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フェイメル・モルガーナ

 床に、ほの暗い影があった。

 それはまるで、不思議の国に繋がる穴のようにも、あるいは丸一日、雨漏りを放置した跡のようにも見える。

「なあに、これ?」

 少女の声がした。

 姿はどこにも見当たらなかったけれど、たしかに、まだ幼なさの残るかわいらしい声が聞こえた。それも、すぐそばで。――ユーリとアリア、そしてキリクの眼(まなこ)に映る世界は、幼き日のフェイメル・モルガーナの瞳に映る世界だった。


 彼女は何度も首をかしげ、位置を変えては、暗い影をしげしげとのぞき込んだりしている。

「人間」

 どこからともなく、男の声が聞こえた。

 びくりと跳びはね、だれもいないはずの、ピンク色の壁紙の部屋をぐるりと見渡してみたけれど、やはり人の姿はない。

「お前の望みをひとつ叶える代わりに、俺の願いをひとつ、叶えてくれ」

 ガサガサに荒れた指が背筋をなでていくような、薄気味の悪い声は、影から聞こえてくる。

 フェイメルは床にできるだけ顔を寄せて、まるで小人にささやきかけるように、「だれかいるの?」と尋ねた。

「そうさ、お前のすぐ近くにいる」

「わたしのおねがい、なんでもかなえてくれるの?」

「ああ。なんでも叶えてやる」

 それを聞くや、視界が少し広がった。それからフェイメルは、ウサギが慌てて跳ねるように、勢いよくぴょんと立ち上がった。

「じゃあ、わたしをじゆうにして! わたし、ダンスのレッスンも、魔方陣のおべんきょうもしたくないわ」

 毎日うんざり、という不満のこもった口調も、なにやら微笑ましく感じてしまう。

「自由にすればいいのか。いいだろう、たやすいことだ」

「ほんと?」

「ああ、その代わりに俺の願いも叶えてもらおう――俺の名を呼べ」

「なまえ?」

「そうだ。そうすれば俺は敏(さと)い人間に気づかれることなく、そちら(・・・)へ入ることができる」

「ふうーん」

 少女は鼻を鳴らして、ちょっとだけ視線を泳がせた。その意味を理解するには、もう少しの年月が必要だ。

「俺は、人間の頂点に君臨する! 地獄では絶対手に入れられない玉座を、俺はこちらの世界で手中に収めたいのだ」

「……いいわ。なまえをよぶだけでしょ」

 そんなの簡単よ、とつけ加える。

「そう。そうだ、名を呼ぶだけだ……そうすればお前を自由にしよう。俺の名は――ヴァルベリト」

「……『ばるべりと』」

 刹那、影がゆらりと波紋をつけた。

 そこから五本の指が、音もなく伸びてくる。次いで腕、頭、胴、足。そうして全身があらわになった。身体は、地下室の入り口を思わせるほの暗い灰色一色で、目鼻はなく、およそ人間とは言いがたい、のっぺりとした人形のようである。

 それが口のあたりをカパッと開けた。

「ふはっ、ははは! お前のおかげで俺はこちら側に入ることができた。あちこちに仕掛けられた対悪魔用の強力な防護魔法はどうにも破れず、八方ふさがりだったのだ」

 節のない、つるりとした指が、フェイメルの左胸を軽く突いた。

「では契約の証をお前の胸につけよう。ただし、契約の破棄はできない」

 視線はぺたんこの胸へと下がった。

 襟(えり)ぐりの広い長袖ワンピース。そこから覗く鎖骨のすぐ左下に、円形の奇妙な模様がじわじわ浮き上がって、燃えるような赤い、逆さまの星型――逆五芒星(ぎゃくごぼうせい)が刻まれた。

