ホロン山(4)
「逃げようフェイメル、リジル!」
シキの合図を皮切りに、三人は岩かげから飛び出し、驚いて身をひねるヌボーの脇を全力で走り抜けた。
「だれぞ、貴様ら!」
悲鳴のような金切り声が背後に響いたかと思うと、ボンと炎の爆ぜる音が、シキの心臓をのどのあたりまで飛び上がらせた。その直後、魔獣の咆哮よりもはるかにおどろおどろしい叫び声が、影よろしく、ぴたりと追ってくる。
シキも、フェイメルも、リジルも前だけを向いて懸命に走った。それは、まさに命懸けの鬼ごっこ――捕まったが最後、どうなるかは想像に難くない。
ヌボーは雪上を板で滑るように、シキらとの距離をぐんぐん詰めてきている。
荒れ狂う炎の熱気がじわりと背中に近づいていた。
「――あっ」
フェイメルの足が、もつれた。とっさに、シキがその手をとる。
「フェイメル、がんばって!」
「……わたし、もう……」
冷や汗をびっしりかいた額に、つややかな前髪がはりついて、そのまま凍りついている。フェイメルの体力の限界はもうすぐだということが、ありありと見てとれた。
シキに代わって先頭を走るリジルもまた、限界点のギリギリのところにあるのだろう。寒さと緊張で、白い息がくり返し流れてくる。
この深い雪のなか、悪魔から逃げ切るにはどうすればいいか――答えはひとつしかなかった。
急に手を離された友がわずかにふり返ったとき、藍色の瞳を大きくしたのをそれとなく流して、シキは単独、直角に折れて立ち止まった。
「お前の相手になってやる、こっちだ!」
ヌボーめがけて、固く握った雪玉を力任せに放つ。ところが雪玉は炎の体をひゅんと突き抜けて、そのままの質量で雪の中に埋もれてしまった。
だが、ぴたりと動きを止めた悪魔は、ぐうっと上半身をひねった。その顔らしきところに血走った目玉がふたつ、ぎょろりと現れ、すぐさまぐるっと下を向いた。
「おのれ……!」
ヌボーの体から猛烈な炎が噴きあがる。
驚いてふり返るリジルに、「先に行って!」と叫ぶだけが、シキにとって最大限の配慮だった。
「なにをやっている、シキ! 早く戻――」
「リジル!」
彼女は悄然とした色を瞳に浮かべ、どうすべきが最良かを測りかねるように、硬直したままだった。だがシキは強い光を双眸に保ったまま、早く、と黒い瞳で訴える。
その意図を一瞬のうちに汲みとったリジルは、眉間に悲しげな溝を刻んで、苦渋の決断をするのだった。
「シキ……すまない……!」
短剣を腰の鞘に戻してフェイメルを支え、リジルが全力で駆け出す。
シキを呼ぶフェイメルの悲痛な声が、だんだん遠のいていった。
一方、ヌボーの注意は完全にシキに向いていた。むろんこの状況を自分一人でなんとかできるとは思わなかったが、ふたりが逃げるために少しでも時間を稼げるならば、それでいい。
ウルトだって、ユーリだって――いや、男ならだれだってこんなふうに体を張るだろう。
「さあ、来いヌボー!」
シキが勇ましくヌボーに啖呵を切ったとき、またたくまに膨れ上がった火の悪魔が、ごうごう火の粉を舞い散らせて一歩つめ寄った。その周囲は蜃気楼でゆらゆらと景色が歪んで見えるほどに、破壊的な熱量をもっている。
――皮膚がチリチリ焼けるみたいに、痛い。
ヌボーはまばたくことのない目玉で、シキを舐るように見つめている。その視線もまた、肌を焦がすような熱を帯びていた。
「うっ……さあ、来い……」
こめかみに冷たい汗が流れ、そして凍った。
ちなみに、とくべつなにか策を練っていたわけではない。加えて、ヌボーのうめき声のような叫びが、シキの勇気をあっさり刈りとってゆく。
シキは、じりっと一歩、後退する。
勇気も自信も見栄も、どんどんしぼんでいくのが自分でもよくわかった。
「ああ……おぉ……」
「……やっぱ、だめだああっ!」
ヌボーが燃える手をぐんと伸ばしてシキをわし掴もうとした寸前でかわし、持てるすべての力をふりしぼって、雪を蹴った。
敵前逃亡とは、まさにこのことだ。
