったことがなかった。
民を、虐殺?
一体なんの話なんだ。
天と地が逆さまになったような具合の悪さに、シキは目をつむった。
「安心しろ、抵抗はできない。黒竜王はお加減が良くないとファクロー中将もおっしゃっていただろう? やれ」
最後のひと言は、まさに死刑執行の号令だった。
うっすらと目を開けた先に見たものは、汚れたものを嫌々見下ろすような、そんなリジルの顔。
シキの前に立つ兵士たちは、互いに顔を見合わせ、小さくうなずく。
間近で見る甲冑は新品なのだろうか、各部位どれもこれも、職人が丹精込めて磨きあげたかのような銀色の鋭い光を放っていたし、傷らしい傷がどこにも見当たらなかった。きっと彼らはこの鎧をまとうまでに、与えられた任務を遂行する高揚感と、軍服以上の誉れになみなみならぬよろこびを感じたかもしれない。彼らは、兵士だ。与えられた仕事に誇りと信念を、抱いているだろう。
兵士のひとりが腕をひねり上げて剣を構えた。訪れた沈黙は、その誇りと信念がわずかにゆらいだためなのか。
「ぼさっとするな!」
上官であるトリスタン大佐に一喝され、兵士はためらいを切り捨て、袈裟懸けに剣をふり下ろした。ざっ、と嫌な音と衝撃が頬を滑ってゆく。またしても燃えるような激痛が頬を襲う。それでも、嗚咽すらあげることができない。
絶叫はシキの脳内だけに響いた。
激しい痛みで腰をくの字に折ったその拍子に、胸ポケットからこぼれ落ちた小さななにかが、からんと音をたてた。
レディ・カラマンシカの手鏡だ。キリク先生に返さなきゃいけないのに――。
黒い血がぼたぼたと石の床を叩く。血の雨は手鏡のくすんだ鏡面にも降り注いだ。
彼らは手早く取り出した小瓶に流れる血を集め、傷がふさがるまでの数秒、息を詰めたまま動かなかった。その数秒がいやに長く感じる。怪我の癒える時間は前より確実に早くなっているというのに。
ふと、そこでだれかの動く気配があった。
リジルの背後に控えていた長身の青年がゆっくりとシキに近づき、落ちた手鏡を慎重に取り上げた。彼の白い手套の指先が、黒く染まる。
「大佐」
リジルが胸ポケットから手袋を出して両手にはめると、差し出された手鏡を受け取った。訝しげな表情を浮かべて、シキをじろりと睥睨する。
「……続けろ、あとはお前たちに任せる。戻るぞ、オーグ少尉」
上官の冷たい声に、オーグ少尉と呼ばれた青年は「はっ」と短く応じて踵を回す。
リジルは冷徹な一瞥をシキにくれて、地下牢をあとにした。
その場に残された二人の兵士と、シキ。
彼らはふたたび剣をふりかぶった。小瓶に黒い血を集め、傷が塞がるとまた同じように剣をふりおろす。それが何度繰り返されたか、もうわからなかった。
やっと瓶がいっぱいになったのだろうか、ほどなくして兵士たちはガチャガチャ甲冑を鳴らして地下牢から去っていった。
静寂の中に、痛みと共にシキだけが残る。それよりも、手鏡の行方が気がかりだった。
レディ・カラマンシカの手鏡を手放してしまった。あれは、返さなければいけないものなのに。
シキは心底疲れきって、すべての感覚が薄れてゆくのを感じた。
リジルは数時間前のリジルではなった。シキのために涙をこぼしたリジルではなかった。
僕にほほえんでくれたリジルはどこにもいない。
理由はわからないけど、僕は彼女に嫌われたんだろうか?
そう考えると、悲しくて、虚しくて、胸をどこかへ置き去りにしたような気持ちになるのは、やはりいまでもリジルのことを想っているからだろう。
たとえ手の届かない存在だとしても、この感情をごまかすことはできない――。
それから何時間、いや、何日そんなことが続いただろうか。
尋問されるたびに首を横にふることしかできず、シキは全身を切り刻まれ、血を抜かれ、疲れ果てて眠ることを、もう何度も、何度も、何度も繰り返してきた。
「トリスタン大佐……すでに一週間です。採血担当の兵士によると、ここ二、三日は、もう目も開けられない状態のようですが」
階段から、生真面目そうな低い声を拾った。いつもリジルの斜め後ろに控えて行動する、たしか名前は……オーグ少尉、だったか。
「かまうな、どうせ竜王はこの程度では死なない」
「せめて、食事を――」
「オーグ、貴様ほど頭の出来のいい男が、くだらないことをいうな。それくらい知っているだろう」
「……失礼、いたしました……」
「竜王は人間と根本的につくりがちがう。食事を摂らなくとも生きていられる存在だ」
耳が勝手に拾ってくる冷たい声を、せめて遮ることができたら。
せめて、耳をふさぐことができたら。
冷えきった地下の牢獄に囚われようとも、どんなに剣で斬りつけられようとも、シキの胸までは痛まない。シキの心を傷つける唯一のものをあえて述べるなら、この、彼女の発する言葉である――。




