“キラキラバードフードをあげる手伝い”
*
前日、突如として吹き荒れた異例の猛吹雪は、一晩経ってすでになりをひそめていた。
ただ、いつもの曇天はなく、双子の月も姿を隠している。そのかわりのように、こぶし大もある氷のつぶてだけが、ごろごろと大地に残されてた。
気味が悪いくらい、静かな朝。
初夏とは名ばかりの冷えた世界に、息も凍る空気だけが充満していた――。
キリクは腰に手をあて、もう片方の手を額にあてて、長く息を吐いた。
まだ生徒が寝静まる早朝だというのに、この教務室の扉の向こうでは教頭の犬がここぞとばかりに耳をそばだてている。そのうえ、部下との言い争いだ。
頭が痛くならないわけがない。
「……わかりましたわかりました。卿がおっしゃるとおり、命に危険が及んだときだけにいたしましょう」
「わかったようには聞こえませんね……」
「ですが、おれが過保護ではなくて、卿がシキを甘やかしているように思いますよ!」
リュゼがふくれっ面でキャンキャン吠える。
部下の放言に、キリクも思わずカチンときてしまった。つねに紳士のふるまいを心がけているキリクでも、今回ばかりは黙っていられない。
「私は甘やかしてなんかいませんよ! いつも厳しくしていますとも! きょうだって、こうして鳥小屋でキラキラバードフードをあげる手伝いを……」
「そんな簡単なこと、ご自分でできるでしょう!」
ことごとく反発してくるリュゼに、大人げないと思いつつも、むっとなってついつい力が入る。
「いやいや、まだ手袋が編みあがってなくて寒いのです! だからシキに頼んだのに、おまえが魔法で手伝うから!」
「シロガージョにつつかれて耳に穴が開いたんですよ!」
「それは申し訳ないと思っていますが、なにも餌やりから小屋掃除、果ては鳥小屋の改築まで……! 結局シキはなにもしていないではありませんか!」
喧々囂々の言い合いのさなか、シキがおずおずと間に割ってきた。
「あの、さっき痛み止めの薬も飲んで痛くなくなったし、次からモタモタしないで、ちゃんと僕が――」
「だからおまえは過保護だというのです!」
「はいはいはい、これからは鳥小屋の改築はいたしませんよ」
すっかりふてくされた様子で、リュゼがぷいとそっぽを向いた。
――主の私になんて態度だ。
キリクは怒りにまかせてむっとくちびるを噛んだ。
だが、頭が痛いのは扉の向こうのモリスも同じだろう。なんといっても、この部屋に入ったときはキリクとシキだけだったのだ。ところが声は三人分あるのだから、いま、モリスはひとり増えた人物がだれなのか、少し足りない頭を必死に働かせているに違いない。
彼には真相にたどり着くことはできないだろう。
いや、たどり着けるわけがない。
「もう結構です。シキ、部屋に戻っていいですよ」
ひらりと手を扉へ向ける。
すでにリュゼは金色の霧となって、勝手に指輪へ戻っていた。
一礼してドアノブに手をかけたシキに、キリクがふと思い出したように呼びとめた。
「昼食のときにもう一度、渡した痛み止めを飲んでくださいね」
「わかりました」
ふたたび一礼をしてシキが教務室から出ていった。その直後、扉の向こうからモリスの叫び声が聞こえて――
「あっ、……いや、わっしは、あの、えー……あれだ! たまたま、ぐうぜん、落し物をしちまって、その……探しててだな」
「はあ……?」
扉越しに聞こえるしどろもどの言い訳に、キリクは苦く笑って軽く頭をふった。
もっと上手い嘘がつけないものか。
シキの足音が遠ざってゆく。
「ふん、悪魔の子分め……まったく不愉快だ! あの下種な悪魔の手下だけになんちゅう生意気な! あの老いぼれババアはなにを考えてあんな悪魔を教師にしたり、得体の知れない小僧を入校させたり――あいたっ! くそっ、なんだ? 虫に刺されたのか? まったくもってツイとらん……」
はああ、と空気がもれるようなため息が聞こえた。
