謎解き
フェイメルをおぶって、シキは雪山のなだらかな斜面を黙々とのぼりつづけた。ときおり、すぐうしろを歩くリジルの気配をそっと伺うくらいで、あとはひたすら無心で足を動かすだけだった。
火傷はすでに治癒したとはいえ、悪魔に襲われたショックと寒さまでは、さしものシキとてどうすることもできない。だからシムルのいる山頂付近まで、フェイメルを背負っていこうと決めたのだ。
はじめこそ丁寧にお断りされたものの、リジルの援護射撃が功を奏して、説得すること十数分、彼女は頬をちょっと赤らめながら、ようやく背にしがみついてくれた。
フェイメルの指先は火箸を押し当てたような、あまりにも痛々しい赤へと変色していた。むろんリジルの指もほとんど似たような具合だったけれど、「わたしは鍛えているから問題ない」ときっぱり言い放ち、黙々としんがりを務めている。
きっとその想いを汲んで、フェイメルはうなずいたのだろう。
「僕がフェイメルをおぶって歩いたって、ウルトにはないしょにしてよね?」
そういって肩をすくめると、シキの背中でふるえるフェイメルがくすっと微かに笑ったようだった。
それきり、三人は火の悪魔ヌボーが去ってからの出来ごとに一切触れず、ただ山頂へと歩みを進めていったのだ。
シムルの匂いは月桂幹という樹木の、緊張をほぐすような、やさしい香りと似ている。その匂いをたよりに、シムルを待たせていた場所へと、ようやく戻ってくることができた。
あれから何時間経ったのか、空のかげり具合で判断しようにも、白い雪雲で覆われているせいで、まだ日中なのか、すでに夕方なのかも判然としない。
岩にもたれかかるシムルは、シキが離れたときのままの態勢で目をつむっていた。
まっ先にリジルが駆け寄る。
「脈は正常のようだが……足が血まみれだぞ、彼の怪我は――」
「怪我は、もう治してあるから」
フェイメルを降ろしたシキは、尻すぼみ気味にいって、そっと親指を握りしめた。
「そうか……さほど顔色も悪くないし……無事ならそれでいい」
リジルがほーっと白い息を吐く。
「ここは風がほとんど吹いていないから、それだけでも本当によかったよ」
たしかに安堵がシキの胸にもじわりと沁みたが、まだ最大かつ最悪の問題が残っていた。
「でも、どうやって戻ろう」
「自力で下山するほかないのか……」
ゆるやかな稜線を描くその先に、なんとか第一セクターの影でも見えないかと、リジルがくちびるを噛んで目を凝らす。だが見えるものといえば、寒々とした白ばかりだった。
自力での下山以外に案はない。しかしそれは、今度こそ命を落としかねない絶対的な危険がはらんでいる。
ここは死の山、ホロン山。
――だれも助けに来ないんだろうか……ユーリやウルトやアリア、それにキリク先生は、僕たちが学校からいなくなったことに、いつ、気づいてくれるだろう?
「フェイメル、もういちど、移動魔法を試してみてくれないか」
リジルの苦い表情に、フェイメルは眉をくもらせてうなずいた。
ふたりにはとうに結果が見えているはずだった。それでも、リジルは言わずにはいられなかったのだろう。
「移動せよ!」
つかの間の静寂。膝は雪に埋もれたままだった。
魔法で戻ることはできない。だが、魔法が使えないのなら、どうやってここへ?
