急襲
「魔法司法省に?」
「ええ。司法省で緊急の諮問会議を行うとの通知じゃ」
封蝋を外したばかりの手紙を見つめるガヴェインのまなざしは、北国の急峻な山々よりも、はるかに険しいものだった。
教務机の上で、血管が浮き出るほどにきつく右手が握りしめられている。
「こんなよくわからぬ議題で呼び出しとは……」
竜王不在の北国で、第一権限をもつ魔法学校校長がこの通知書を受け取ることなど、そもそもありえない話だった。だから、早朝にいきなり校長室へ呼ばれたキリクもまた、羊皮紙を見つめるまなざしはおのずと険しくなっていた。
夜の明けきらぬうちに飛んできた軍の伝書鳥、ジェットショットはそんなふたりをまるで意に介さぬふうに、窓際に置かれた止まり木で、ガラガラマドンの生肉をついばんでいる。
「ペンドラゴンが動いたと考えるのが筋でしょう」
「……拒否権は?」
「あってないようなものです。わたくしがごねたところで、あやつは退くまい……今回は魔法三法大臣と軍の将軍以上の可決による、強制招へいですからね」
「なぜ……」
「いま、あやつが動くはずがない、とおっしゃりたいのですか?」
金色の瞳にまっすぐ見つめられ、キリクは知らず知らずのうちにくちびるを引き結んでいた。
触れればなにかが弾けてしまうほどの、しびれるような静寂がふたりのあいだにある。それを破ったのは、ガヴェインのほうだった。
「……わたくしが学校を離れれば守りが弱まります。ジンだけでは対処できますまい。双蝕を前にして仕掛けてくる可能性はおおいにあります……ルキフェル、あやつを見誤ってはなりません」
「すべての手駒は私の手の内にあるのです。双蝕でもない、いま、やつに打つ手など――」
「ルキフェル! もはやあなたの思うとおりには進んではおらぬのです!」
「セーラ……私にまちがいなどはない」
「思い上がりじゃ!」
ガヴェインが執務机から勢いよく、立ち上がった。
頬をばしんと叩かれるような痛烈な言葉を浴びて、キリクは一度、目をまばたいた。
温和な彼女がここまで怒ったことなど、いまだかつてあっただろうか。いや、なかったはずだ。
彼女はキリクと違い、この北国を心から愛している。
だからこその、怒りだろう。
「……そう、なのかもしれませんね」
キリクは素直に、ガヴェインの批判を受けとめた。
「私はあの子がなによりも大切です……私自身がそうと気づいてしまった。これが貴女のおっしゃる情や愛というならば、否定はしません。リュシフュージェがあの子に『ヴァ・グナー』と唱えたことを愛ゆえというならば、そのとおりなのでしょう。私はあの子にまだ安寧の箱庭で育ってほしいと願っている……そして、まだ学校がそうであってほしいと望んでいる……。
もし、いま、私の筋書きに歪みが生じているとしたら、それは私が人間のような感情を抱いたせいかもしれない……あるいはもっとべつところに種が撒かれていたのかも……」
キリクはガヴェインから視線をそらして、大窓の向こう側をただぼんやりと見た。
「だが、まちがった未来など、絶対にあってはならない……」
ガヴェインは目を見開いたまま、ぼう然と悪魔の言葉を聞いていた。
悪魔であるキリク・パーシヴァルが「愛」を語るなど、彼女には信じがたかったのだろう。
しばらく押し黙っていたガヴェインが、静かに息をついた。
「わたくしはこの北国を、このまま朽ちさせるわけにはゆかぬのです。だからルキフェル、あなたと手を組んだ……あなたが彼を――あの子を愛するように、わたくしもこの学校を――いいえ、北国に住まう人々を愛しているのです」
ふと思い立ったように、ガヴェインは止まり木のジェットショットを片腕に乗せ、背後の大窓に向かってその腕を大きくふりかぶった。
翼を広げた伝書鳥は、まるでそこにガラスがはまっていないかのようにすり抜けて、見渡すかぎり灰色の大空へと、悠々舞い上がってゆく。
つかの間、どんどん小さな点になってゆくジェットショットを、ふたりは大窓越しに見つめた。