「うわああああっ!」
「まて、まて……」
背後からヌボーが迫り来るなか、ほどなくして先行するフェイメルとリジルの背中に追いついた。
リジルが驚いて目をみはった。なにせ、身を挺して魔手から逃がしてくれたはずの本人が、すぐに悪魔をひき連れて現れたのだから。
「ごめんリジル、やっぱ全然だめだった!」
「そ、そうか……」
……先ほどまでの勇ましさはどこへ行ったのかと、非難がましい視線がなんとも胸に痛い。
そこで、憐れな少年に同情して追走の脚をゆるめる――などということはなく、ヌボーは耳障りな叫び声をあげて、問答無用で三人に迫った。
ついに、老婆のしゃがれ声が、すぐうしろで轟いた。
「おまえたちがわたくしの黒竜王を奪いよったのか!」
その直後、フェイメルの叫び声がシキの背後に流れていった。シキとリジルは足を止め、はね上がった心臓を置いて即座にふり返る。そこで見たものは、長い銀の髪を焼きちぎられて、引き倒されたフェイメルだった。
ゴムの焼けるような、思わず鼻をしかめてしまう悪臭が、弱い風に乗ってシキの鼻腔をつく。
ヌボーがさらに手を伸ばした。
「フェイメル!」
「きゃああっ!」
助けに戻ろうと踵をまわしたときにはもう、炎の手がフェイメルの顔面を掴んでいた。
じゅっと肉の焼ける音と、焦げる臭いが同時に襲って、シキの胃をガツンと叩いた。吐き気がのどにせり上がってくる。それを堪えて、おぞましい光景に愕然と立ち尽くした。
覆いかぶさるヌボーは一度フェイメルから離れて、ちがう、ちがう、と苛立って首をふっている。
「うああ、あ……っ!」
フェイメルは両手で顔を覆って、激痛と衝撃にもんどりうち、陰惨たる嗚咽をもらした。手のすき間から、顔の皮膚が焼けただれて、べろりとむけていると気づいた瞬間、シキの背中に寒気と、怒りが稲妻のごとく奔り抜けた。
「あぁー……わたくしのかわいい黒竜王……」
炎の手が再度、伸びた。その刹那。
「触るなっ!」
まるで反射のように手足が無意識に働いて、シキがそう叫んだときには、すでに火の悪魔とフェイメルの間に滑り込んでいた。そして、立膝のまま、悪魔を制するべく右腕を掲げるようにして手のひらを向け、もう一方の腕は背後のフェイメルを守るようにかざした。
「フェイメルに、触るな!」
ふたたび強く制する。
およそ数秒とたたないうちに、ヌボーは全身の炎をざわざわと揺らし、ふと思い立ったように体の向きをくるりと変えた。
「おお……どこだ、どこにおります……」
やがて、ふらりと動き出したかと思うや、ぞろり、ぞろりと、また雪山をさまよい歩きはじめた。
シキとリジルは、卒然と死が去っていく様を、息をつめて見つめる――。
ヌボーの姿が視界から完全に消えたのを確認するや、シキとリジルはすぐさまフェイメルに向き直った。すさまじい火傷に耐えかね、身をよじる友に呼びかけてみても、激痛がすべてを遮断していた。
「雪で、冷やさないと!」
そうして雪をすくい上げた手を、リジルが鬼気迫る形相で止めた。
「あの悪魔の炎に、雪など通用しない!」
雪を融かさず歩いていたヌボーの姿を思い出して、胃の中が急激に冷えていくのを感じた。もちろん、寒さとはべつのものだ。
「……フェイメル!」
だんだん嗚咽が弱々しくなり、身もだえするかわりに全身がガクガクとふるえだした。呼びかけにも応じない。
意識が遠のきはじめている。このままでは、数分ともたないことは目に見えていた。
すっと伸びた鼻筋も、いつも気品の満ちた微笑を浮かべていたくちびるも、すでに見るも無惨にただれ、くずれてしまっている。
「だめだ……学校に戻って手当てを……アイゼン先生に治療してもらわないと……!」
「だが、戻るすべがない……!」
シキは自分の無力をこんなにももどかしく感じたことはなかった。それは、リジルの表情を見れば同じ思いなのだろう。
「けど! このままじゃ……」
シキはとっさに親指に目を落とした。
――あのくらいじゃ、助けられない……!