「それにしても、部屋に入ったのはクソ悪魔とその子分だけだったのに……三人目の声はだれだ? 子どものようだが……」
足音とぼやき声が廊下の角を曲がったとき、キリクは教務室から廊下にパッと移動した。頭上でぶんぶんうなりをあげて旋回するドクドク蜂を目で追い、ゆったり歩きはじめる。
「さすがに『老いぼれババア』は聞き捨てなりませんでしたか」
さも怒れる蜂に問うように、ひとりごちた。そうしてくすくす肩を揺らしながら、三年生の授業へと向かう。
ブーンと甲高い羽音を響かせる蜂は、キリクと反対方向へと、飛んでいった。
*
午前の授業が終って、大勢の生徒が食堂に集まっていたときだった。
散弾銃が乱射でもされたかのように、とつぜん窓がバチバチ音をたてはじめた。
「なんやこれ……さっきまではくもりやったやろ」
かじりかけのパンを皿に置いて、ユーリはぼう然と窓の外を――いや、激しい雨でまたたく間に視界がさえぎられた窓を見る。
「ウソだろ、今度はどしゃ降りかよ……」
いつもへらへら笑うウルトさえ、あっけにとられて口からパンをぽろりと落とした。
前日の猛吹雪、そしてきょうは洪水のような豪雨。
雨でなにも見えなくなった窓際に、生徒がどっとつめ寄せた。
一階の食堂にも響く、地の底からわき起こるような、あるいは激しく叩き落ちる瀑布のような、くぐもった水の音。それはだれにでもはっきりと判る、北国が崩れてゆく音のようだった。
シキの胸にざわざわした感覚が広がる。いましがた飲み込んだ痛み止めのカプセル薬が、のどの奥につかえているような感覚だった。
「……こんな天気、これまでありませんでしたわ」
フェイメルの声がふるえた。
シキの隣にやってきた彼女は、ユーリと同じく、ぼう然と窓を見つめながら、立ちすくんでいた。
北国は坂を転がっているのだ。
午後の授業は光の魔術と闇の魔術学で、課外授業が予定されていた。もちろん、この悪天候では外に出れるはずもなく――。
「闘技場で授業するのって、はじめてじゃない?」
「そーだな」
白い息を吐きながら、シキは横隣りを歩くウルトにとりわけ気楽に声をかけた。だがポケットに両手をつっ込む友の返事は、思った以上にすげない。
魔法学校の敷地内にある二つの闘技場。そのひとつは開校当時からあるもので、もうひとつは従来の二倍の広さと造形美をそなえた、新設の闘技場である。
古いほうはゴーストたちの憩いの広場として、いまだに活用されている。が、最低限の整備しか残されていないため、渡り廊下は身を切るような寒さだった。その廊下を、キャメロット生は列をなして進む。
それにしても、ウルトの口数がめずらしく少ない。
それが寒さと無関係であることくらい、シキにも理解できていた。
「……どこの家からも連絡入ってないって、さっき廊下でホランドが教頭と話してたよ」
それとない気づかいを察してか、ウルトがはっと顔をあげた。
「そか、うん、母ちゃんも弟も、そんなヤワじゃねぇしな」
「……そりゃそうだよ、なんたって、ウルトの家族じゃん」
「おいおい、どういう意味だよ」
白い歯を見せながら繰り出されたグーパンチが、シキの肩に当たる。
遠慮がないから、案外痛いときた。
「わりーな、ちょっと、気が滅入ってたみたいだ」
こんなとき、もしもクラスメイトがアバロン生だったなら「お前は心配する家族がこの世にいないから、いいよな」などという嫌味をもらっていたかもしれない。だが、このクラスにそんな性根の腐った者はだれひとりとして、いなかった。
「よっしゃ、せっかくの実技だし、気合出すぞ!」
旧闘技場の扉をくぐったとき、ちょうど本鈴が鳴り響き、次々にキャメロット生が集合しはじめた。
丸い場内、むきだしの地面、ドーム型の天井――シキには見覚えがあった。
――ここ、一年の期末試験でベルガモット先生の試験をやった場所だ……。
長らく放置されて、すっかり荒れた土が一面に広がるこの場所には、あまりいい思い出はない。