寒さで思考が鈍っているせいか、まったくもって良案が閃く気配はなかった。
無事に下山する方法すら見いだせないというのに、そのくせシキの心臓は、急かすようにけたたましく警鐘を鳴らしている。それを少しでも落ち着かせようと、左胸に手を置いたときだった。
手にあたる、硬い感触。
「なんだ……?」
違和感は上着の、校章がついた外ポケット。
そういえば、ハンカチを探す際に、外ポケットは検めていなかった――。
なにが入っているのだろう、急いで手を滑らせ、それを目の前に掲げた。
大きく見開いた目の中に、まばゆい光を見た気がした。
くすんだ鏡面、それでいて精緻で意匠を随所に凝らした木枠は、息をのむほどに美しい。
手のなかに収まるそれは、レディ・カラマンシカの手鏡だった。
たったひとつの希望はシキのすぐそばに、あった。
「みんな……!」
警鐘は、いつの間にやら、高揚の音色に変わっていた。
*
「あの山は、ホロン山だった。
ホロン山の資料は嫌というほど見てきた。ペンドラゴン提督が竜王の捜索をはじめた十年前から現在にいたるまでの膨大な資料を……先の冬に、わたしの部下たちも資料の一部になった……生きた証を残さず、消し炭となって……。
炎の泉はホロン山にある。黒竜王が生まれ、王城に降り立つまで育つ場所……ゆりかごとはよくいったものだ。
炎の泉を守っていたのは、あらゆる炎を扱う、上級悪魔ヌボー。そして、この悪魔が必死に捜していたものは、黒竜王だった。
ヌボーは『黒竜王が奪われた』といって、ホロン山をさまよっていた。いつからいたのか、いつからさまよっているのかは、知らない。だがきっと、北国に対悪魔用の防護魔法をかけるより、ずっと前から北国に存在しているのだろう。
吉鳥ファルケスが鳴くのは、竜王が復活したときと云い伝えられている。
前黒竜王が逝去して百と五年、吉鳥の声は一度たりともあがっていない。もしヌボーの話が真実なら、炎の泉に新たな黒竜王がいて、何者かがさらっていった。おそらく、まだ復活前の黒竜王を……。ファルケスが鳴いていない理由は、そういうことかもしれない。あるいは、さらった何者かが、吉鳥をどうにかして黙らせているのかもしれない。
われわれ軍を含め、国民に知られることなく、薄い膜を一枚隔てたところで様々なことが起こっていた。
ならば、だれがさらった?
炎の泉はだれにも見つけることができない、秘境にあるといわれている。あんな上級悪魔が守護していたということがわかったいま、無理からぬことだったと思うが……。
実際に泉を見たわけではないが、そこは強大な炎に包まれ、触れることさえできないという。云い伝えによると、その炎は地獄の王たる、三大悪魔が持つ力と同じものだそうだ。触れることができるのは、泉を守る火の悪魔と、三王だけ。
ヌボーでないならば、三王のいずれかになる。
なぜ、悪魔が黒竜王を……?
――シキが黒竜王……。そう、あのシキが……。
彼は自分の存在がなんであるかを、知らない。北国の竜王だと、知らないで生きている。彼は自分の血が他者の傷を癒すということが、すなわち竜王である証だと知らない。そんなことができるのは、世界でたったの五頭の竜王だという、あたりまえの常識を、知らされていない。
彼の父が、教えなかったのだろう。だれにも知られてはならない秘密として、堅く守らせていた。
では、彼が父と呼ぶものはだれだ?
キリク・パーシヴァル男爵か?
いや、そもそも彼の父は亡くなっている……しかし、彼を魔法学校に連れてきたのはパーシヴァル卿だと聞いた。かかわりがないはずがない。もしかすると、パーシヴァル卿はただの低級悪魔ではないのではないか?
“キリク・パーシヴァル”とはもうひとつの名で、真の名が、べつにあるとしたら?
……たとえば、地獄の三王――“閣下”アスタロト、“君主”バアル・ゼブル、“帝王”ルキフェル……あまりにも、信じがたい……。
もし……もしそうなら、一体なんのために黒竜王を魔法学校へ?