「ソーナ・ペンドラゴンにこの国を渡すわけにはまいりません」
「……ええ、もちろんです」
ゆっくりとふり返ったガヴェインは、空色の瞳をしっかりと見やり、小さくうなずいた。
「……ならば託しましたよ、パーシヴァル先生」
表情を険しくしたまま、ガヴェインは首元のリボンをきゅっと直し、若葉色のマントを翻す――。
かくして、彼女は午前八時、魔法三法省が置かれる第一セクター中心地区へと馬車を走らせた。
もちろん、それが敵の罠だと知っていて。
*
その日、朝から空は暗かった。
シキをはじめ、フェイメルもシムルも、ホロン山でのできごとを一切口外しないまま、あれから一週間が飛ぶように過ぎていた。
もちろんだれかに口止めをされたわけではない。それでも、それぞれ何かしらの思いがあって、あの日の記憶をおのれの中だけにとどめている。
シキとしては、自分がどんな存在かを再確認するのも、フェイメルやシムルの口からそれを聞くのも、たまらなく怖かった。だからふたりが何も語らずに一週間が過ぎたいま、やっと胸がすく思いだった。
アバロンのファクローに嫌われるくらい、どうってことはない。
でも、ユーリたちに拒絶されてしまったらと考えるだけで、まだ起こってすらいないことにも、胸に鈍痛が走るのだ。
屋内競技場の天窓から見える色は、気分が滅入るようなうすら寒い灰色だった。
フェイメルの藍の眼は、そんな暗澹たる空をぼんやり映している。
「フェイメル、具合よくないの? 少し顔色が悪いみたいだけど……」
目の前に立てば、ようやくフェイメルはシキの存在に気づいて黒瞳を見つめ返した。
わざわざ目につくようにそばへ寄ったにもかかわらず、その輪郭すら彼女には映らなかったらしい。
「シキ君……」
「だいじょうぶ?」
「ええ、すこし、ぼーっとしていて……」
肩よりも短くなってしまった白銀の髪がさらりとゆれた。
「ん、それならいいんだ」
微笑を浮かべるフェイメルに、シキは同じようにほほえみ返した。
一時間目の魔法学の授業は、西塔のとなりにある屋内競技場での、魔法とはまったく無関係の持久走――キリク・パーシヴァル教諭お得意の、かなり独断専行の内容だ。それを途中で棄権したフェイメルは、体操着姿のまま、トラックの端でひとりぽつんとひざを抱え、休憩していたところだった。
「おいコラ、シキィー!」
やけに荒い叫び声を背中にあびて、シキはそれほど急ぐでもなく首をひねると、ちょうどコーナーにさしかかるウルトがいた。
「サボってんじゃねーぞ!」
ヒィヒィあえいで、いまにも仰向けに倒れそうなウルトと、その前を走るユーリは大粒の汗を浮かべてコーナーを曲がっていった。
『トラック何周できるかデスマッチ』中だというのに、余裕しゃくしゃくで立ち止まったことが気に食わなかったのか、はたまたフェイメルと話をしているのが気に食わなかったのか――答えは考えるまでもなく、後者だろう。
「ごめん、いま戻る!」
「ったりめーだ、ニャロォー……」
ゆっくり遠ざかるウルトの声を背中に聞いて、シキは上着のポケットから引っ張りだしたふかふかのタオルを、フェイメルに差し出した。
「よかったら使って。僕はそんなに汗かいてないから」
「え?」
「あっ、だいじょうぶ、まだ使ってないよ! それにほら、汗が冷えると、風邪ひいちゃうだろ?」
「……ご自分のために用意したタオルじゃ……?」
「ああ、僕は平気、必要になったらユーリの借りるよ」
無駄に気を遣わせてしまわぬよう、シキはやんわりと笑ってみせた。
その意図に気づいてだろうか、フェイメルがぱちくりと丸めた目を、やわらかく細める。
「……シキ君は、本当におやさしいんですね」
そういって受け取ったタオルを、フェイメルは大切なものを抱きしめるようにぎゅっと胸に押し当てた。
ただ、ふだんどおりに見えるそのほほえみに、些細というにはあまりにも小さな不安を感じた。それがシキの胸を舐るように、ゆっくりと撫でていく。
――フェイメル……なんでいま、無理して笑ったんだろう……?
