溺れる
――もう、だめだ。
空気を切り裂いて迫る巨大な尾は、もう目の前。
まったく死の現実味がないなかで、その結論にたどり着いたのはことのほか、早かった。だが、肩からはね上がるように飛んだ相棒はそうは思わなかったらしい。
「リュゼ!」
「ガウッ」
かわいらしい気合の掛け声をあげたかと思いきや、仔犬ほどの小さな体は、風船よろしくぐんぐんふくらんでゆく。ひと息にシキの体の三倍ほどにふくれあがると、そのはちきれそうな腹で怪物の尾を受け止めた。
ばうんと鳴った、なんともシュールな音。いや、切迫した状況でのまぬけな効果音が、シキの内側から恐怖を拭い取った。
しかしそれも長くはつづかない。
膨張したリュゼの腹が次第に押しつぶされていき、いつ均衡がやぶられてもおかしくない状況なのだ。そうなればリュゼとシキ、ふたり仲良くせんべいみたいに薄っぺらになるのは目に見えている。
かろうじて受け止めるリュゼのからだが、じりじりと後退していく。同時に、風船みたいなリュゼを支えるシキもまた、怪物の力に押されていた。
「くっ、そお……!」
とうとう耐え切れなくなったリュゼはまたたく間にしぼみ、予想どおり、ふたりそろって弾き飛ばされた。とはいえ、体をしたたか打ちつけながら地面を何度も転げただけで、ぺちゃんこにならなかったのはひじょうに幸運だった。
すぐさま、くらくらする頭をもたげて、シキは力の入らない足を無理に立たせた。
「このままじゃ……なぶり殺しにされる……ベルガモット先生のときよりサイアクだ……」
そこでふと、ベルガモットの言葉が脳裏をよぎった。
『授業をはじめる』、と。
「そうだ、そうか、これは授業なんだ……」
そして、ジン・ホランドは「闇の魔術に対抗できる術は、いままでの授業の中にすべてあった」と言ったではないか。
必ずこの怪物を倒すヒントがあるはずだ。
「これは授業で、ホランドの闇の魔術だ。この対抗術は、たしか――詠唱があったはず……」
詠唱。それはつまり、魔力のないシキには致命的な戦術だった。
「くそ……だめだ、僕には魔法も魔術は使えない……」
弱々しく吐き出すその横で、全身ボロボロになったリュゼが立ち上がった。
その目はけっしてあきらめてなどいない。
「……そうだ、あきらめちゃいけない……闇の魔術には――勇気を示すんだ」
呪文のようにつぶやいた、まさにその時。
ぐるる、と真後ろで響くうなり声。
ふり返った先に、巨大な鉄の塊のようなそれは、いた。
シキは無意識に一歩、二歩、後退する。
怪物の全貌が、あきらかになった。
薄闇の中に巌のような竜の――魔術史の教科書で何度も見てきた――姿がそこにあった。されど、紙の上に描かれた恐ろしいトカゲとは、比べるべくもない。
全身を覆う漆黒の鱗、常闇色の双眸、大きな口には禍々しい牙が連なり、のどの奥からちろちろ炎が見えた。
地におろした太い四肢、そして、その先に生える凶悪な爪。少しだけ広げた黒い翼。おそらくそれを全開にしたのなら、旧闘技場では手狭だろう。それほどに、竜は大きい。
歴史Ⅱの教科書には、黒炎を吐き出す竜の姿。
残虐の竜王。
通り名を、悪竜。
五国のうち、北国を治める王、その名は――黒竜王。
「黒、竜王……」
全身が麻痺したような感覚に、声がつまった。だが。
ビビるな!
ぎゅっとこぶしを握って、おのれを叱咤する。
肩にリュゼが飛び乗り、ぴったりシキに寄り添った。
――そうだ。僕はひとりじゃない。勇気を示すんだ。
「かかってこい……! 闇の魔術になんか、負けるか!」
「それは、どうかな」
深閑とした空間に、ひどく緩慢に響く声。
暗く、それはまるでだれかを呪いでもするような、昏い声だった。
目の前で巨大な黒い竜の口が、ふっとゆがむ。
それはまごうことなく、竜が発した言葉だった。
竜は鋭い爪の生えた指を、なにもない一点へと向けた。つられるようにシキはそこを見つめた。
シキからどれだけ離れているのかわからなかったが、あまり遠くないそこに、ぼんやりと人影が見えるではないか。ついさっきまではだれもいなかったはずだというのに。
目を凝らせば、それは見覚えのある人物だった。
背が高く、引き締まった体型。ぼろぼろのマントを身につけ、長い剣を手にしている。精悍な横顔。切れ長の目におさまる暗紫色の瞳が、なにもない場所をキッとにらんでいる。
「とう、さん……?」
声が、震えた。
ちがう、これは記憶だ。
そう心の中できっぱり否定する。
目の前の黒竜王が音もなくするりと首を伸ばし、剣を構える男――父へ獰猛な眼光を向けた。まるで獲物に狙いを定めた、捕食者のそれだ。
「父さん!」
一歩踏み出すと、ゴツンとなにか硬いものがつちふまずにあたった。それは、父の剣だった。なぜ、ここに?