彼は――わたしの友は、まるで、ただの人間の……心おだやかな、どこにでもいる十七歳の少年ではないか……」
思考の深淵に立って、仕掛けられた謎を解き明かそうとする深海色の瞳は、見る者の魂を奪ってしまうほどに魅力的だった。
凍傷寸前、疲労困憊にもかかわらず、毅然と屹立する姿には、軍人としての誇りを垣間見ることができる。
さすがは北国において、もっとも誉れ高い竜騎士の称号を受け継ぐ、名家トリスタンの嗣子。精霊を従える彼女の魂は何者よりも清らかで、何より麗しい。
キリクはすいっと指を動かし、彼女のために教務室の室温をそっと上げた。
「『北国に黒竜王は在る。すでに炎の泉を離れて存在している』、これは二年前、ド・モルガン薬品店の店主から占いで、告げられたことばだ」
リントヴルム・トリスタンは、射るようにキリクを見やった。
「パーシヴァル卿、どこからがあなたの仕業だ?」
彼女はけっして怒りに飲み込まれているわけではないのに、その語気は烈火のごとき強さをふくんでいた。
それがキリクの胸の内に眠る記憶を撫でていったとき、くちびるから、ふっと空気が抜けるように、可笑しさがこぼれた。
「……昔、同じようなことをいわれたことがありました」
「あなたは、なにをたくらんでいる?」
キリクは微笑をたたえたまま、空色の目をすうっと細めた。
「私は、冬の終りが見たいのです」
彼女が目を見開く。それを見とめて、キリクは紳士の笑みをいっそう強くする。
「凍てつく国の、冬の終りを――そのために、わたしはここにいる」
「あなたは、何者だ……?」
「……トリスタン嬢、貴女はよい竜騎士になるでしょう。きっと、彼のカラマンシカ嬢よりも」
「……まるでわが祖を知っているような口ぶりだな」
「そうですか?」
くすくす笑えば、氷の女王様は冷え切った臓腑から、長く息をついた。
「本当に、食えない悪魔だな、あなたは」
「褒め言葉として、ありがたく頂戴しましょう」
最後に冷え冷えとした一瞥を浴びて、キリクはひとり、魔法学教務室の扉が閉まるまでを、無言で見つめた。
じわりと、夕暮れが北国に訪れようとしている――。
その夜、月は完全に姿を消していた。
「卿……」
呼びかける声に、キリクは緩慢な動作で半身をひねってふり返る。
教務机に羽根ペンを持つ片手を残したまま、扉の前に礼儀正しくおすわりをするリムリットを見つめ返した。
「……フェイメルとシムルはどうでした?」
「養護教諭のアイゼンが、手を焼いておりましたよ」
「手足が壊死する前に戻ってこられて、なによりでした」
リムリットは顔色ひとつ変えずに、しげしげとキリクを見つめている。
「シキの様子は、どうです?」
「……なにやら、元気がないようです」
その理由を、キリクはよく理解していた。
友の命を助けるために、シキは自分の秘密をおのれの手で暴いてしまったのだから。
――あの子は自己犠牲のきらいがある。それが正しいことだと、信じて疑わない。矛盾に、自分で気づかなければ……。
「……そうでしたか」
少し離れていた意識をゆっくり戻して、キリクはふたたび教務机に向き直った。
「それはそうと、ホロン山の様子がわからなくて、ずいぶん気をもんだのではありませんか?」
さりげなく、何気ないふうに尋ねれば、背中越しでかすかに身じろいだ気配があった。
「いえ、卿を信じておりますゆえ」
だが、それをおくびにも出さないのが、この部下の妙妙たるところだ。
「おや、殊勝ですね」
「ただ……卿からシキを守らずともよい、といわれて待っているあいだ、すこしばかり、虚しいものがありました」
キリクは弾かれたように、今度こそ半身すべてをリムリットに向けた。
しばらく押し黙ったのち、苦笑を浮かべて軽く頭をふる。
「わが右腕ともあろう者が、ずいぶんとかわいらしいこと言うようになりましたね」
「なっ……! どうせ、卿だっておれと似たようなものではありませんか!」
「おや、おまえと一緒にしないでほしいものですね」
ニヤニヤ笑いかけるキリクに、アーモンド形の赤い双眸が憎々しいといわんばかりにねめつけてくる。
「ああ、そういえば」
わずかに微笑を口元に残して、するりと流れるように切り出した。
「ヌボーはまだホロン山をさまよっていましたよ……あれから十七年、経ったというのに」
「そうでしたか……あれは、もはやおれの部下だということも覚えていますまい。竜王のたまごを守りつづけて、己が悪魔であることさえ、忘れてしまっているかもしれません……」
(それは、おまえ自身ではないか?)
腹のうちで問うた。
おまえは私の部下であって、帝王傘下のおびただしい悪魔を束ねる、宰相なのだ。
シキを北国に無事に連れてくるまで、という期限付きの護衛だったというのに。
おまえはなおもシキを守りつづけ、われらが本来在るべき場所に戻ることなく、いまもシキの友でありつづける。
もっとも、それを許可したのは、ほかでもないこの私だ――。
(それが、知らず水面に投じた小石だとしたら?)
浮かんできた疑問を、忌々しいものを踏みにじるように、キリクは奥歯で噛み潰した。
「ヌボーには悪いことをしました。そのうち、謝罪せねばなりませんね」
猜疑心を腹の内に留め、努めて朗らかに笑ってから、教務机にからだを戻した。
ウルファート・リンデルの答案用紙にペケマークばかりを書き込む作業にふたたび取りかかったとき、恭しく頭を下げ、ふうっと霧散する気配を背中で感じた。