一時限目の持久走を終え、制服に着替え終えたキャメロットの生徒たちは、冷えた汗にふるえながら、寒い寒いとぼやいて二時限目の授業、三階の薬草学室へ向かっていた。
日常を乱暴に破壊する音があがったのは、そんなときだった。
防護魔法のかかった窓ガラスが突然割れて、豹の体に蛇の尾をもつ魔獣が、薬草室を前にした廊下へ飛び込んできた――むしろ、外から吹き飛ばされてきたような。
遅れて、粉々に砕けたガラス片が篠突く雨のごとく、真横からシキらに向かって襲いくる。
魔獣の巨体が教室の扉に衝突するのと、方々であがる悲鳴と、ユーリとハリスの詠唱はまったくの同時だった。
「盾となれ!」
数秒間の、バチバチとガラス片が弾ける音。
カチャンと小さく鳴ったが最後、あたりの音が一切失われたと感じるほどに、廊下はあまりにも静かだった。
シキが顔の前にかざした腕をそっとよけると、まずハリスの広い背中が目ついて、それからユーリの凛とした背中が飛び込んできた。
その場にいたクラスメイトたちも息をつめたまま、ぼう然と割れた窓ガラスを見つめている。
その静寂もつかの間、教室の扉を破壊した魔獣がのっそりと身体を起こした。
「ホランドの――ベルクルか?」ユーリがちらりとシキを見て、いう。
「うん、でも……怪我してる」
ベルクルが全身に負った切り傷は、魔法がかかった窓から無理やり進入したためなのか、それともどこかで負った怪我なのかは、わからない。
魔獣は被毛についたガラス片をぶるぶるっと荒っぽくふり払うなり、巨大な口をがばりと開けた。
『全教員ならびに全校生徒! ただちに避難しろ! 悪魔が防護魔法を突破しやがった――襲撃に備えろ、いいか、悪魔が――』
声は、そこで途切れる。
それは、ジン・ホランド教諭がこの学校のすべての者へ向けた、けっして穏やかではない校内放送だった。
「え――悪魔?」
「うそだろ……でも避難って――」
「まさか、悪魔は入ってこれないじゃん?」
「だけど悪魔が現れたっていってたよ?」
「ねえ、ホントに避難したほうがいいかな?」
にわかに校内がざわめきだす。
「ユーリ、ウルト……いまのって」
「悪魔やと……? まさか、でも、ホランドが……」
シキとユーリが互いに顔を見合わせるそばで、後肢を引きずるベルクルが割れた窓から力いっぱい跳躍した。
「おいおい、ベルクルがどっか行ったぜ――あ……? なんだよ、これ――」
ウルトがすっとんきょうな声をあげて、床を指さす。
廊下にじわりと黒い影が生まれたかと思うや、そこから顔の大きさくらいの、赤黒い色の丸いものがあたまを出すようにひょっこり現れた。
ホーネットで使うボールみたいだな、などと考えるシキは、この時はまだ事態の深刻さが小指の先ほども理解できずにいた。
それはあまりにも唐突で、あっけない日常の崩壊なのだから。
「みんな、逃げなさい! 悪魔です……! クロムガは生きたものを腐らせる……さあ、早く大講堂へ! 逃げなさい、悪魔が――悪魔が来ます!」
薬草学室から飛び出してきたメメリコーレ先生が、かすれ声で叫ぶ。
大声を張りあげることなどめったにしない温厚な先生が、こうも取り乱すこと自体、異常ともいえた。
赤黒い悪魔クロムガが、廊下や壁、天井を埋め尽くすように現れ、生徒たちの悲鳴がそこらじゅうであがった。
ほどなくして、悲鳴は絶叫へと変わってゆく。
そこへ、校舎の外のみならず、校内に続々と黒いマントに身を包んだ者達が衣擦れの音を引き連れ、現れた。
「闇の魔術師だ!」
だれかが叫んだ。
混乱した生徒達が廊下にあふれ返ると、シキは人の波に押され、もみくちゃにされ、気づけばユーリやウルトを見失っていた。
*
ひと言で言えば、ヒリヒリと肌を焼くような感覚に近かった。
闇の魔術師の気配は悪魔と似て非なるもので、独特のトゲのようなものを含んでいる。それでいて、悪魔以上に狡猾というのだから、敵に回せば厄介この上ない。しかも、中には気配を断つ技をもつ者さえ存在するのだ。
そう、さながら地獄の三大悪魔のように――。
それは、一時間目の授業が終わって、キリクが三階の自室へ戻ったときだった。
何気なく窓から見下ろした玄関口のエントランスに、黒いマントを頭から被った人間が立っていた。