「じつによい契約だった。その胸の赤い紋章は契約の証だ。闇の魔術……“死の呪い”だ」

「え?」

「さて、お前の願いを叶えにいこう。お前を自由にするため、お前を縛る両親を殺してやろうじゃないか」

「え、ちがうよ? わたしはじゆうにして、っていったの。パパとママはなにもわるいことしてないわ!」

 フェイメルの声音に、焦燥がはっきりと感じられた。

「しているさ。お前に望まないことをさせている。だから、両親を殺せばお前は自由に生きられるのだ」

「だめっ! そんなことしないで! じゃあ、けいやくはやめるから!」

 笑みの形を作っていた口が、やにわに失せた。

「……契約の破棄はできない、といったはずだ」

「そんなの、しらない!」

「全身の骨を砕いて、指を一本一本切り落として、命乞いができるように生きたまま焼いて、お前の両親はできるだけ無残に殺してやろう」

「だめ、だめっ! わたしなんでもするから、パパとママに、なにもしないで!」

 泣き叫ぶ声を聞いて、灰色のそれがまたニンマリ嗤う。

「いい子だ……お前は俺の手足となれ。言うことを聞かなければパパとママの命はないぞ? 胸に刻んだ呪いは、お前が俺を裏切ったときに力を発揮する……忘れるな、死の呪いで死ぬのは、お前だけじゃないのだからな」