――あんな命がけの試験なんて、二度とごめんだな。
「全員そろったな」
一瞬でシキらの前に現れたのは、ジン・ホランド――と、幻魔獣学のベルガモット。
「外で闇の魔術の対抗術を実践する予定だったが、できそうもねえから、この旧闘技場を使うことになった。新しいほうはこの時間、三年が使ってるからな」
ジンのきつい猫目がぐるりと生徒を見回す。
「きょうは特別に幻魔獣学と二科目合同授業だ。二時間ぶっつづけでへばんなよ」
古ぼけた円形の広場に、ジンの刺々しい声がこだました。整列するキャメロット生は初の合同授業にすっかり視線が泳いでおり、それはシキも例外ではなかった。
「いま、ホランド先生から話があったように、二科目あわせての授業だ。つまり、使役獣を使った闇の魔術の対抗術を実践してもらう。闇の魔術は危険を伴う。したがって、授業中ふざけたまねをしていると、大怪我じゃすまされないことになるから、しっかり集中しなさい」
ベルガモットの冷たいグリーンの視線に、生徒はみな押し黙って話を聞いていた。
なんと最悪な組み合わせだろう。
ジンとベルガモット。
どちらも授業にはとても厳しい先生だ。しかもジンにいたっては、厳しいうえに性格があらぬほうへ曲がっているときた。
「各自、使役獣を呼び出すように」
ベルガモットが言うや、教鞭を頭上高く掲げたかと思うと、シキの目にはぼろぼろだったあの旧闘技場が、美しい照明器具からさんさんと光が降る、真新しい闘技場に映った。いや、足下の感触さえも変わった。荒れて窪みだらけだった地面ではなく、整備された硬い土だ。
これは魔法や魔術ではない。
幻獣の幻影術だ。
シキ以外には、鮮やかな魔法に映っただろう。
ジンが腰のホルスターから鞭を抜き、ばしん、と地面に打ちつける。ピリッと空気が震えた。
「オレがお前ら全員に闇の魔術をかける。使役獣と力を合わせて攻略すること。生徒同士協力することはゆるさねぇ。闇の魔術は物理的な攻撃ももちろんあるが、お前らの心に侵食してくる心理的な攻撃もある。これに対抗できる術は、いままでの授業のなかにすべてあったから、せいぜい脳みそ使うんだな」
「ちょっくら待ってくれ!」
どすの利いた、田舎くさい男の大声が闘技場にわんわんと響いた。
ジンが生徒を越して、じろりとにらみを利かせる。それにつられて、生徒はみな一斉に背後をふり返った。
大股でロエッタ・バショカフ教諭が手をふってやって来るではないか。その肩に乗った波打つ金色の被毛のフォレスト・キャットが高飛車に鳴いた。
「あんなネコ、学校にいたっけ?」
シキが声を落としてユーリ、ウルトに尋ねる。
「悪魔学のコンスタンティン以外で、オレは見たことなかったけど」
「……なんや仕掛ける気ぃかもしれへん。好都合なことに、これから俺ら全員に闇の魔術がかけられるからな……」
そう、シキ・ヴァグナーを始末するにはまさに好都合なのだ。
「二科目合同授業だってな。後学のために、俺にもいっちょ見物させちゃくれねえかい」
一本歯の抜けた口で、にかっと笑う。だが、対するジンのくちびるはぴくりとも動かない。
「おいおい、バショカフ先生、自分の授業はどうした? まさか教師がサボったわけじゃねぇだろ?」
「午後から授業が入ってなかったもんでな。二年でめずらしい授業をやるって職員室で聞いたもんだから、飛んできたっちゅうわけよ」
バショカフが豪快に腹をゆすっても、ジンは不機嫌な表情をはりつけたままだった。
いいだろう、と応えたのはベルガモット。
「バショカフ先生にはご観覧いただこう。それに、文字方陣学の大権威である魔法使いが居てくれるとなれば、危険は少なくなるだろうしな。まったく狙ったように、じつに良いタイミングで来てくださった」
ベルガモットがにべもなくいって、バショカフへ視線を投げる。
大男はどう勘違いしたのか、親指をぐっと突き出し、これまた満面の笑み。