その人物もまた、くっとあごをもち上げ、魔法学教務室を仰ぎ見た。
フードの奥でわずかに覗く、暗く、てらてらと光る飴色の双眸が、すこし褪せてしまったキリクの記憶を鮮明に色づけしてゆく。
「――ケイル……!」
反射的にキリクが教鞭を懐から抜いた瞬間、ケイル・オルデンはそれをあざ笑うかのように、校内にぱっと身を躍らせた。
直後、おびただしい悪魔の気配が校外を一挙にとり囲む。
ジンの拡声魔法が魔法学校の敷地内に響き渡ったのは、キリクが移動魔法で玄関ホールへ躍り出た瞬間のことだった。
「パーシヴァル先生!」
独特のきんきら声にふり返ると、アザリー教諭がボリューム満点の体を揺らして、生徒に「校舎正面広場へ!」と指示をしながら迫ってきた。
「教務室に伝達魔法をとばしましたのに、いらっしゃらないから、もう悪魔にやられてしまったのかと……!」
「それは失礼しました」
「詳しい理由はさっぱりですけれど、学校は悪魔と闇の魔術師に襲撃を受けていますわ……それに、ここだけではなく、全セクターに悪魔が出現したらしいのよ。軍はそちらの対応をするでしょう。だから校長先生が不在のいま、われわれだけで生徒達を守り、悪魔の排除をしなければなりませんわ! ちなみに教頭先生からの指示よ!」
「ほかの先生方は?」
「生徒の誘導にあたっている先生が半分、悪魔と戦っている先生がもう半分……わたくしたちはもちろん後者ですわよ!」
キリクがうなずくやいなや、アザリーは一瞬にしてその場から姿をくらました。
悪魔はクロムガ以外にもどんどん増えていた。
それらは愉快犯よろしく、校舎を競って破壊しながら進軍している。
しかも中庭や校庭などの敷地内には、悪魔に引き寄せられるようにして、もはや数えきれないほどの魔獣が集まっていた。
腐った体から発するすさまじい臭気が校内にも漂い、食堂前のフロアでキリクは顔をぐっとしかめた。
クモの姿をしたドーデンリン、意地の悪いリスに似たブロッキオ、小人のおじさんにそっくりなバズグズ――。
キリクはそれらの悪魔を蹴散らしながら、シキを探していた。しかし悪魔の攻撃は四方八方から、雨あられのように降り注いでくる。
焦燥がじわじわと胸に広がってきたとき、見慣れたうしろ姿が目に飛び込んできた。
「光りよ貫け!」
ジンの光魔術がドーデンリンの脳天に風穴を開けた。
「くそっ、キリがねえ――」
「光を集め、散りばめよ」
ジンの弱音にかぶせるようにして、増幅魔法の呪文が鋭く空気を伝播してゆく。その鮮烈な詠唱に、キリクは思わず息をのんだ。
にわかに悪魔の動きが鈍るや、ジンは迷うことなく腰のホルスターから鞭を抜き放った。
「光よ燃えろ!」
花崗石の床を鞭で打った瞬間、目もくらむような光が爆発し、あたり一面の低級悪魔たちは白熱をあびて、またたく間に灰となった。そうして、燎原の炎が延びるがごとく、廊下の直線上の悪魔が次々と葬られてゆく。
「チッ、助かった」
ジンは背後にちらと視線を送って、援護に駆けつけてくれた同僚――ハッズ・ベルガモット教諭に事もあろうか、舌を打った。
照れ隠しのつもりだろうか、今度は口をへの字に曲げたまま、ふんとそっぽを向く始末。
「こんな状況だ、遠慮はいらないさ」
「そりゃドーモ」
お世辞にも素直とはいえない同僚の性格を知っている幻魔獣学の教諭は、肩をすくめてみせると、苦笑の浮かぶ視線をキリクに送った。
それからベルガモットはすぐさま濃紺のマントを翻し、この場をあとにした。
「ホランド先生、私たちも行きましょう」
「おい、なんでオレがお前なんかと――」
「そんなに急いて、どこへゆくのです?」
キリクよりも少し高い、男の声。コツン、と靴音がひとつ鳴った。
頭の先からくるぶしまで、漆黒のマントをまとった人物が、二人の前にゆっくりと立ちふさがる。
「闇の魔術師か……! やっとお出ましとは、ずいぶん余裕じゃねぇか」
黒竜王のみに許される黒は禁色、それを堂々と身につける者は、闇の魔術師以外にありえない。
闇の魔術師はフードの下でくすりと嘲笑をにじませ、
「お久しぶりですね、パーシヴァル先生、それに、ホランド君……」
そう告げた。
「――てめえは……!」