はっと顔を上げる。
父はなにかを庇うように、しゃがみ込んでいた。
シキは、知っている。なにを庇ったのかを。
父が腕に抱くのは、十歳の、シキ。
「や、やめろ……いやだ、やめろ……!」
全身が震えだした。
ちがう、あのとき父さんと僕を襲ったのはこの怪物ではない。魔物だ。これは現実じゃない。これは、闇の魔術なんだ……!
「おまえのせいで、こいつは死ぬのだ」
くろがねの目が、にやりと笑った。
嘲笑。
巨大な口がさらに大きく開いて、さらにその奥では真っ赤な炎がマグマのようにたぎっている。
「おまえは、けっして抗えない」
ふたたび昏く湿った声が、シキの頭の中に響いた。
それが、なぜだか自分の声そのものに聞こえた。
地獄の窯のように開いた口が、父に向く。
「やめろっ!」
絶叫。
のどが張り裂けんばかりに叫んだ声は、緩衝材のような暗い世界に吸い込まれた。
「やめろ! 父さんから離れろっ!」
無我夢中で駆け出していた。
頭にのぼった血が沸騰し、蒸発してしまいそうだ。
記憶の海に溺れていることさえ知らずに、拾いあげた剣を手にして黒竜王へと斬り込む。
「殺してやる! 僕が、おまえを――」
「そうだ、それがおまえの本質だ」
ふたたび、怪物がにたりと嗤う……。
「黙れっ!」
「――シキ!」
だれかが名前を呼んだ。
そう、『シキ』は父がつけてくれた、僕の名前。
そう考えた直後、炎の爆ぜる音が耳朶をつき抜ける。
爆ぜる音に混じって、父の声を聞いた気がした。
幼かったあの日に、父が残した最期の言葉――。
『シキ……ずっと、見守っている……俺の、愛しい息子……』
「――ヴァグナー! ヴァグナー! 聞こえるか? おい、返事をしろ!」
「ホランド先生、落ち着いて。やっと脈が正常に戻ったところですから……」
ジンの声ならまだしも、おっとりした老人の声――養護教諭のアイゼン先生の声がどうして聞こえるんだろう。
シキは水底に沈んでしまったような、くぐもったふたりの声を聞いていた。
ぼんやりと目を開ければ、白い天井がぐるぐる回った。
「ヴァグナー! 無事か?」
肩を掴んでくる手はほっそりしているのに、意外と力強い。
目の前に見えるのは、ダークグリーンの眼に金髪のポニーテール――ジン・ホランド教諭と、相棒のリュゼだ。
「おお、よかった、具合はどうだね。ちょっとホランド君、あんまり揺すっちゃいかんよ」
注意を促す声はアイゼン先生。
――僕は、どうなったんだろう?
「ここ……保健室、ですか……?」
「ええ、そうですよ。授業中にきみが意識を失ったと、ホランド君が――いや失敬、ホランド先生が担ぎ込んできてね」
実際シキを担いだのはバショカフだったらしいが、教師のなかでいち早く保健室へと指示を出したのはジンであったと、アイゼンがこそっと耳打ちしてきた。
「みんなは……?」
「ベルガモット先生が引率して、生徒たちは全員教室へ戻りましたよ。授業は中止です。いまは五時間目の授業中です」
丸めがねの奥にある目が、気遣わしげに細まった。
「僕、どうなったんですか?」
「どうもこうも、闇の魔術をかけてしばらくしたあと、お前だけが突然ひざをついたと思ったら、気を失ってぶっ倒れたんだよ!」
「僕だけ、ですか?」
「ああそうだ。ったく、死んだかと思ったじゃねえか! ビビらせんなよ!」
ジンがハァーっと深く深く息を吐き出した。どっかり丸椅子に腰掛ける。
リュゼがしきりに首もとへ頭をすり寄せてきて、心配したんだぞ、と何度もいわれているような気がした。
「きみのご学友、みんな心配していますよ。とくにあの四人ときたら、きみが目を覚ますまでここにいる、といってごねるし。もうまもなく五時間目も終るから、目が覚めたことを伝えてきましょう。少し待っていなさい」
アイゼンはにっこりほほえみ、保健室をのんびり出て行った。
きっとアイゼン先生の歩調なら、授業がちょうど終る頃に教室に着くだろう。
消毒液のにおいが染みついたまっ白な部屋に、こうしてシキとジンだけが残された。