 小さな手が左胸を押さえる。

 手の甲にぽつっと涙が落ちた。


「人間は愚かで、容易い……俺は、人間の上に立ち、人間の王となるのだ……!」


 天と地がぐるりとひっくり返ったような錯覚――場面が変わった。


「お前は優秀な娘だ。祖父は国軍将軍、父は魔法司法省の副大臣……いや、次の大臣だったな。しかし軍への出入りがこうも簡単とは……ほんとうに優秀な娘だ……」

 精錬された調度品が配置された広い執務室。その中央で、軍服に身をつつんだ中年の男が、両ひざをついて虚空を仰いでいた。

 見開いた目に光はなく、男はただ宙を仰いでいる。

 その光景を、涙をためて見つめるフェイメルは、しゃくりあげる声を必死に堪えていた。だから、ときおり深閑とした部屋に、珍獣の鳴き声みたいな嗚咽が聞こえてくる。

 灰色のそれ(・・)は、白髪混じりの男の口から、身体の半分をすべり込ませていた。あたかも羽虫の羽化や脱皮を逆再生で眺めている気分になる。

 あっという間にすっぽり納まると、男はひざに手をつき、むっくりと立ち上がった。


 地獄に肉体を置いたまま、こうして悪魔は人間界で器(うつわ)を得るのだ。


「パパにおなじことしないで……」

「お前がいい子(・・・)でいたなら、しないさ。それに、この器があればじゅうぶん……今から俺は――いや、私は、ソーナ・ペンドラゴン提督と成ったのだから……!」

 軍服にいくつものきらめく勲章をつけた男――北国国軍の総指揮官は、悪魔の笑みを浮かべた。


 ふたたび世界が暗転した。



「お父さま……ごめんなさい」

 まだいくぶん幼さの残る声ではあるが、確実に少女へと成長していた。

 その声は、ふるえている。

 薄暗く、殺風景な真四角の部屋の中央に、ベッドがぽつんとひとつ置かれていた。

 少女の父親はベッドの脇にひざをつき、上半身を投げ打つように預けている。ゆったりとした紫色のローブの下で、ふくよかな身体がぶるぶるふるえていた。

「どうしてフェイメルがあやまるんだい……ああ……こんな……エルメラ……彼女が死んでしまったのは……天の、さだめだったんだ……」

 彼は妻の青白い身体を抱きしめながら、おおお、と獣の慟哭のような声をあげた。

 その光景を、少女は離れた場所からぼう然と見つめている。

 そして、のどの奥からしぼりだすように、懺悔(ざんげ)するのだ。


「ちがうわ……お母さまに、呪いと、あの悪魔のことを話したから……わたしが、話してしまったから……」


 フェイメルが、まぶたを落とした。


 またもや世界が、暗くなる。


 場面の変化は目まぐるしく、今度はうっそうと茂った森の中に立っていた。

 北国の木々はほとんどが丸裸で、こうして葉が落ちていないのは、闇の力が濃い“針の森”と、保護魔法のかかっている校舎裏の森だけだった。

 そこで、フェイメルはじっと一点に神経を注いでいた。

 刺青だらけの浅黒い肌にとがった耳、燃えるような赤い髪と両眼、ギザギザの歯をむき出してこちらを――フェイメルを凝視するのは、まごうことなき、悪魔である。

「どうしてあなたがここにいるの……ヴェルデ……!」

 いつもの聞きなれた品のある声は、どうしようもないくらい、ふるえていた。

 ヴェルデと呼ばれた悪魔は、つかのま黙したあと、忌々しげにくちびるを歪めて軽く舌を打つ。

「……なるほど、ヴァルベリト様の呪いを受けたお前なら、悪魔の気配を辿って来れるか……だがこの計画にお前は不要だ。邪魔をするな」

「こんなこと、聞いていませんわ……みなさんを傷つけないで……!」

 ヴェルデが眉をはね上げる。

「傷つけないで、だぁ?」

 一歩つめ寄る悪魔に、フェイメルは警戒心をまとわせ、じりっと後退した。

「ハッ、やっぱり人間は信用ならねぇな。なあ? 裏切り者……」


 ブツッ、と意識が途切れたように、視界が閉じた。


「これは……パーシヴァル卿にいただいたものですわ……」

 うす闇の世界に、フェイメルの緊張した声が響いた。一つ一つの文節がさも壊れ物であるかのように、ひどく神経質に言葉を紡いでいるのがわかる。

「あの小賢しい低級悪魔か……そんなものは捨てるのだ」

 声は、渋みのあるペンドラゴンのものだった。

「つねに身につけるようにと……外せば疑われるやもしれません」

「なにが入っている……?」

 問われた刹那、首に下げた金色のロケットペンダントに視線を落とす。

「それは――」


 ここで声は途切れる。


 ふたたび視界がひらけたとき、ガラスを一枚隔てたその奥に、広い執務室が見えた。だが以前より薄暗く、重苦しい雰囲気が漂っている。

 霜の張る窓を背に置かれた執務机。

 革張りの椅子に腰を沈める男は、指を組みあわせ、こちらを矢を射るようにじっと見ていた。その目が一瞬、怪しい光を放った。

「シキ・ヴァグナーの正体は間違いなく黒竜王ですわ」

「なぜ断言できる?」

「……彼が怪我をしたとき、傷がすぐにふさがりました。世界の理(ことわり)において、自己治癒力をもつ生き物は黒竜王のみ」

「ほおう。黒竜王が魔法学校に……あの下級悪魔が連れて来た子供がそうだというのか?」

「はい」

 フェイメルによどみはない。

「……まあ、お前がいうのだ、信用しようじゃないか」

「はい、閣下」

「いい子(・・・)だ……私を裏切れば、犠牲になるのはおまえではなく、司法省大臣であるモルガーナ裁判長だということを、ゆめゆめ忘れるな」

 ペンドラゴン提督は椅子をくるりと回し、背を向ける。その瞬間、夢から覚めたように目を見開くフェイメルが、鏡に映りこんでいた。

 藍色の双眸をそのままに、おそるおそる口に手をあてがう。

「そんな……いま、わたし……どうして? ……シキくんの、秘密を……!」

 よろめくように、一歩足をひいた。

 女子トイレの一番奥の鏡は、長かった髪が肩まで短くなったフェイメルだけしか映していない。


「……ごめんなさい、ごめんなさい……シキくん」

 ささやき声は、なぜだか、まだ幼かった頃のフェイメルの声のように感じられた――。



 またも、暗転。


 “愛するフェイメル

 日中、おまえが心配して訪ねてきたときには濁してしまったけれど、やはり知っておくべきだと考えなおしたので、ここにしたためる。

 この手紙が届くのは明日の朝方だろう、つまり、これを読んでいるきょうの午前十時に、国立魔法学校セラフィト・ガヴェイン校長の諮問会議をとりおこなうことが決まった。おまえも学校に通う身だから不安だろうが、気にすることはない、軍の圧力が強まっただけなのだから。

 父より”


「どういうこと……? お父さまのところへは、わたし、訪ねていないのに……」

 不可解な一文を見つめていたフェイメルは突然、弾かれたように顔を上げた。

「わたしのせいだわ……校長先生をおとしいれるつもりなんだわ……!」


 まだ早朝であろう、しんと静まり返った薄暗い廊下で、フェイメルは闇をかき分けるようにあたりを見回す。部屋番号のプレートを掲げた女子寮の部屋たちは、まだ眠っていた。

「きっとわたしがシキ君の正体を告げたから、動き出したんだわ……」

 朝方の薄闇を悄然と見つめ、それから指先にとまる小型の伝書鳥に目をやった。

 いよいよ手紙を持つ手がふるえだした。


 もしもガヴェイン校長がなにかしらの罪に問われでもすれば、学校はどうなるだろう?