「では諸君、授業をはじめよう――健闘を祈る」
シキの目には、ジンが呪文を唱えながら鞭をふり下ろす瞬間までしか捉えられなかった。
あとは意識がもうろうとしていた。
ふと気づいた時には、すでにあたりは薄暗く、近くにいたユーリやウルトの姿が見あたらない。しかも、ふたりだけではない。どうしてかクラスメイト全員が姿を消していた。
あわてて周囲を見回してみたものの、自分ひとりだけがその場にぽつんと残されているらしい。
だんだん薄暗さにも目が慣れてきた、その時。
ふいに、どこからともなく低い唸り声が聞こえた。
ジン・ホランドが飼う魔獣ベルクルのそれよりもはるかに低く、あきらかに大きい。
去年針の森で遭遇した魔獣の群れなどとは比べものにならない凶悪ともいえる音は、どんどん近づいているようだった。
湿ったうなり声。腹に響く重低音。熱い息が背中に、首筋にかかる。
姿が見えない。
全身が得体のしれない危険を感じて、粟だつ。
――怖い。
いままで感じてきた怖さとは、まったく質が違う。
なぜそう感じるのか、なぜそう思うのかは分からない。
その恐怖は自分の影のように、すき間なく、ぴったりと貼りついていた。
シキは目に見えないそれから逃れるために、反射的に走り出した。だが、どこに逃げる場所があるだろう。あたりは薄闇が支配している。
止まないうなり声、まとわりつく熱い吐息、そして、刺すような視線。
回しているはずの足が、震えた。
――みんなはどこなんだ……。
とうとう走ることをやめて、その場両手両ひざをついたとき、そこで、右手に一筋の光明を見つけたのだ。
「リュゼ!」
右手の指輪に向かって、考えるより先に口が動いていた。
金色の霧がパッと散って現れたリュゼは、シキの肩に飛び乗るやいなや、声をひそめて、
「なにか、いるのか?」そうささやいた。
「わからない……でも、なにか、化物みたいなのが……!」
「シキ、おれはここでおおっぴらにはしゃべれない……もともと魔獣は人間のことばをしゃべらないからな」
「ここにはだれもいないんだ、いるのは――」
慎重かつ素早くあたりに目を配ってみるも、いまだにうなり声の影すら捉えられなかった。だが、たしかに息づかいを感じる。
間違いなく、なにかがいるのだ。
ずしん、と地面が揺れてシキの体がぐらりと揺れた。
もう一度、ずしん、と地面がしびれる。
「うなり声が、さっきよりずっと近い……」
肩の上で、小さな相棒が全身の毛をブワッと逆立てた。
来るぞ、といっているのを直感した。
真横からごう、と熱い息がかかった。たったそれだけで皮膚がじりじり焼けて、焦げるような痛みを伴う。そのすさまじい風圧で目を細めたとき、シキははじめてそいつの姿を、捉えた。
シキの顔の、すぐ横で巨大な目玉がギョロリと動く。それは自分の顔と同じ大きさの、鉄の塊のような目玉だった。
「あ、うあっ……」
がくん、とひざが落ちる。
恐怖で叫び方を忘れてしまった口が、ぱくぱく空気を噛んだ。
次いで、巨大なそれの、おぞましい咆哮。
ガパッという擬音が、食われるという結論をはじきだした。もはや逃げることに意味があるかも、シキにはわからない。それでも、くにゃくにゃになったはずの足をふるい立たせて、無我夢中で走った。
ガチン、と金属のかち合う音が鼓膜をビリビリふるわせる。
目の端でとらえた、太く、尖った鋭い牙。それが北国の急峻な峰のごとく連なるのだから、これに捕まれば、どんな生き物だってひとたまりもないだろう。
間一髪のところで怪物の牙から身をかわした。
「わぁあああああっ!」
声の限り叫んで、また闇雲に走りだす。
すぐさま、ギラギラとつや光りするうろこに覆われた物体が、風を切って水平に迫ってきた。
尻尾だと気づいたときにはもうすでにシキの目の前。
巨大なハンマーのようなそれに打たれれば、今度こそ死んでしまうだろう。
間に合わない……!