迷っている時間はない。
シキは眉間にぐっと力を入れたまま、努めて平静に居住まいを正した。
「――リジル、たしか、短剣をもってたよね」
「まて……まってくれ、シキ! フェイメルはまだ生きている……まだ生きているんだぞ?」
ぞっと顔をこわばらせたリジルに、シキはうなずいた。
「わかってる、いますぐ楽にしてやろうなんて、考えてないよ」
「じゃあ、なにを……?」
「もう猶予はない。あとで説明するから、短剣を僕の腕に突き刺してほしい」
リジルは目をむいた。
なにを言い出すんだ、気がふれたのかとその青い目が諭してくる。
「お願いだ」
「……短剣は、ある、が……そんな、正気の沙汰じゃない!」
「急いで……! 自分じゃビビって深く傷をつけられない、だからリジル、きみに頼むしかない……僕を信じて! このままだとフェイメルが死んでしまう!」
コートも制服の上着も、シャツもめくり上げて、腕を突き出した。
シキの迫力に気圧されたのだろう、リジルは声をつまらせた。
くちびるをわずかに開いて、なにかを言おうとして、そのまま閉口した。そしてうなずく。
「……わかった、信じるよ」
言うや、シキの目に映らぬ速さで短剣引き抜いたと思うと、そのまま刃を縦に突き刺した。
肉を穿つ気味の悪い音だけが、雪山に染みこんでいった。
「――っ!」
ゴリッといやな音が頭蓋骨に響いた。すぐに舌の上に鉄さびた味が広がって、硬いものを血と一緒にフッと吐き出す。それが奥歯のどれかであることは、確認するまでもない。
シキが歯を食いしばって短剣を引き抜くと、そこから開け放った蛇口から水があふれ出るがごとく、勢いよく血が噴きあがった。
「……な、んだ」
それを見るやいなや、リジルは眉のあたりをくもらせた。いや、むしろ得体の知れない存在を目の当たりにして、背筋を粟立たせているような顔だった。そんな彼女を、シキはまともに見ることができなかった。
「血が……」
黒い、と言いたいのだと、シキにはよくわかっていた。
「……本当はだれにもこんなことをしちゃいけないって、父さんとの、約束だったんだ……知られてはいけないって」
痛みを必死に堪えて、シキはあふれる大量の血をフェイメルの顔面にぼたぼたと注いだ。ただれてめくれ上がった皮膚が、みるみるうちに修復されて、鼻も、くちびるも、すべて元どおりになるには、ほとんど時間を要さなかった。それを確認して、シキはすばやく腕の傷口を手で覆った。
それからほどなくして、フェイメルがゆるゆるとまぶたを持ち上げた。
「フェイメル、まだどこか痛むところは、ある?」
「――え……?」
シキを見つめ返す目が、大きくなった。
ゆっくりと頬に、鼻に、くちびるに触れて、肩の上あたりの長さになった髪に、彼女はするりと指を通した。
「わたし、いま……顔を、焼かれて……」
「いつもどおり、美人だよ」
そういって、シキはほほえんだ。すべての感情を胸の内に閉じ込めて、ただ笑った顔を作ってみせる。
「こんな、ことって……」
ぼう然とつぶやいたフェイメルの横で、リジルはぼんやりとくちびるを動かした。
「シキが、治してくれたよ」
「……僕の体質はみんなと……けっこう違っててさ、怪我を治せるから、だれにも知られないようにしてたんだ……」
もうすでに傷がふさがっていることは、あえて伏せたままにした。
自嘲気味に笑って、所在なく視線を腕に落とした。
これを知ってふたりがどんなふうに感じるか――想像するにはあまりにもたやすい。
それは、シキに突き刺さるふたりの視線が物語っていた。
「化け物」
そんな幻聴まで、耳の奥から響いては、シキをなじってゆく――。
「ああ――」
フェイメルが何事かつぶやいた声は、あたりに吹きつける弱い風にかき消されて、シキにはほとんど届かなかった。
いままさに、ふたりは僕を気味の悪い化け物のように見ているんだろうか。
いいや、こんな体質だと知って、そう思わない人はいない。
僕は、キマイラなんかよりもさぞ不気味だろう……。
「……シムルを迎えに行こう」
シキは、嫌悪の色を浮かべたふたりの表情を直視しないですむよう、うつむいたまま、立ち上がった。