 それこそソーナ・ペンドラゴンの独裁国家が誕生してしまう。

 そうなったとき、アリアに、ユーリに、ウルトに、そして、シキにもう一度会うことはできるだろうか?


 フェイメルはごく短い時間で、次々と湧き起こる疑問に抑えきれない不安を抱いたのだろう。

 それからの行動に、ためらいは一切なかった。

 

「移動せよ!」



 廊下は燭台に火が灯っているだけで、かなり薄暗かった。

 フェイメルが左右を確認しても、兵士たちの姿はなく、おそらく働き出すにはまだかなり早い時間なのかもしれない。

 壁にぴったりと背をつけて、寮の部屋で履くサンダルを脱いだフェイメルは、足音を殺して、ある部屋の前までやってきた。

 仰ぎ見た先に、「提督執務室」と書かれた真鍮製のプレートが、不気味に燭台の光を反射している。

 耳をそばだてた。


「そうだ。やつらは学校の庇護があると、たかをくくっている。だがこれであの老いぼれ婆(ばばあ)を排除し、黒竜王を手に入れることができよう……! この小瓶ひとつで、私は北国を手に入れるのだ!」


 渋みのある男の声はいつになく高揚しているようだった。そして恐ろしい言葉を朗々とつづける。


「昨日はよくやってくれたな、キエよ。強固な魔法省の警備も、魔法司法省大臣であるモルガーナ裁判長も、愛娘の前ではもろいものだ……あっさりと内部に通してくれるのだから」

「ありがとうございます、閣下」

 女の声には聞き覚えがある。

 元卜占学教諭、キエ・グェネヴィアの甘ったるい声だった。

「おまえが上手く大臣の娘(・・・・)を演じてくれたからだろう」

「いいえ、閣下の変身魔法が完璧だったゆえでございます」

「北国の秘宝が司法省にあることは、とうに知れていた。あとはどうやって持ち出すかが問題だったが……これほどあっけないとは、拍子抜けだ」

 ペンドラゴンがくつくつとのどを鳴らせば、キエが猫なで声で肯定する。

「この血の小瓶さえあれば、北国はもう閣下のもの……国王となる日が、待ち遠しいですわ」


 フェイメルはふるえる自分を抱きしめるようにして、口の中で小さく詠唱した。


「では閣下、のちほど」


 扉から出てくるなり、さっと四指をそろえて敬礼した軍服の女性は、亜麻色の髪を翻してそのまま廊下を颯爽と歩いていった。

 顔面すべてを覆う仮面をつけた女――キエ・グェネヴィアは、透明魔法で姿を隠したフェイメルにまったく気づくことなく、廊下の角を曲がっていった。

 そして、扉が完全に閉まってしまう前に、急いで執務室に目を投じた。部屋にはペンドラゴン提督ひとり。彼は窓からホロン山を、いや、山を背に鎮座する王城を眺めていた。

 執務机の上に目を移すや、フェイメルはふるえる指をもう片方の手で支えて、素早く文字を連ねる。

 “複製”、“入れ替え”の、難易度が高い複合魔法。


 自身の手の中に出現した北国の秘宝をまばたきひとつで確認し、扉がしずしずと閉まる直前、執務室へと射るように視線を投じた。その一瞬で、机の上に手の中のそれとうり二つの小瓶を見とめるや、すぐさま移動魔法の呪文を唱えた。



 黒い液体が入った透明の小瓶を、いまだにふるえる両手で握りなおした彼女は、なにか恐ろしいものから身を隠すように、急いでベッドにもぐりこんだ。

 視界は暗い。

 水を打った静けさの部屋には、アリアの心地よい寝息がやけにはっきりと聞こえる。


「……ああ、だれか、助けて……!」


 心の底から切に叫んだ声は、彼女自身で口をふさいでいるのだろうか、か細く、いまにもこのまま消えてなくなってしまいそうに、かすれていた。


 蛇口からぽつ、ぽつ、と落ちゆく水音に似た嗚咽が、朝方の静謐(せいひつ)な空気をふるわせる……。


 

 ほどなくすると、目もくらむまばゆい光が視界いっぱいに広がった――。


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